第二話 運命が動き出す場所
亮は店で使う食材を仕入れるため、いつもの道を歩いていた。
買い出し先へ向かう途中には、最近大きなホテルの建設が始まったばかりの場所がある。青雲洞のリゾートホテル建設予定地だ。
そこには今日も、何枚もの横断幕が風に揺れていた。
『この街を壊すな!』
『住民の声を聞け!』
亮はふと足を止める。
「……またやってるな」
反対運動をする住民たちの何人かは、亮の店にも足を運んでくれる常連客だった。 彼らからは、何度も深刻な表情で話を聞かされていた。立ち退きの説明も不十分なまま工事が進められていること。話し合いを求めても一切応じてもらえず、示された金額を拒めば、容赦なく圧力をかけられること――。
結果として、住民たちはあっという間に立ち退きを完了させられていた。
「……悪質な力技の達人やな」
亮は思わず低く呟いた。
その時だった。
遠くから黒塗りの高級車が二台、滑り込むように現場へ入ってきた。
車を見た瞬間、住民たちの空気が一変する。張り詰めた緊張感が現場を包み込んだ。
先頭の車が止まり、中から降りてきたのはソンファ・グループ副社長の側近たちだった。彼らは威圧的な足取りで住民たちの前に立ちはだかる。
「もう話は終わっているでしょう」
「ここは工事現場です。速やかに移動してください」
取り付く島もない冷淡な対応に、住民側から激しい怒号が飛んだ。
「ふざけるな!」
「俺たちの話を一度でも真面目に聞いたことがあるのか!」
中でも血の気の多い男が一歩前へ踏み出し、今にも相手に掴みかかりそうな勢いで詰め寄る。
その時――後続のもう一台の車のドアが開いた。
降り立ったのは、パク・ヨリだった。
その後ろから、緊張した面持ちでチェ秘書が続く。
ヨリは周囲の荒れ狂う惨状を見渡し、眉をひそめた。
「……何?」
報告を受けていた現場の状況と、目の前の惨状は明らかに違っていた。副社長からは「現場は穏便に解決しており、何の問題もない」と報告されていたはずだった。深刻な住民との対立など、何一つ聞かされていない。
ヨリが困惑しながら現場の状況を確認しようと前へ進み出た、その時だった。
先ほどの興奮した男が、ヨリの姿に気づいて歩み寄ってくる。
「おい! 話ができそうな奴が出てきたじゃないか――」
次の瞬間。
ドンッ!
副社長の側近が、住民の男を乱暴に突き飛ばした。
「やめろ!」
住民の一人が叫んだ。
ヨリが思わず声をあげる。チェ秘書も息を呑んだ。
「ちょっと、何を――」
制止の声も虚しく、副社長側の男は苛立ちを露わにし、拳を高く振り上げた。無防備な住民の顔面へ向けて、容赦なく拳が振り下ろされる――。
「ちょっと、やめ……」
ヨリが思わず声をあげる。
ガシッ。
重い衝撃音が響き、振り下ろされた拳がピタリと止まった。
「……!?」
そこにいたのは、買い出しの荷物を抱えたまま割り込んだ亮だった。
亮の力強い手が、男の拳を真っ向から受け止めていた。
静まり返る現場。
亮は男を鋭く睨みつけると、男の腕を振り払い、ゆっくりとヨリの方へ視線を向けた。
「おじさん大丈夫かい?」
倒された男を見る亮。
亮はゆっくりとヨリをみた。
「……これが、ソンファ・グループのやり方ですか?」
ヨリの瞳が、真っ直ぐに自分を見つめる亮を捉える。
初めて見る男。その強い眼差しと突然投げかけられた問いに、ヨリは言葉を失った。
「……私は……」
動揺を隠せないヨリに向け、亮は言葉を重ねる。
「まともに話し合いもせずに……金と権力で押し通すのが、ソンファのやり方なんですか?」
周囲から副社長側の男たちが脅すように集まってくる。しかし、亮は微動だにせず、ヨリから目を逸らそうとはしなかった。
ヨリは答えることができなかった。知らなかった――本当に、何も知らされていなかったのだ。だが、目の前で繰り広げられた暴力を目撃した以上、亮の言葉を否定できるだけの言葉など出てこなかった。
気まずい沈黙の中、チェ秘書がヨリの腕にそっと触れる。
「……こちらへ」
ヨリは一瞬、強く自分を見つめる亮の瞳を見つめ返した。
亮もまた、ヨリの瞳の奥にある動揺を見逃さなかった。
二人の視線が、痛いほど強く交錯する。
――最悪の第一印象。
ヨリはチェ秘書に促されるようにして、重い足取りで建設現場の奥へと消えていった。
亮はその寂しげとも取れる後ろ姿を、じっと見つめていた。
「……あの人が、この現場の責任者なんか……?」
ぽつりと呟いた言葉は、工事現場の喧騒の中に消えていった。
ふたりの長く切ない物語は、こうして最悪の出会いから始まったのだった。
現場視察の最中も、ヨリの頭からは先ほどの光景が離れなかった。
住民を庇い、側近の暴力を片手で難なく止めたあの男。そして、自分を真っ直ぐに射抜いたあの力強い瞳――。
(……思い出すだけで胸が逆撫でされるわ。私だって、今日初めて知ったことなのに……あんな乱暴なやり方で工事が進められていたなんて……)
こめかみを突き刺すような怒りが込み上げるが、すぐに胸の奥で苦い悔しさが広がっていく。
(……いいえ、ただの言い訳ね。知らなかったで済まされる話じゃない。あの男の言っていたことの方が、何倍も真っ当だわ……)
言い返せなかった自分自身への情けなさと悔しさに、ヨリは思わず唇を強く噛みしめた。
「……代表? どうかされましたか?」
隣を歩くチェ秘書の声に、ヨリはハッと我に返った。
「ええ……何でもないわ」
無理にいつもの冷徹な仮面をかぶり直すと、チェ秘書がスケジュールの確認を図る。
「この後、直接『ソンファ希望の家』へ向かわれますか?」
「いいえ……先に一度、本社へ戻るわ。副社長に時間を作るよう伝えてちょうだい」
「承知いたしました」
歩みを早めながら、ヨリは心の中で低く吐き捨てた。
(あのタヌキ親父……よくも抜け抜けと騙してくれたわね……)
本社へ戻ったヨリは、一直線に副社長室へと向かった。
重厚なマホガニーの扉を開けると、部屋の奥には重苦しい静寂が満ちていた。高級感溢れるインテリアと暗めの照明が、どこか不穏な威圧感を漂わせている。その中央にある巨大な執務デスクの奥で、パク・ドヒョン副社長がまるで獲物を待つ蜘蛛のように座っていた。
「副社長、あの反対派の住民はどういうことですか?」
ヨリは部屋に入りドアが閉まるやいなや、静かに切り出した。ハイヒールの靴音が固い床に響き、氷のように冷たい視線がドヒョンを射抜く。溢れ出そうになる怒りを完璧に押し殺し、冷徹な代表としての威厳を崩さない。
ドヒョンは慌てる素振りすら見せず、手元の書類からゆっくりと顔を上げた。椅子の背もたれに深く体を預け、口元にねっとりとした不敵な笑みを浮かべる。
「代表……そんな細かなことまで、私のプロジェクトで報告が必要でしたかな? 反対運動など、どの開発事業にも付き物でしょう」
ドヒョンは馬鹿にするような軽い調子で言い放つと、前かがみになり、両手をデスクの上で組んだ。その眼光には、年下の女性代表を見下す陰湿な野心がギラついていた。
「心配されなくとも、最後は綺麗に纏めますよ……私が、きっちりとね」
『力ずくでも黙らせる』と言外に告げるその言葉に、部屋の中の空気が凍りつく。一触即発の緊迫感が二人を包み込んだ。
だが、ヨリの瞳に宿る冷ややかな光は、少しも揺らぐことはなかった。
「そうですか。……次回の視察が楽しみです。副社長が、一体どのように『纏められる』のか」
挑むような笑みをうっすらと浮かべ、ヨリは真っ向からドヒョンを見据え返す。一歩も引かないその圧倒的な存在感に、ドヒョンの眉がわずかにぴくりと跳ねた。
「私に任せておきなさい……代表」
互いの野心と怒りが火花を散らす、息詰まるような沈黙。
ヨリはそれ以上一言も発することなく、視線でドヒョンを牽制しながら踵を返し、副社長室を後にした。




