第一話 悲しみを抱いて笑う人
暗く冷たい、終わりなき水の中だった。
蒼い光を乱反射させる泡の粒の向こう、愛しい人影がゆっくりと、確実に水底へと沈んでいく。
ソヨン……。
「ソヨン――ッ!!」
亮は狂ったように水をかいた。肺が潰れそうなほどの水圧も、身体を蝕む冷たさも、今の彼には感じられなかった。ただ、ソヨンの身体が暗闇に消えることへの恐怖だけが、彼を突き動かしていた。
(諦めるな……! 頼むから、俺の手を掴んで、生きるのを諦めるな……)
言葉にはならない魂の叫びが、心臓を激しく叩く。
彼女の瞳がふっと生きる意志を失ったかのように、諦めの光を帯びていく。それが亮には、何よりも耐えがたかった。
(ダメや、まだ終わらせんといて……! 俺が絶対に助ける、絶対に……!)
必死に伸ばした右手が、彼女の白い手首を掠める。
あと、ほんの数センチ。
「頼むから……離れんといて!」
掴みかけ、指先が触れ合ったその瞬間――彼女の身体はふっと何かに引き込まれるように、無情にも亮の指先をすり抜けた。伸ばした手は虚しく水を掻き、掴むべき温もりは、あっという間に暗闇の底へと引きずり込まれていく。
「ソヨン――ッ!!」
声にならぬ絶叫とともに――ハッと目を覚ました。
荒い呼吸が静かな部屋に響き渡り、視界には見慣れた天井が映る。
びっしょりと汗をかいた身体は布団の中にあり、頬を伝っていたのは冷たい涙だった。
(また……夢か……)
17年前から、ほぼ毎晩のように繰り返される同じ夢。
48歳になった今でも、ソヨンを助けることができなかったあの時の記憶が、容赦なく押し寄せる。
(なんで俺は……助けられなかったんや……。なんで……なんで……ごめん……ソヨン……)
胸を締め付けるような後悔と罪悪感。
(ソヨン……君がいない毎日が……これからも続くんやな……)
立ち上がれないほどの重圧に押しつぶされそうになりながら、ふと視線を壁へと向ける。
そこには、5歳の時に愛菜が拙い文字で書いた一枚の貼り紙があった。
『父さんが笑わないとママが悲しむよ、愛菜も悲しいよ』
その文字を目にした瞬間、亮は大きく息を吸い込み、頬を両手でパシッと叩いた。
「……よし、切り替える!」
いつまでも泣いているわけにはいかない。自分には、守るべき大切な娘がいるのだから。
亮はベッドから起き上がると洗面所へ向かい、汗をかいた顔を洗って歯を磨いた。鏡に映る自分の顔を軽く叩き、暗い表情を振り払う。
隣の部屋では、娘の愛菜がまだ夢の中だった。
台所に立った亮は、手際よく愛菜の朝食とお昼のお弁当を作り始める。鍋からは、丁寧に引いた一番出汁の豊かな香りがふわりと立ち上り、静かだった家の中に満ちていった。
「愛菜ー! そろそろ起きなくて大丈夫かー?」
亮が優しい声をかけると、奥の部屋からガタッと大きな音が響いた。
「ハッ!? やばい、寝坊したぁー!」
バタバタと慌ただしい足音が響き、愛菜が飛び出してきた。これが、竹内家の毎朝のルーティンでもあった。
「今日は学校か?」
「今日はアルバイトの日!」
「そっかぁ」
亮は目を細めて微笑んだ。
「じゃあ今日もしっかり朝食を食べていかなあかんな。」
そう言って振り返ると、すでに愛菜はテーブルにつき、用意された朝食を鬼のような早さで口に運んでいた。
「もうちょっとゆっくり食べんと、体に悪いよ……」
亮は苦笑いを浮かべながら声をかける。
「時間がないの……っ」
一気に味噌汁を飲み干した愛菜が、ふと箸を止めて亮を見上げた。その瞳に、かすかな心配の色が浮かぶ。
「そう言えば父さん、今日もうなされてたね……」
「なんやろなぁ……枕が悪いのかなぁ」
亮は愛菜に余計な心配をかけまいと、へらりと笑って誤魔化してみせた。
「そんなことより、お弁当忘れないようにな」
「やばい、本当に時間がない! 行ってきまーす!」
愛菜はお弁当をひったくるように持つと、玄関へと走っていった。バタンとドアが閉まる音が響く。
「気をつけてなぁ」
誰もいなくなった玄関に向かって、亮は静かに声をかけた。
竹内家の朝は、いつもこんな風に賑やかに始まるのだった。
ソウルの中心地に聳え立つ、ソンファグループの本社オフィスビル。その最上階にある会議室では、各部門の幹部を集めた朝のミーティングが行われていた。
円卓の中心に座るのは、ソンファグループ代表、パク・ヨリ。
隙なく整えられた漆黒の髪に、透き通るような白い肌。鋭くも気品を湛えた瞳と、無駄のない洗練された佇まいは、周囲の誰もが息をのむほど容姿端麗であった。
会議室には心地よい緊張感が漂い、進行中のプロジェクトの進捗が次々と報告されていく。ヨリは手元のタブレットに目を通しながら、淡々と、しかし完璧に業務をこなし、各担当部署へ的確な指示を出していった。
「――以上です。それぞれの進捗は15時までに提出してください」
ミーティングが終わると、ヨリは立ち上がり、側近であるカン室長とチェ秘書を伴って会議室を後にした。
代表室に戻ると、ヨリは今日のスケジュールをチェ秘書に確認する。
「本日は10時より副社長が進めている青雲洞のリゾートホテル建設予定地の現場視察と、16時に予定されている提携先との打合せとなっております」
チェ秘書は少しヨリの顔色を伺う。
正直なところ、副社長が進めるプロジェクトの現場視察は気が進まなかった。
だが、先ほどのミーティング後に副社長からかけられた言葉が、ヨリの胸に引っかかっていた。
『代表、私の方はすべて順調に進んでいますからご安心を。わざわざ代表が視察にお越しいただく必要もありませんよ』
余裕に満ちた笑みでそう言われたことへの違和感が拭えず、ヨリはあえて自分の目で現場を確認することに決めたのだった。
「分かりました。それでは視察後、16時までの間にソンファ希望の家に寄ります」
「承知いたしました」
チェ秘書はカン室長の顔を少し見る。
ヨリは17年前に両親を事故で亡くして以来、周囲と壁を作ってしまい、慕われるような存在ではない。大切な人を失う恐怖心から、まるで大切な人を作らないようにしているようだった。
そんな中でも、カン室長とチェ秘書はヨリを支えるため奮闘してきた。
「ソンファ希望の家に訪問されるのは随分と久しぶりですね」
ずっと気になっていたことをカン室長は分かっていたのだ。
「「それでは、今日もよろしくお願いします」




