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第十話 引き寄せられた三人

――日曜日の朝

「……」

亮はキッチンの作業台から、チラチラと何度もリビングの方へ視線を送っていた。

「……」

愛菜が姿見の前に立っている。

いつもより少しだけ時間をかけ、念入りに髪を整えていた。

前髪の分け目を手ぐしで直し、首を少し傾けて全体のバランスを確認する。

そして、もう一度鏡を覗き込んで納得したように微笑む。

「……」

亮はその愛くるしい姿を見つめながら、思わず口元を緩めた。

「そんなに気合い入れて、どこ行くんや」

愛菜が鏡越しにくるりと振り返る。

「え?」

「いや……別に」

亮は何でもない素振りで、コップに水を注ぎながら答える。

「……」

けれど、どこからどう見ても今日の外出を楽しみにしているのが伝わってきた。

「……しかしなぁ」

亮は少し真剣な顔になり、手元を止めた。

「ほんまにソンファグループの代表の人なんやろなぁ……」

愛菜は、呆れたように父を見つめた。

「そうです」

「……」

「ソンファグループの代表」

愛菜は、わざと一語一語をゆっくりと言い聞かせる。

「パク・ヨリさんです」

「……」

亮は腕を組み、うーんと唸った。

「そんな偉い人が……なんで愛菜と、そんな気軽に会ってくれるんや?」

「父さん」

「いや、だってな?」

亮は少し心配そうな顔を浮かべた。

「話は前から聞いてたけど……なんか、急に心配になってきたわ」

愛菜は小さく溜息をついた。

「大丈夫やって」

「でもな……」

「なに?」

「……誘拐されたりせえへんかな?」

「は?」

愛菜の動きがぴたりと止まった。

「……誰が?」

「ソンファグループ」

「なんで!?」

「いや、ほら」

亮は大真面目だった。

「大企業やろ?」

「だから?」

「何かこう……悪い人が狙っとるかもしれんやん」

「……」

愛菜は、しばらくの間父の顔をじっと見つめた。

そして――。

「父さん」

「ん?」

「父さんの頭の中……どうなってんの?」

「いや、普通やろ?」

「どこが!?」

愛菜は耐えきれなくなって吹き出した。

「はははは!」

「笑うことちゃうやろ」

「だって!」

愛菜は目尻に涙を浮かべながら言った。

「何の心配もいりません!」

満面の笑み。

「ヨリさんは、ほんまに素敵な人なんやから」

「……」

その眩しい笑顔を見せられると、亮もそれ以上は何も言えなくなってしまう。

「……お世話になる方やから」

亮は腰を上げた。

「挨拶だけしに行くわ」

「え?」

「それから帰る」

「……」

愛菜は一瞬、ぽかんと口を開けた。

そして、再びお腹を抱えて笑い出した。

「ははは!」

「何やねん」

「父さん!」

「ん?」

「ほんまに過保護なんやから!」

「過保護ちゃう、親として当然や」

「ふふっ」

愛菜は笑いながら父を見つめた。

でも、その眼差しはとても優しく、温かかった。

保育園の頃。

小学校の入学式。

遠足、運動会、参観日。

何か行事があるたびに、亮はいつだってこんな調子だった。

――大丈夫かな。

――ちゃんとできるかな。

――困ってないかな。

少し過保護で、少し心配性。

でも、いつだって自分のことを一番に想い、見守ってきてくれた。

愛菜は、そんな父のことが大好きだった。

「……分かった」

愛菜はクスッと笑いながら、バッグを肩にかけた。

「挨拶だけやで?」

「もちろん」

「待ち合わせ場所まで一緒に行くだけ」

「それだけ」

「絶対、変なこと言わんといてや」

「何を言うねん」

「心配やから言ってんの!」

「……」

「ほら、行くで」

「はいはい」

そして、二人は仲良く家を出た。

爽やかな日曜日の朝の風を受けながら、並んで歩く。

「……」

愛菜はふと、隣を歩く父の横顔を見上げた。

幼い頃からずっと、変わらず自分の隣にいてくれた背中。

「……」

愛菜は思わず微笑んだ。

「何?」

「ううん」

「何やねん」

「父さんって、ほんま変わらへんなぁって」

「そうか?」

「うん」

愛菜は、少し照れくさそうに微笑んだ。

「でも」

「ん?」

「私は、そんな父さんが大好きやで」

「……」

亮の足が、一瞬だけピタリと止まった。

「……急に何やねん」

「別に」

「朝から言うことちゃうやろ」

「言いたくなっただけ」

「……」

亮は少し照れたように視線を泳がせ、恥ずかしそうに前を向いた。

「……俺もや」

「え?」

「愛菜が一番大事や」

「はいはい」

「何や、その軽い返事は」

「ふふっ」

ふたりは笑い合いながら、愛菜とヨリの待ち合わせ場所へと歩みを進めていった。

愛菜を温かく見送るはずのその目的地で、亮とヨリが再び巡り会うことになるとは、この時のふたりはまだ知る由もなかった――。


 ――待ち合わせ場所

「……あ」

愛菜が前方の路肩を見つめた。

少し先の路上に、一台の車が静かに停まっている。

洗練されたフォルムの、真っ白なBMW。ハザードランプがオレンジ色に点滅していた。

「ヨリさんだ」

愛菜の声が、弾むように高くなる。

亮もその車へと視線を向けた。

「……えらい立派な車やな」

「そらそうやろ」

愛菜は呆れたように笑う。

「ソンファグループの代表なんやから」

そう言いながら、愛菜は少し歩く速度を上げた。

「ちょ、ちょっと待って」

亮も慌てて後を追う。少し早足になったその瞬間――。

「……」

胸の奥に、ズキリとわずかな痛みが走った。

「……っ」

亮は一瞬だけ胸元に手を当てる。しかし、すぐに愛菜に気づかれないよう手を離した。

(……大丈夫、前よりはかなりマシになってる……)

「父さん?」

「なんでもない」

「……?」

愛菜は首を傾げたが、すぐに車の方へ向き直った。

その時、白いBMWのドアがゆっくりと開き、一人の女性が降りてきた。

大きなサングラスに、ラフでありながら洗練された品のある装い。

いつもの仕事モードのような張り詰めた空気はなく、今日は秘書も連れていない。ヨリはどこか柔らかなプライベートの表情を浮かべていた。

「ヨリさん!」

愛菜が笑顔で手を振る。

ヨリは愛菜の姿を見つけると、ふっと優しく微笑んだ。

「愛菜さん」

「おはようございます!」

愛菜が駆け寄り、ヨリの前で足を止める。

「すみません、お待たせしてしまって」

「大丈夫よ。私が少し早く来すぎただけだから」

ヨリが優しく微笑む。愛菜が嬉しそうに笑った、そのすぐ後ろから――遅れて亮が近づいてきた。

「……」

その姿を認めた瞬間、ヨリの表情が凍りついた。

「……宇宙人?」

「……あんた?」

亮も足を止め、目を丸くする。

二人はしばらくの間、言葉を失って見つめ合った。

「何で……」

「何で……」

ほぼ同時に漏れ出た呟き。

「……何故!?」

「……何故!?」

愛菜が交互に二人を見比べる。

「……え?」

「……」

「えっ!?」

愛菜の瞳がどんどん大きくなっていく。

「うちの父と……ヨリさん、お知り合いなんですか!?」

「えぇと……」

ヨリが戸惑いながら答えようとした、その瞬間――。

亮が間髪入れずに割り込んだ。

「初めまして!」

「……え?」

愛菜が呆然と亮を見る。ヨリも目を見開いて亮を見つめた。

亮は何事もなかったかのように、ヨリへ向かってすっと右手を差し出した。

そして、ヨリの真っ直ぐな瞳を捉えると――。

「……」

パチンと、愛菜からは見えない角度でウインクしてみせた。

「……!?」

ヨリの頭の中に、巨大な疑問符が浮かび上がる。

(何……? 一体なんなの……!?)

けれど、亮の必死な表情を見て察した。何か、愛菜に言えない事情があるのだと。

ヨリは一瞬だけ迷った末、恐る恐るその手に合わせることにした。

「……初めまして。パク・ヨリです」

「竹内亮です」

愛菜は、差し出された手と二人をじーっと見つめた。

「……?」

「……?」

どう考えても、何かがおかしい。

亮は愛菜の突き刺さるような視線を全身に浴びながら、内心で冷や汗をダラダラとかいていた。

(建設現場で会ったこと……それに、あの鉄骨の落下事故……! あんな危険な目に遭ったことも、俺が無茶して倒れたことも、愛菜には絶対に知られたくない……!)

怪しまれている気配を感じ、亮は慌てて大声を出した。

「いやぁ! ソンファグループの代表って聞いて、どんなイカつい人が来るんかと思ってたら……こんなお若い綺麗な方やったとはなぁ!」

「父さん」

「ん?」

「今、あからさまに誤魔化さなかった?」

「何も誤魔化してへんって!」

「絶対何か隠してる」

「ないない! 初対面やって!」

亮は引きつった笑顔で必死に手を振る。

その横で、ヨリは呆れ半分に亮を見つめていた。

(……やっぱり、変な男)

けれど、なぜ自分と現場で会っていたことを愛菜さんに隠したがるのか、ヨリにはまだ理解できなかった。

「……」

その時、ふと亮と目が合う。

またしても、あの胸を締めつけるような優しい瞳。

ヨリは胸がトクンと鳴るのを感じ、慌てて視線を泳がせた。

「……」

愛菜は、二人の間に流れる妙な空気を感じ取り、不審そうに首を傾げる。

「……?」

こうして――亮、愛菜、そしてヨリ。

奇妙な縁で繋がった三人の特別な日曜日が、ここから動き始めた。

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