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第十一話 変な父親

――待ち合わせ場所

亮はどこか挙動不審な、落ち着かない様子でヨリの前に踏み出してみせた。

「そ、それでは……」

コホン、と一度小さく咳払いをする。

「パク代表」

「……はい?」

「今日は愛菜を……」

「……」

「どうぞ、よろしくお願いします!」

亮はそう言うと、前触れもなく勢いよくヨリの両手をギュッと握りしめた。

「……っ!?」

ヨリの瞳が驚きで大きく見開かれる。

亮はヨリの細く柔らかな手を自分の両手でしっかりと包み込んだまま、腰を直角に折って深々と頭を下げた。

「どうか、よろしくお願いいたします!」

「え、えぇ……」

ヨリは何が起きているのか分からず、困惑の声を漏らすことしかできない。

そして、亮がゆっくりと顔を上げた。ヨリの真っ直ぐな瞳を捉える。

「……」

そして、愛菜に悟られないよう、ほとんど口元だけを微かに動かして囁いた。

(……前のことは)

(……?)

(どうか内緒で……お願いします)

「……!」

ヨリは、そこでようやくすべてを理解した。

――ああ、そういうことね。

あのホテル建設現場でのこと。

そして、あの衝撃的な鉄骨の落下事故と命がけの救出劇。あれを愛菜さんに知られたくないのだと。

「……」

ヨリは亮の必死な瞳をじっと見つめ返した。

「わ、分かりました」

「……!」

言葉を聞いた瞬間、亮の表情がパッと明るくなった。

「ありがとうございます!」

大袈裟なほどの勢いで、ヨリの手をパッと離す。

「……!」

ヨリは、残された自分の手のひらをそっと見つめた。

さっきまで、亮の大きな手で包み込まれていた場所。

(……何よ、急に……なんなのよ)

ヨリは少し戸惑ったように、亮の顔を見つめた。

その時、亮がクルリと愛菜の方を向いた。

「あ」

「……?」

「仕込みを急がないと!」

「え?」

「愛菜!」

亮は、急に慌て出したように言った。

「しっかり!」

「?」

「しっかりお勉強させていただきなさい!」

「……」

「それじゃ!」

亮はそう言うと、踵を返して勢いよく歩き出した。

「……」

愛菜は、疾走するように去っていく亮の背中をポカンと見送る。

「……?」

「……?」

ヨリもまた、ポカンと亮の後ろ姿を見送っていた。

亮はそのまま、迷いのない足取りでどんどん進んでいく。

「父さん!」

愛菜が大きな声を張り上げた。

亮がビクッと足を止め、振り返る。

「ん?」

「家!」

「?」

「そっちと反対方向!」

「……」

亮の動きが完全に止まった。

「……」

「……」

亮は静かに、ゆっくりと後ろを振り返った。

そして、最初からそうするつもりだったかのように、何事もなかった顔でくるりと百八十度方向転換してみせた。

「……」

「分かってたー」

「何を?」

「近道や」

「絶対違う!」

亮は愛菜の容赦ないツッコミを背中に浴びながら、冷や汗を拭い、逃げるように少し早足で自宅の方向へ歩いていった。

「……」

愛菜は、大きく呆れたようなため息をついた。

「もう……」

そして、隣に立つヨリを見た。

ヨリもまた、亮が慌ただしく去っていった道の先を、じっと見つめ続けていた。

「……」

「……?」

「ヨリさん?」

ヨリはハッと我に返った。

「あ……ごめんなさい」

「父さん、変でしょ?」

「……」

ヨリは少し真剣な顔で考え込んだ。

「……ええ」

「……?」

「かなり」

「ですよね!」

愛菜は思わず吹き出した。

「……」

ヨリも、つられるようにふっと可憐に笑った。

けれど、ヨリの胸の中には別の思いが渦巻いていた。

(……さっき、あんなに慌てて、何を隠そうとしていたの?)

そして――。

(なぜ……私の手を、あんなふうに握ったの……?)

ヨリは無意識のうちに、そっと自分の両手を見つめた。

亮の手の力強い温もりが、今もまだ手のひらに残っているような気がしていた。


 ――ヨリと愛菜の時間

白いBMWの車内。

滑らかに回るハンドルを握っているのはヨリだった。

愛菜は助手席に座りながら、そわそわとした様子で何度も窓の外の景色に目をやっている。

「すみません……」

「?」

「なんだか……緊張してしまって」

ヨリがふっと小さく笑った。

「そんなに緊張しなくても大丈夫よ」

「でも……」

愛菜は照れくさそうにヨリを見る。

「ヨリさんと二人で出かけるなんて……まだ何だか信じられなくて」

「そう?」

「はい」

ヨリは真っ直ぐ前を見据えた。

「私もよ」

「え?」

「……こんなふうに誰かを連れて、このホテルを見学するなんて初めてだから」

愛菜は不思議そうな顔をする。

「そうなんですか?」

「ええ」

ヨリは、ほんの少しだけ懐かしむように優しく微笑んだ。

「このホテルはね」

「はい」

「父が……本当に思いを込めて手掛けたホテルなの」

「お父様が?」

「ええ」

ヨリはゆっくりと言葉を繋いでいく。

「父はヨーロッパの古い建築や文化が大好きだったの。だから、このホテルにもそのイメージがたくさん取り入れられているわ」

愛菜の瞳が、少しずつ感嘆の光を宿し始める。

「でも」

ヨリが続ける。

「ただ昔のヨーロッパを再現するだけではなくて、現代の韓国らしさも残したいと言っていたの。中世ヨーロッパの世界観と、現代韓国のデザイン。その二つを自然に融合させることが、このホテルのコンセプトなの」

「……すごい」

愛菜は思わず感嘆の吐息を漏らした。

「私……ますます楽しみになってきました!」

ヨリはそんな愛菜を横目で捉え、嬉しそうに目を細めた。

ホテルに到着すると、愛菜はそびえ立つ建物を見上げたまま、しばらく動こうとしなかった。

「……」

「愛菜さん?」

「……すごいです」

「ふふ」

「まだ中にも入っていないのに、もうすごいです!」

ヨリと思わずクスッと笑う。

「それじゃ、入りましょうか」

「はい!」

館内に入った瞬間、愛菜の目はさらに輝きを増した。

高く吹き抜けた天井、重厚感のある壁面、クラシックで優美な装飾。

しかし、そこにあるのはただ古めかしいだけのデザインではない。洗練された照明計画、現代的な家具、そして韓国の伝統的な色彩や素材が自然に空間へ溶け込んでいる。

「……」

愛菜は何度も足を止めた。

「この照明……」

「ええ」

ヨリが優しく問いかける。

「どうしてこの壁の色と合わせていると思う?」

「えっ……」

愛菜は一瞬で真剣な表情になった。

「たぶん……」

まるで大学の講義を真面目に受けているかのような瞳。

ヨリはそんな愛菜の真摯な姿を、愛おしむように見つめていた。

そしていよいよ、最上階のスイートルームへ。

重厚なドアが開く。

「……」

愛菜は完全に固まった。

「どうぞ」

ヨリに促され、おずおずと足を踏み入れる。

「……」

「……」

「……え?」

ヨリが思わず吹き出した。

「どうしたの?」

愛菜はゆっくりと振り返った。

「ヨリさん」

「はい」

「ここ……広すぎませんか!?」

「ふふっ、そうね」

「私、こんなお部屋……一生泊まることないと思います!」

「そんなことないわよ」

「絶対あります!」

愛菜は目を丸くしながら部屋の中を巡った。

上質なソファ、計算された照明、壁紙、重厚な家具、そして窓いっぱいに広がる絶景。

「……」

愛菜の表情が変わっていた。

ただ驚いているのではない。空間デザインを学ぶ一人の人間として、目の前のデザインを肌で感じ取っていた。

「この家具……すごくモダンなのに、この壁の装飾と全然喧嘩してない……。むしろ、古いものをもっと引き立ててるような……」

愛菜は自分の言葉を探しながら感銘を受ける。

「……すごいです」

ヨリは静かに愛菜を見つめていた。

「……」

「? どうかしましたか?」

「いいえ」

ヨリは穏やかに微笑んだ。

「愛菜さんは、本当にインテリアが好きなのね」

「……はい!」

愛菜の顔が一気に明るくなった。

「大好きです! 母に憧れて……」

「……」

ヨリの表情がほんの少しだけ陰ったが、愛菜は夢中で気づかない。

「父も、私のやりたいことをずっと応援してくれていて。だから、絶対にこの仕事に就きたいんです」

「……」

ヨリは静かに愛菜を見つめ、頷いた。

「きっと、なれるわよ」

「……」

「愛菜さんなら」

「……!」

愛菜の瞳がじわっと熱く潤んだ。

「ありがとうございます……!」

気がつけば時計の針はお昼を過ぎていた。

「そろそろランチにしましょうか」

「……え?」

「レストランを予約してあるの」

「ええっ!?」

愛菜は目を丸くした。

「そ、そんな! 申し訳ないです!」

「今日は私が誘ったんだから。遠慮しないで」

ヨリは柔らかく笑った。

「愛菜さんと一緒に食事をしたかったの」

「……」

愛菜は胸がいっぱいになり、深く頭を下げた。

「……ありがとうございます。ヨリさん、今日は本当にありがとうございます」

「こちらこそ。愛菜さんがそんなに楽しそうにしてくれて、私もとても嬉しいわ」

ホテルのメインレストラン。

広々とした窓際の席からは、ソウルの美しい街並みが一望できた。

運ばれてくる洗練された料理を前に、愛菜は何度も感嘆の声を漏らす。

「すごい……こんな素敵なホテルで食事をするなんて、私には縁がなくて……今日一日だけでも夢みたいです」

ヨリはそんな愛菜を温かい眼差しで見つめた。

「このホテルね……父が、本当に大切にしていたホテルなの」

「お父様が……」

「ええ」

ヨリはゆっくりと窓の外へ視線を向けた。

「父はいつも言っていたわ。ホテルはただ人が泊まるための場所じゃないって。旅先で初めて訪れる人もいる。大切な人と特別な時間を過ごす人もいる。嬉しい時、悲しい時……人生の中で様々な思いを抱えた人たちが訪れる場所だって。だからこそ、訪れた人の心に残る温かい場所を作りたいって。父はこのホテルに、そんな思いを込めていたの」

愛菜はレストランの中をもう一度ゆっくりと見渡した。

「だから……あんなに細かいところまで、全部大切にされているんですね」

ヨリは少し驚いたように目を見張った。

「……分かる?」

「はい」

愛菜は優しく笑った。

「なんとなくですけど……でも、すごく伝わってきました」

ヨリは愛菜を見つめ、どこか寂しそうに微笑んだ。

「父が聞いたら、きっと喜んだと思うわ」

愛菜はふと思い、何気なく口を開いた。

「……ヨリさんのお父様とお母様は、お元気なんですか?」

その瞬間、ヨリの顔がほんの少しだけ陰った。

「……あ」

愛菜はハッとした。

「すみません……私、変なことを聞いてしまって……」

ヨリはゆっくりと首を振った。

「いいのよ。……両親はね」

ヨリは一度だけ静かに目を伏せた。

「17年前に、事故で亡くなったの」

「……!」

愛菜の表情が凍りつく。

「……本当に、申し訳ありません。知らなかったとはいえ、そんな大切なことを……無神経な質問をしてしまって……」

「謝らなくていいのよ。本当に……もう随分前のことだから」

ヨリは困ったように微笑んだが、愛菜は少し迷ったあと、静かに言った。

「……本当に偶然なんですが」

「?」

「私の母が亡くなったのも……17年前なんです」

「……!」

ヨリの表情が変わった。

「17年前……?」

「はい。だから……私も母の記憶がほとんどないんです」

ヨリは言葉を失った。

17年前。まったく同じ年。

「……偶然ですね」

愛菜が小さく微笑むと、ヨリもゆっくりと頷いた。

「……そうね。本当に、不思議な偶然……」

二人の間に静かな時間が流れる。けれど、気まずさは一切なかった。

「……愛菜さん」

「はい?」

「これからも、こうして会わない?」

愛菜の目が大きく開かれる。

「え?」

「遠慮なんてしないで。私からも連絡するから。時間が合えば、また一緒に出かけたり、食事をしたり……そんなふうに会えたら嬉しいわ」

愛菜はしばらくヨリを見つめ、満面の笑顔を弾けさせた。

「もちろんです! 本当に……本当にいいんですか! 私、絶対に遠慮しませんよ!」

ヨリも思わず吹き出した。

「ふふ、それは少し怖いわね」

「えっ! もう、ヨリさん!」

二人の楽しそうな笑い声が、光の差し込むレストランに明るく響き渡った。

まだ、誰も知らない。

17年前の同じ事故が、二人の人生を分かちがたく繋ぎ合わせていることを――。

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