↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/36

第十二話 夕暮れのソウルと、解けゆく心

――夕暮れ・ソウルの街並み

ヨリの運転する白いBMWは、ゆったりとした速度で夕刻のソウルを走っていた。

大きな窓の外では、茜色の夕陽が高層ビルの壁面に反射し、街全体を柔らかい橙色に染め上げている。

忙しく行き交う人々、点灯し始めた車のヘッドライト。街の表情は、少しずつ昼の顔から夜の顔へと移り変わっていた。

「ヨリさん」

助手席に座る愛菜が、静かに口を開いた。

「はい?」

「今日は……」

愛菜は少し照れくさそうに、恥ずかしそうに笑った。

「本当に、ありがとうございました!」

ヨリはチラリと愛菜の方へ視線を送る。

「私……今日、本当に楽しかったです。ホテルも、ランチも……全部!」

その溢れんばかりの純粋な笑顔に触れ、ヨリの口元にも自然と柔らかな笑みが浮かぶ。

「私もよ」

「え?」

「愛菜さんと一日過ごせて……本当に楽しかったわ」

ヨリは少しだけ照れたように、密やかに笑った。

「……!」

愛菜の顔が、一気にパッと明るくなる。

ヨリは前方の道路へと視線を戻した。

(……何年ぶりかしら。こんな気持ちで、誰かと一日を過ごせたのは……)

仕事のこと。グループの経営のこと。副社長の嫌がらせや、ドロドロとした後継者争い。

いつだって彼女の頭の中は、息の詰まるような重圧でいっぱいだった。

けれど、今日は違った。

ただ隣で愛菜が楽しそうに笑っている。その姿を見ているだけで、自分の心まで洗われ、解き放たれていくようだった。

「……ふふ」

何年ぶりだろう。こんなにも穏やかな時間を過ごせたのは。

◇

しばらくの間、二人は流れる夕景を車内から静かに眺めていた。

「愛菜さん」

「はい?」

「あまり遅くなると……お父さんも心配するんじゃないかしら?」

愛菜は少し首を傾げて考え込む。

「どうでしょうね……この時間なら」

愛菜は楽しそうに笑ってみせた。

「案外、お店の準備でバタバタ忙しくしてるかもしれません」

「お父さんは、どんなお仕事をされているの?」

「小料理屋を営んでるんです」

「小料理屋?」

「はい!」

愛菜の表情が、さらに嬉しそうに華やぐ。

「父の料理、本当に美味しいんですよ!」

「そうなの?」

「はい! 特に『だし巻き卵』なんて最高なんです。父が昔、日本の伝統的な料亭で修行してた時に覚えた味らしくて。でも……」

愛菜は自慢気な顔で続ける。

「亡くなった母が、韓国風の旨味アレンジを提案したみたいで。今ではうちのお店の一番の名物なんです!」

「……」

ヨリの表情が微かに動いた。

日本の料亭。小料理屋。そして――愛菜の父親。

(……)

愛菜が身を乗り出して、ヨリの横顔を見つめた。

「そうだ! ヨリさん、もし嫌じゃなかったら……今度、夜のご飯をうちのお店で食べていきませんか?」

「……」

ヨリは思わず沈黙した。

愛菜の父親。小料理屋の店主。

そして――どうしてだか、彼女の頭の中に、あの男の無骨な顔が浮かび上がってきた。

――あの、竹内亮。

(……あの粗野な男が、包丁を握る……?)

ヨリの頭の中で、勝手な想像が膨らんでいく。

無愛想な顔で眉間にシワを寄せ、包丁を握りしめている亮の姿。

(……なんだか、全く想像がつかないわ)

無意識のうちに考え込んでしまい、黙り込んでしまったヨリ。

その沈黙に、愛菜の顔から急に明るさが消えていった。

「あ……すみません……!」

ヨリがハッと我に返る。

「私、勝手に嬉しくなって誘っちゃって……!」

愛菜は慌てたように言った。

「ヨリさんが普段行くような高級なお店と違って、本当に小さくて普通のお店なんです! だから……ごめんなさい、気にしないでください!」

「愛菜さん、違うの!」

ヨリは慌てて愛菜の目を見た。

「そんなことを考えていたんじゃないわ」

「本当ですか……?」

「ええ。お言葉に甘えさせてもらおうかしら」

「……!」

愛菜の瞳に、一気に輝きが戻る。

「本当ですか!?」

「ええ。私も……愛菜さんのお父様がどんなお料理を作るのか、とても興味があるわ」

「ふふっ! 絶対にびっくりしますよ!」

「そう?」

「はいっ!」

ヨリは隣で弾けるように笑う愛菜を横目で見ながら、そっと胸の内で小さく息を吐いた。

(……まさか、ね。そんな奇妙な偶然、あるわけがないわ)

そう自分に言い聞かせながらも、頭の中からあの男の優しい瞳がなかなか消えてくれない。

そして、ほんの少しだけその男の存在を気にしている自分自身に――ヨリはまだ、気づいていなかった。

◇

――竹内亮の小料理屋前

ヨリは店から少し離れたコインパーキングに車を停めた。

「ここから歩いて行きましょう。すぐそこなんです!」

「ええ」

車を降り、二人は静かな路地を並んで歩き始めた。

愛菜はいつも以上に嬉しそうに、足取りも軽やかだった。

「そんなに楽しみ?」

「もちろんです!」

愛菜は迷うことなく即答した。

「ヨリさんに父のお店を知ってもらえるんですよ? 嬉しいに決まってます!」

ヨリは思わずふふっと笑った。

「それに……」

愛菜は少し胸を張って、得意気な顔をする。

「今日の夕飯代は、私が出しますから!」

ヨリは一瞬、驚いて足を止めそうになった。

「愛菜さんが……?」

「はい! 今日はお昼をご馳走になりましたから、今度は私がヨリさんにご馳走します!」

あまりにもまっすぐで、自然な言葉だった。

ヨリは深い驚きに包まれていた。

自分が誰なのかを知り、損得で近づいてくる人間ばかりの世界。ソンファグループの代表という肩書きではなく――「大好きなヨリさん」として、対等に「ご馳走します」と言ってくれた人間が、これまでの人生でどれほどいただろうか。

その素直な温もりが、ヨリの胸を不思議なくらい優しく満たしていく。

「……ありがとう」

ヨリは心からの微笑みを浮かべた。

「じゃあ……今日は愛菜さんに甘えようかしら」

「はいっ!」

少し歩くと、温かい木目の壁と暖簾が印象的な、小さな一軒のお店が見えてきた。

「ここです!」

ヨリは足をとめ、その暖簾を見つめた。

(……あの男の、お店)

そう思った瞬間、不意にあの日の光景が鮮明にフラッシュバックする。

上空から倒れてくる巨大な鉄骨。目の前に突然現れた亮。自分を強く抱き寄せた、あの腕の力強さ。

至近距離で見つめ合っていた、あの吸い込まれそうな優しい瞳――。

「……っ」

ヨリは小さく首を振った。

(何を思い出しているのよ、私は……! 今日は愛菜さんのお父様のお店に食事に来ただけでしょう……?)

「ヨリさん? どうかしましたか?」

「ううん、何でもないわ」

◇

愛菜が引き戸をガラガラと開けた。

「父さん、ただいまー!」

親しみのある声が店内に響き渡る。

カウンターには常連客らしい二組ほどが座り、楽しそうにお酒と料理を味わっていた。

その心地よい活気と温かい空気に、ヨリは一瞬足を止めた。

想像していたよりも、ずっと温もりに満ちた場所だった。

「父さん! ヨリさんに送ってもらったで!」

厨房にいた亮がくるりとこちらを振り返る。

スパッとヨリの姿を認めた瞬間、表情がカチコチに固まった。

(……あ、あいつ、なんでここに……!?)

今朝、あれほど過保護に送り出したヨリが、まさか自分の店に立っている。

しかも愛菜と一緒に。

亮は一瞬でテンパった。

「あ……ど、どうぞ! こちらの席へ……!」

慌ててカウンターの中央の席を拭き、二人を案内する亮。

ヨリはその焦りようを見ながら、思わずクスッと笑いそうになった。今朝、待ち合わせ場所であれほどパニックになっていた理由が、今ならよく分かる。

亮はギコチナイ手つきでおしぼりを準備しながら、恭しく頭を下げた。

「パク代表……本日はうちの愛菜が大変お世話になりまして、本当にありがとうございました」

ヨリは思わず目を丸くした。

現場で見せた荒々しい男とは、まるで別人のような丁寧な姿勢と口調だった。

「それに……こんな小さな店まで足をお運びいただいて。愛菜はご迷惑をおかけしませんでしたか?」

(この人……こんな丁寧な話し方もできるのね)

ヨリは小さく微笑んだ。

「いえ。私の方こそ、愛菜さんにとても楽しい一日をプレゼントしてもらいました。本当に素敵な一日でした」

愛菜が父親に向かって笑いかける。

「お昼もヨリさんにご馳走になったから、今日はお返しがしたかったの」

「なるほどな」

亮は愛菜の顔を見ると、目元を和らげた。

「よし、任しとき」

そして、亮は再びヨリへと視線を向けた。

そこには先ほどまでの焦りや固さは消え失せ、一人の『料理人』としての誇りに満ちた顔があった。

「パク代表、何か苦手な食材や、お嫌いなものはございますか?」

ヨリはその真剣な眼差しに一瞬気圧されながらも、静かに答えた。

「……特にありません。何でも美味しくいただけます」

「そうですか」

亮はふっと、温かい笑みを浮かべた。

「それでは……どうぞお任せください」

その笑顔は、これまでヨリが見てきたどの亮の表情とも違っていた。

(あ……)

ヨリは息をのんだ。

この人は……本当に、本物の料理人だったのだ。

◇

――小料理屋のカウンター

「少しだけお待ちくださいね」

亮は二人に穏やかに告げると、厨房へと向き直った。

その瞬間――亮の空気が一変した。

先ほどまでのどこかぎこちない雰囲気は消え去り、静かに、研ぎ澄まされた手つきで包丁を握る。

ヨリは思わず、その背中と手元から目が離せなくなった。

日本の老舗料亭で長年磨き抜かれた本物の技術。

包丁がまな板の上でリズミカルな音を立て、食材の上を滑るように走る。迷いがなく、一切の無駄がない。長年使い込まれた包丁が、まるで亮の身体の一部であるかのように完璧に制御されていた。

「……」

ヨリは息をのんで見入ってしまった。

(すごい……)

彼の包丁さばきは、ヨリの想像を遥かに超える芸術的な域に達していた。

やがて、亮は一皿、また一皿と、手際よく二人の前へ料理を並べていく。

彩り豊かな季節の野菜。美しく包丁が入れられた刺身。繊細な出汁の香りを纏った一品料理。

どれも、小さな小料理屋の域を超えた、料亭さながらの洗練された一皿だった。

「どうぞ、召し上がってください」

亮が穏やかに微笑む。

愛菜は待ちきれない様子で、両手をキュッと合わせた。

「ヨリさん、いっぱい食べてくださいね!」

まるで自分が褒められたい子供のように誇らしげな愛菜。

「いただきます♪」

ヨリも愛菜にならい、厨房の亮へ向けて静かに言った。

「いただきます」

「どうぞ」

亮は爽やかに応えると、すぐに手元で次の料理の仕込みへと入った。

「美味しいっ!」

愛菜が一口食べて声を上げる。

だがすぐに愛菜はチラリとヨリの様子を窺った。

いつもなら「父さんの料理、世界一でしよ!」と自慢するところだが、今日はどこか緊張している様子だった。

ヨリはまず、料理を目で楽しんだ。

丁寧に切り揃えられた食材、息をのむほど美しい盛り付け。ただ見た目が綺麗というだけでなく、そこには確かな技術と、食べる人への細やかな思いやりが満ちていた。

ヨリは箸を伸ばし、そっと一口料理を口へと運んだ。

「……」

その瞬間、ヨリの美しい瞳が大きく見開かれた。

「……美味しい」

思わず、心の声が漏れ出していた。

亮が仕込みの手をピタリと止める。

愛菜もじっとヨリの顔を見つめた。

「本当に……美味しいです」

今度ははっきりと、厨房の亮の目を見て伝えた。

「こんなに繊細で……温かく優しいお料理だとは、思っていませんでした」

亮は気恥ずかしそうに、少し照れくさそうに笑った。

「ありがとうございます」

その隣で、愛菜がほっと小さく胸を撫で下ろした。

「……よかったぁ」

ヨリはその呟きを聞き逃さなかった。

「愛菜さん?」

「え?」

「どうかしたの?」

「あ……」

愛菜は少し顔を赤らめて笑った。

「ヨリさんの口に合うかどうか……ちょっと心配だったんです。父の料理、私は大好きだけど、ヨリさんは普段からもっとすごい高級なものを食べてるでしょう?」

その言葉に、ヨリは静かに厨房の亮を見つめた。

「愛菜さん」

「はい?」

「私……今まで食べてきたどんな高級料理より、今日のこのお料理の方が、ずっと嬉しいわ」

「え……?」

「こんなに美味しいお料理を、愛菜さんが『食べてほしい』って、嬉しそうに私をここに連れてきてくれたんですもの」

愛菜は目を丸くし、それから心底嬉しそうに破顔した。

厨房からそのやり取りを見つめていた亮も、静かに胸を熱くしていた。

(……建設現場で会った時は、なんて冷たい人なんやろと思ってたけど……)

今、自分の目の前で娘と優しく微笑み合うヨリに、あの冷ややかな印象は微塵もなかった。

(俺の勝手な思い込みやったな……)

亮は自分の先入観を、密かに恥じた。

一方、ヨリもまた、厨房で包丁を握る亮の横顔を盗み見ていた。

料理に向き合う時の、あの真剣な横顔。

娘を見つめる時の、あのとびきり優しい父親の顔。

そして、あの事故の瞬間に見せた、命がけで自分を抱きしめた時の激しい瞳――。

(……この人は、一体何者なのかしら)

その本当の答え(予知能力と17年前の因果)をまだ知らないヨリ。

だが彼女の心の中には、ただ一人の男としての「竹内亮」をもっと知りたいという小さな芽が、確かに芽生え始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。