第十二話 夕暮れのソウルと、解けゆく心
――夕暮れ・ソウルの街並み
ヨリの運転する白いBMWは、ゆったりとした速度で夕刻のソウルを走っていた。
大きな窓の外では、茜色の夕陽が高層ビルの壁面に反射し、街全体を柔らかい橙色に染め上げている。
忙しく行き交う人々、点灯し始めた車のヘッドライト。街の表情は、少しずつ昼の顔から夜の顔へと移り変わっていた。
「ヨリさん」
助手席に座る愛菜が、静かに口を開いた。
「はい?」
「今日は……」
愛菜は少し照れくさそうに、恥ずかしそうに笑った。
「本当に、ありがとうございました!」
ヨリはチラリと愛菜の方へ視線を送る。
「私……今日、本当に楽しかったです。ホテルも、ランチも……全部!」
その溢れんばかりの純粋な笑顔に触れ、ヨリの口元にも自然と柔らかな笑みが浮かぶ。
「私もよ」
「え?」
「愛菜さんと一日過ごせて……本当に楽しかったわ」
ヨリは少しだけ照れたように、密やかに笑った。
「……!」
愛菜の顔が、一気にパッと明るくなる。
ヨリは前方の道路へと視線を戻した。
(……何年ぶりかしら。こんな気持ちで、誰かと一日を過ごせたのは……)
仕事のこと。グループの経営のこと。副社長の嫌がらせや、ドロドロとした後継者争い。
いつだって彼女の頭の中は、息の詰まるような重圧でいっぱいだった。
けれど、今日は違った。
ただ隣で愛菜が楽しそうに笑っている。その姿を見ているだけで、自分の心まで洗われ、解き放たれていくようだった。
「……ふふ」
何年ぶりだろう。こんなにも穏やかな時間を過ごせたのは。
◇
しばらくの間、二人は流れる夕景を車内から静かに眺めていた。
「愛菜さん」
「はい?」
「あまり遅くなると……お父さんも心配するんじゃないかしら?」
愛菜は少し首を傾げて考え込む。
「どうでしょうね……この時間なら」
愛菜は楽しそうに笑ってみせた。
「案外、お店の準備でバタバタ忙しくしてるかもしれません」
「お父さんは、どんなお仕事をされているの?」
「小料理屋を営んでるんです」
「小料理屋?」
「はい!」
愛菜の表情が、さらに嬉しそうに華やぐ。
「父の料理、本当に美味しいんですよ!」
「そうなの?」
「はい! 特に『だし巻き卵』なんて最高なんです。父が昔、日本の伝統的な料亭で修行してた時に覚えた味らしくて。でも……」
愛菜は自慢気な顔で続ける。
「亡くなった母が、韓国風の旨味アレンジを提案したみたいで。今ではうちのお店の一番の名物なんです!」
「……」
ヨリの表情が微かに動いた。
日本の料亭。小料理屋。そして――愛菜の父親。
(……)
愛菜が身を乗り出して、ヨリの横顔を見つめた。
「そうだ! ヨリさん、もし嫌じゃなかったら……今度、夜のご飯をうちのお店で食べていきませんか?」
「……」
ヨリは思わず沈黙した。
愛菜の父親。小料理屋の店主。
そして――どうしてだか、彼女の頭の中に、あの男の無骨な顔が浮かび上がってきた。
――あの、竹内亮。
(……あの粗野な男が、包丁を握る……?)
ヨリの頭の中で、勝手な想像が膨らんでいく。
無愛想な顔で眉間にシワを寄せ、包丁を握りしめている亮の姿。
(……なんだか、全く想像がつかないわ)
無意識のうちに考え込んでしまい、黙り込んでしまったヨリ。
その沈黙に、愛菜の顔から急に明るさが消えていった。
「あ……すみません……!」
ヨリがハッと我に返る。
「私、勝手に嬉しくなって誘っちゃって……!」
愛菜は慌てたように言った。
「ヨリさんが普段行くような高級なお店と違って、本当に小さくて普通のお店なんです! だから……ごめんなさい、気にしないでください!」
「愛菜さん、違うの!」
ヨリは慌てて愛菜の目を見た。
「そんなことを考えていたんじゃないわ」
「本当ですか……?」
「ええ。お言葉に甘えさせてもらおうかしら」
「……!」
愛菜の瞳に、一気に輝きが戻る。
「本当ですか!?」
「ええ。私も……愛菜さんのお父様がどんなお料理を作るのか、とても興味があるわ」
「ふふっ! 絶対にびっくりしますよ!」
「そう?」
「はいっ!」
ヨリは隣で弾けるように笑う愛菜を横目で見ながら、そっと胸の内で小さく息を吐いた。
(……まさか、ね。そんな奇妙な偶然、あるわけがないわ)
そう自分に言い聞かせながらも、頭の中からあの男の優しい瞳がなかなか消えてくれない。
そして、ほんの少しだけその男の存在を気にしている自分自身に――ヨリはまだ、気づいていなかった。
◇
――竹内亮の小料理屋前
ヨリは店から少し離れたコインパーキングに車を停めた。
「ここから歩いて行きましょう。すぐそこなんです!」
「ええ」
車を降り、二人は静かな路地を並んで歩き始めた。
愛菜はいつも以上に嬉しそうに、足取りも軽やかだった。
「そんなに楽しみ?」
「もちろんです!」
愛菜は迷うことなく即答した。
「ヨリさんに父のお店を知ってもらえるんですよ? 嬉しいに決まってます!」
ヨリは思わずふふっと笑った。
「それに……」
愛菜は少し胸を張って、得意気な顔をする。
「今日の夕飯代は、私が出しますから!」
ヨリは一瞬、驚いて足を止めそうになった。
「愛菜さんが……?」
「はい! 今日はお昼をご馳走になりましたから、今度は私がヨリさんにご馳走します!」
あまりにもまっすぐで、自然な言葉だった。
ヨリは深い驚きに包まれていた。
自分が誰なのかを知り、損得で近づいてくる人間ばかりの世界。ソンファグループの代表という肩書きではなく――「大好きなヨリさん」として、対等に「ご馳走します」と言ってくれた人間が、これまでの人生でどれほどいただろうか。
その素直な温もりが、ヨリの胸を不思議なくらい優しく満たしていく。
「……ありがとう」
ヨリは心からの微笑みを浮かべた。
「じゃあ……今日は愛菜さんに甘えようかしら」
「はいっ!」
少し歩くと、温かい木目の壁と暖簾が印象的な、小さな一軒のお店が見えてきた。
「ここです!」
ヨリは足をとめ、その暖簾を見つめた。
(……あの男の、お店)
そう思った瞬間、不意にあの日の光景が鮮明にフラッシュバックする。
上空から倒れてくる巨大な鉄骨。目の前に突然現れた亮。自分を強く抱き寄せた、あの腕の力強さ。
至近距離で見つめ合っていた、あの吸い込まれそうな優しい瞳――。
「……っ」
ヨリは小さく首を振った。
(何を思い出しているのよ、私は……! 今日は愛菜さんのお父様のお店に食事に来ただけでしょう……?)
「ヨリさん? どうかしましたか?」
「ううん、何でもないわ」
◇
愛菜が引き戸をガラガラと開けた。
「父さん、ただいまー!」
親しみのある声が店内に響き渡る。
カウンターには常連客らしい二組ほどが座り、楽しそうにお酒と料理を味わっていた。
その心地よい活気と温かい空気に、ヨリは一瞬足を止めた。
想像していたよりも、ずっと温もりに満ちた場所だった。
「父さん! ヨリさんに送ってもらったで!」
厨房にいた亮がくるりとこちらを振り返る。
スパッとヨリの姿を認めた瞬間、表情がカチコチに固まった。
(……あ、あいつ、なんでここに……!?)
今朝、あれほど過保護に送り出したヨリが、まさか自分の店に立っている。
しかも愛菜と一緒に。
亮は一瞬でテンパった。
「あ……ど、どうぞ! こちらの席へ……!」
慌ててカウンターの中央の席を拭き、二人を案内する亮。
ヨリはその焦りようを見ながら、思わずクスッと笑いそうになった。今朝、待ち合わせ場所であれほどパニックになっていた理由が、今ならよく分かる。
亮はギコチナイ手つきでおしぼりを準備しながら、恭しく頭を下げた。
「パク代表……本日はうちの愛菜が大変お世話になりまして、本当にありがとうございました」
ヨリは思わず目を丸くした。
現場で見せた荒々しい男とは、まるで別人のような丁寧な姿勢と口調だった。
「それに……こんな小さな店まで足をお運びいただいて。愛菜はご迷惑をおかけしませんでしたか?」
(この人……こんな丁寧な話し方もできるのね)
ヨリは小さく微笑んだ。
「いえ。私の方こそ、愛菜さんにとても楽しい一日をプレゼントしてもらいました。本当に素敵な一日でした」
愛菜が父親に向かって笑いかける。
「お昼もヨリさんにご馳走になったから、今日はお返しがしたかったの」
「なるほどな」
亮は愛菜の顔を見ると、目元を和らげた。
「よし、任しとき」
そして、亮は再びヨリへと視線を向けた。
そこには先ほどまでの焦りや固さは消え失せ、一人の『料理人』としての誇りに満ちた顔があった。
「パク代表、何か苦手な食材や、お嫌いなものはございますか?」
ヨリはその真剣な眼差しに一瞬気圧されながらも、静かに答えた。
「……特にありません。何でも美味しくいただけます」
「そうですか」
亮はふっと、温かい笑みを浮かべた。
「それでは……どうぞお任せください」
その笑顔は、これまでヨリが見てきたどの亮の表情とも違っていた。
(あ……)
ヨリは息をのんだ。
この人は……本当に、本物の料理人だったのだ。
◇
――小料理屋のカウンター
「少しだけお待ちくださいね」
亮は二人に穏やかに告げると、厨房へと向き直った。
その瞬間――亮の空気が一変した。
先ほどまでのどこかぎこちない雰囲気は消え去り、静かに、研ぎ澄まされた手つきで包丁を握る。
ヨリは思わず、その背中と手元から目が離せなくなった。
日本の老舗料亭で長年磨き抜かれた本物の技術。
包丁がまな板の上でリズミカルな音を立て、食材の上を滑るように走る。迷いがなく、一切の無駄がない。長年使い込まれた包丁が、まるで亮の身体の一部であるかのように完璧に制御されていた。
「……」
ヨリは息をのんで見入ってしまった。
(すごい……)
彼の包丁さばきは、ヨリの想像を遥かに超える芸術的な域に達していた。
やがて、亮は一皿、また一皿と、手際よく二人の前へ料理を並べていく。
彩り豊かな季節の野菜。美しく包丁が入れられた刺身。繊細な出汁の香りを纏った一品料理。
どれも、小さな小料理屋の域を超えた、料亭さながらの洗練された一皿だった。
「どうぞ、召し上がってください」
亮が穏やかに微笑む。
愛菜は待ちきれない様子で、両手をキュッと合わせた。
「ヨリさん、いっぱい食べてくださいね!」
まるで自分が褒められたい子供のように誇らしげな愛菜。
「いただきます♪」
ヨリも愛菜にならい、厨房の亮へ向けて静かに言った。
「いただきます」
「どうぞ」
亮は爽やかに応えると、すぐに手元で次の料理の仕込みへと入った。
「美味しいっ!」
愛菜が一口食べて声を上げる。
だがすぐに愛菜はチラリとヨリの様子を窺った。
いつもなら「父さんの料理、世界一でしよ!」と自慢するところだが、今日はどこか緊張している様子だった。
ヨリはまず、料理を目で楽しんだ。
丁寧に切り揃えられた食材、息をのむほど美しい盛り付け。ただ見た目が綺麗というだけでなく、そこには確かな技術と、食べる人への細やかな思いやりが満ちていた。
ヨリは箸を伸ばし、そっと一口料理を口へと運んだ。
「……」
その瞬間、ヨリの美しい瞳が大きく見開かれた。
「……美味しい」
思わず、心の声が漏れ出していた。
亮が仕込みの手をピタリと止める。
愛菜もじっとヨリの顔を見つめた。
「本当に……美味しいです」
今度ははっきりと、厨房の亮の目を見て伝えた。
「こんなに繊細で……温かく優しいお料理だとは、思っていませんでした」
亮は気恥ずかしそうに、少し照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます」
その隣で、愛菜がほっと小さく胸を撫で下ろした。
「……よかったぁ」
ヨリはその呟きを聞き逃さなかった。
「愛菜さん?」
「え?」
「どうかしたの?」
「あ……」
愛菜は少し顔を赤らめて笑った。
「ヨリさんの口に合うかどうか……ちょっと心配だったんです。父の料理、私は大好きだけど、ヨリさんは普段からもっとすごい高級なものを食べてるでしょう?」
その言葉に、ヨリは静かに厨房の亮を見つめた。
「愛菜さん」
「はい?」
「私……今まで食べてきたどんな高級料理より、今日のこのお料理の方が、ずっと嬉しいわ」
「え……?」
「こんなに美味しいお料理を、愛菜さんが『食べてほしい』って、嬉しそうに私をここに連れてきてくれたんですもの」
愛菜は目を丸くし、それから心底嬉しそうに破顔した。
厨房からそのやり取りを見つめていた亮も、静かに胸を熱くしていた。
(……建設現場で会った時は、なんて冷たい人なんやろと思ってたけど……)
今、自分の目の前で娘と優しく微笑み合うヨリに、あの冷ややかな印象は微塵もなかった。
(俺の勝手な思い込みやったな……)
亮は自分の先入観を、密かに恥じた。
一方、ヨリもまた、厨房で包丁を握る亮の横顔を盗み見ていた。
料理に向き合う時の、あの真剣な横顔。
娘を見つめる時の、あのとびきり優しい父親の顔。
そして、あの事故の瞬間に見せた、命がけで自分を抱きしめた時の激しい瞳――。
(……この人は、一体何者なのかしら)
その本当の答え(予知能力と17年前の因果)をまだ知らないヨリ。
だが彼女の心の中には、ただ一人の男としての「竹内亮」をもっと知りたいという小さな芽が、確かに芽生え始めていた。




