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第十三話 亮自慢のだし巻き卵

亮は、二人が食べる様子をさりげなく見ていた。

料理を出すタイミング。

食べる速さ。

そして、次に何を出せば一番美味しく食べてもらえるか。

長年、料理人として働いてきた亮にとって、それはもう身体にしみついた自然な動作だった。

二人の前の皿が、少しずつ空いていく。

亮は静かに、最後の料理に取り掛かった。

卵を、一つ、二つと丁寧に割る。

満足のいく出汁を合わせ、使い込まれた卵焼き器を火にかけた。

熱せられた鉄の上に、卵液が注がれる。

ジュッ……。

その瞬間、ふわりと優しい香りが店内いっぱいに広がった。

「……」

ヨリが思わず顔を上げる。

「いい香り……」

愛菜はその香りを感じた瞬間、ぱっと表情を明るくした。

「来た! 待ってました!」

「ふふ、そんなに好きなの?」

ヨリが思わず微笑むと、愛菜は迷うことなく答えた。

「大好きです!」

亮は慣れた手つきで、卵を巻いていく。

一度、二度。何度もふわりと重ねられていく。

まるで、包丁を扱っていた時とはまた違う、包み込むような優しい手つきだった。

二人の前の器がほとんど空になった頃、亮は出来上がった料理をそっと差し出した。

「お待たせしました。締めは、当店自慢のだし巻き卵です」

少しだけ、誇らしそうに笑う亮。

「やった!」

愛菜が声を上げる横で、ヨリは少し驚いたように出来立てのだし巻き卵を見つめた。

「最後が、卵焼きなのね」

「そうなんです」

愛菜がすぐに胸を張って答える。

「これ、父と母の最高傑作なんです」

その言葉に、亮の手が一瞬だけ止まった。

ヨリは愛菜を見る。

「お母様と?」

「はい。父は昔から、料亭で覚えた本格的なだし巻き卵を作っていたんです。でも、母が『もう少し優しい味にしたらどう?』って色々と考えて、二人で作ったんです。だから……これは、二人の最高傑作」

愛菜の表情は、どこまでも誇らしげで嬉しそうだった。

ヨリはもう一度、目の前のだし巻き卵に視線を落とす。

――亮さんと、奥様の、最高傑作。

箸を伸ばし、一口、口へ運んだ。

「……」

ヨリの表情が変わる。

「……美味しい」

それは、先ほどまでの料理とは少し違っていた。

料亭で培われた確かな技術。そして、どこか懐かしく温かい味。

素朴なのに、今まで食べたことのない不思議な優しさが口いっぱいに広がっていく。

「……すごい。本当に、ほっぺたが落ちそう」

「でしょう! 母と父の最高傑作ですから!」

満面の笑みを浮かべる愛菜に、亮は少し照れくさそうに顔をそらした。

「愛菜、ちょっと褒めすぎやで」

「ほんまのことやもん」

「はいはい」

亮は困ったように笑った。

ヨリはそんな二人を静かに見つめていた。

――奥様って、どんな人だったのだろう。

亮と一緒に、この料理を作った人。愛菜がこんなにも嬉しそうに語る人。

なぜだろう。ヨリは亮の亡くなった妻……ソヨンという女性のことを、もっと知りたいと思っている自分に気づいた。

ただ、まだその理由を、ヨリ自身も分かってはいなかった。

◇

奥のテーブルでは、いつの間にか近所の常連客のスンイルさんがぐっすりと眠っていた。完全に酔い潰れている。

「父さん、スンおじさん寝ちゃってるね……」

「今日はな、会社で嫌なことがあったみたいで、いつもよりお酒が進んでたからなぁ」

亮は苦笑いを浮かべると、愛菜を見た。

「愛菜、悪いけどスンさん家まで連れて行ってくれるか? 遅くなると奥さんも心配するやろしな」

「そうやな。じゃあちょっと送ってくるね」

愛菜は頷き、ヨリに向き直った。

「ヨリさん、少し待っててもらっても大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫よ」

「ありがとうございます!」

愛菜はスンイルさんの腕を支えながら、店の外へ向かう。

「じゃあ父さん、行ってくるね」

「気をつけてな」

カラン、と扉についたベルが鳴り、静かに閉まった。

急に、店内が静寂に包まれる。

亮は何となく空いた器を片付け、ヨリは目の前に残ったグラスを見つめていた。

少しだけ、心地よい沈黙が流れる。

やがて、亮が口を開いた。

「……今日の朝は、変なお願いをしてすみませんでした」

ヨリが顔を上げる。

「あの崩落現場であったことを愛菜が知ると、また心配させてしまうから……できれば内緒にしておきたかったんです」

「そうだったんですね」

ヨリは今日一日のことを思い出す。

亮のことを何度も嬉しそうに話していた愛菜。

待ち合わせの場所まで、わざわざ付き添ってきた亮。

「愛菜さんにとって、お父さんはすごく大切な存在なんですね。今日一日一緒に過ごしただけですけど、よく分かりました」

「……そうですか」

亮は少し照れくさそうに頭をかき、何かを思い出したように小さく笑った。

「それに……愛菜……本当に怖いんです…できれば怒らせたくないんですよ」

「え?」

「ふふっ」

ヨリの笑い声が、静かな店内に広がった。

亮はそんなヨリを見つめ、少しだけ迷うように口を開く。

「……パク代表」

「ヨリで大丈夫ですよ。呼びにくいでしょう?」

「では……ヨリさん」

「はい」

その返事が、なぜだろう、ヨリには少しだけ心地よく聞こえた。

亮はゆっくりと店内を見渡した。

「こんな店で良かったら、また来てください。ここは誰もが肩の力を抜いて、気楽に過ごせる小さな小料理屋です。きっとヨリさんは会社で重い責任を背負って、毎日大変なんでしょう。……毎日、重い、重い鎧を身につけて頑張ってるんでしょうね」

「……鎧」

「でも、ここではいいんですよ。全部脱ぎ捨てて、美味しいものを食べて、お酒を飲んで、笑って、愚痴って……何も考えずに気楽に過ごしてもらえれば、そういう場所にしたいと思って始めた店なんで」

「……」

ヨリは何も言えなかった。

これまで、たくさんの人間が自分の周りにいた。

自分を持ち上げる人、期待する人、恐れる人、利用しようとする人。

けれど――「鎧を脱いでいい」なんて言葉を誰かに言われたのは、いつ以来だっただろう。

亮の声、話し方、言葉を選ぶ間、そして穏やかな表情。

そのすべてが胸の奥に張りつめていたものを、少しずつほどいていく。

――この人といると、どうしてこんな気持ちになるのだろう。

答えは分からない。けれどヨリは、もう一度この場所に来たいと強く思っていた。

◇

しばらくして、カランと店の扉が開いた。

「ただいまー」

「おかえり」

愛菜が少し不思議そうな顔で、二人を見比べた。

――なんやろ。私が出て行く前より、なんか二人の空気が違う?

「スンおじさんは?」

「ちゃんと家まで送ってきたよ。無事で良かったって」

「そうか、ご苦労さん」

「ヨリさん、お待たせしてすみません」

「大丈夫よ。私もそろそろ帰ろうかしら」

「えっ、もうですか?」愛菜の表情が曇る。「もっとお話ししたいですけど……」

「また会えるでしょう?」

ヨリが微笑むと、愛菜はすぐに笑顔を取り戻した。「はい! もちろんです!」

「じゃあ、車まで送りましょうか。ここ、夜になると結構暗いんで」

亮の言葉に愛菜も頷き、三人は店を出た。

夜の冷気が、昼間の熱気を少しだけ冷ましている。

駐車場へ向かう夜道、並んで歩く三人。

亮が少し思案したあと、ヨリに声をかけた。

「あっ……すごく余計なことなんで、聞き流してもらっても全然大丈夫なんですけど」

「何ですか?」

「ホテル建設に反対してる人たちって、みんな地元の人間なんです。皆、自分たちが住んできた場所を大切にしてて……今さら建設を中止にするなんて簡単なことやないのも分かってると思うんです。だけど、ヨリさんの会社としてちゃんと向き合って、皆の思いを聞いてもらえるだけで、状況が少し良くなると思うんです」

ヨリは歩きながら、亮の言葉を聞いていた。

「反対はどんなプロジェクトにもつきものだ」と吐き捨てていた副社長の顔が浮かぶ。

ヨリは静かに亮を見た。

「亮さんの言う通りですね。私も同じ意見です。……ただ、少し考えさせてもらえませんか?」

「ほんとですか!? ありがとうございます!」

自分のことのように心から嬉しそうに笑う亮。

ヨリはその笑顔を見て、気づけば自分も微笑んでいた。

――この人は、本当に変な人。でも、その笑顔を見ていると、なぜだか嬉しくなる。

「……何の話?」

横から愛菜がじっと二人を見つめる。

「父さん、いつの間にヨリさんとそんな話する仲になったん?」

「いや……ちょっとな」

「ちょっとって何?」

慌てる亮を見て、ヨリは思わず小さく笑った。

「ふふっ。愛菜さん、それは……私にもよく分からないわ」

「えぇ!?」

三人の間に柔らかな笑い声が広がる。

夜の道を、三人はゆっくりと歩いていった。

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