第十四話 ヨリの決意
ー代表室での選択
ソンファグループ本社、代表室。
ヨリの前には、長年彼女を支えてきたカン室長とチェ秘書の二人が立っていた。三人だけの静かな打ち合わせ。
ヨリは目の前に置かれた事業計画の資料を見つめたあと、ゆっくりと口を開いた。
「青雲洞地区のホテル建設事業のことだけど……反対をしている地域の方々と、直接対話をする機会を作りたいと思っています」
一瞬で室内の空気が緊張で固まった。カン室長が慎重に言葉を選ぶ。
「代表……青雲地区のホテル建設事業は、副社長が主導するプロジェクトになりますので……」
「ええ、よく分かっています」
ヨリは室長の言葉を遮ることなく最後まで聞き、静かに応じた。
「だからこそ、気になっているんです」
ヨリの澄んだ視線が、資料へと向けられる。
「ソンファグループは『地域との共生』を企業理念として掲げています。ですが、今の強引なやり方はそれとはかけ離れているように思えてならないのです。反対する人たちの声を聞くこともなく、ただ事業を進めていく……それでは、我が社が掲げてきた誇りは一体何だったのか分からなくなってしまいます」
カン室長は何も言えなかった。ヨリの言う通りだったからだ。静かに深く頷く。
「確かに、代表のおっしゃる通りです。ですが……」
カン室長の表情には、まだ重い懸念が残っていた。
「ここまで進めてきた事業を今から後戻りさせることはできません。そして、副社長との間にもかなりの亀裂が生じる可能性があります」
チェ秘書も心配そうにヨリを見つめている。
ヨリは立ち上がり、大きな窓からソウルの街並みを見渡した。
「後戻りはできない……ええ、それは私もよく分かっています」
ゆっくりと振り返るヨリの瞳には、強い意志が宿っていた。
「でも、だからこそ今、残された地域の皆さんの思いや希望を聞くための受け皿が必要なんです。これは後戻りではありません。未来へ向けて話し合うための、第一歩です」
静かな代表室。カン室長はしばらくヨリの顔を見つめていたが、やがて肚を決めたように深く頷いた。
「……承知いたしました。それでは副社長側とも調整を図りつつ、こちら主導で地域住民の皆さんとの話し合いの場を作れるよう、専門のチームを立ち上げます」
「お願いします」
「やりましょう!」
それまで静かに控えていた秘書が、一歩前へ出た。
「代表、私も全力でお手伝いします!」
「ありがとう」
ヨリの表情が、少しだけ柔らかくなった。
その瞬間、ヨリの頭の中に一人の男性の顔が浮かんだ。
小さな小料理屋。穏やかな声。そして、自分に向けてくれた、心からの笑顔。
――ほんまに、ありがとうございます。
あたたかい気持ちが胸を満たし、ヨリは小さく微笑んだ。
もう一度、窓の外を見つめる。
「……始めましょう」
代表として。そして、ソンファグループを本当にあるべき姿へ導くために。
ヨリの新しい決意が、今、動き始めた。
——会長室の嵐の前触れ
ソンファグループ本社の最上階、会長室。
重厚なデスクの向こう側には、ソンファグループ会長であり、ヨリの祖母であるパク・ソンテが座っていた。
ヨリはソンテの前で、これまでの経緯をありのままに話した。
青雲地区のホテル建設、地域住民との対立、副社長側の強引なやり方、そして自分が対話の場を作ろうとしていること。
すべてを話し終えても、ソンテはすぐには何も言わなかった。
遠い昔を思い出すように、ただ静かに窓の外を見つめている。
「……そうね」
やがて、重みのある声が響いた。
「最近の副社長のやり方は、確かに目に余るものがあるわ」
ヨリは静かに言葉を待つ。
「ただ、彼には実績がある。そしてその実績を買っている株主もかなりいるのよ。今のソンファグループは、決して一枚岩ではないわ」
ソンテ会長、ヨリ、そして副社長。それぞれに支持する勢力がおり、現在の社内は三者の力関係が拮抗している状態だった。
「だから、ヨリ。少し慎重に動きなさい」
ソンテは表情を和らげ、孫を見つめた。
「あなたが間違っていると言っているのではないのよ。むしろ、私はあなたの考えをよく理解しているわ」
「おばあ様……」
「けれど、あなたは今、一人の人間として『正しいこと』をするだけでは済まされない立場にいる。あなたの行動一つで会社が動き……そして、あなたを失脚させようとする人間も、必ず現れるわ」
優しくも厳しい祖母の言葉に、ヨリはまっすぐ目を見返した。
「分かっています。……でも、だからこそ私は逃げたくありません」
ブレない孫の視線を受け止め、ソンテはゆっくりと立ち上がると、ヨリのそばへ歩み寄った。
そして、優しくその肩に手を置く。
「あなたが何を選んでも、私はいつでもあなたを応援しているわ」
「ありがとうございます、おばあ様」
「ただし、くれぐれも一人で背負い込まないこと」
「はい」
ヨリは微笑み、一礼して会長室を後にした。
しかし、一人残されたソンテが再び窓の外へ目を向けた時、その表情はわずかに曇っていた。
――これから、ソンファグループに大きな嵐が来る。
長年の直感が、暗雲の訪れを告げていた。
——火花散る副社長室
コンコン。
重厚な扉を室長がノックする。
「入りたまえ」
低く落ち着いた声に応じ、カン室長は副社長室へ足を踏み入れた。
広い室内の大きな窓を背に、副社長が深く椅子に腰掛けている。
「今日は折り入ってお話がございまして。青雲洞地区のホテル建設事業についてです」
副社長の鋭い視線がカン室長に向かう。
「代表主導で、建設現場周辺の地域住民の皆様と対話の場を設けたいと考えております」
副社長の表情が明らかに変わった。
「……今さら? 立ち退きはすべて完了している。建設事業も順調に進んでいるというのに、そんな今になって住民たちと何を話す必要がある?」
「ソンファグループが掲げる経営理念に基づき、地域との共生が必要かと考えております」
室長は副社長の威圧的な視線をまっすぐ受け止めた。
副社長の口元が、わずかに歪む。
「青臭いな。プロジェクトを停滞させれば、株主も黙ってはいないぞ」
「ご心配には及びません。対話は代表主導で行い、建設事業につきましては予定通り進めていただきます。ただ、対話の中から事業にとってプラスとなるご意見があれば、その都度副社長にもご相談させていただきます」
「ヨリ代表は……まだ事業の進め方というものを理解できていないようだな」
「ソンテ会長からも、正式な承認をいただいております」
室長がそう告げると、副社長はほんの一瞬だけ目を細めた。
しかしそこに動揺はなく、むしろ何かを面白がるような不気味な笑みを浮かべた。
「……そうか」
ゆっくりと立ち上がり、室長の前まで歩いてくる。
「まあいい、好きにすればいい」
副社長は室長の横を通り過ぎざま、低い声で囁いた。
「ただし――くれぐれも私の邪魔をしないよう、代表に伝えておきなさい」
「承知いたしました」
深々と一礼し、カン室長は副社長室をあとにした。
扉が閉まった瞬間、室長はその場で大きく息を吐き出した。ふと手を見ると、冷や汗でびっしょりと濡れている。ハンカチを取り出し、静かに手を拭った。
——暗躍する影
室長が去ったあとの副社長室。
再び静寂が戻ると、副社長はゆっくりと窓の外を見つめた。
「……おい」
「はい、副社長」
即座に秘書が歩み寄る。
「ヨリには、少し躾が必要だな」
秘書の顔に緊張が走った。
「今夜の予定は?」
「午後八時に会食の予定がございます」
「キャンセルしろ。それから……車は使わない。今夜は一人で出る」
「は、はい……承知いたしました」
その夜。
副社長は普段の高級車ではなく、目立たない別の車に一人で乗り込んだ。
夜のソウルを走り抜け、繁華街を外れた人通りの少ない路地へと向かう。
古びた雑居ビルの前で車を停め、周囲を警戒しながら一人で建物の中へと入っていく。




