第十五話 甘い言葉の裏側
――午後。ソンファ・グループ代表室。
大きなガラス窓から明るい午後の光が差し込む代表室で、ヨリはカン室長とチェ秘書を前に、テーブルの上の資料へ真剣な視線を落としていた。
整然と並べられたのは、ホテル建設計画に関する最新の進行状況と、これまでに寄せられた反対派住民からの切実な意見書だった。
「……やっぱり、もう一度直接お話をする場を設けましょう」
ヨリの静かだが強い決意を込めた言葉に、向かいに座るカン室長が深々と頷いた。
「私もその方が良いと思います。先日の対話だけでは、互いに打ち解けるにはまだ時間が足りませんでした」
チェ秘書も手元の資料を精査しながら口を開く。
「住民の方々も、会社側が本当に自分たちの声を聞くつもりがあるのか……そこを真剣に見極めたいのだと思います」
ヨリは小さく息を吐き、静かに腕を組んだ。
「私たちが何を目指しているのかを伝えることも大切だけど……まずは、あちらが何を不安に思い、何を恐れているのかを聞かないと始まらないわ」
その時――。
コンコン、と品のあるノック音が代表室のドアを叩いた。
チェ秘書がすぐに立ち上がる。
「はい」
重厚な扉が静かに開かれた。
そこに立っていた人物の姿を目にした瞬間、ヨリの表情が微かに固まった。
「……ヨリ」
耳覚えのある、低く甘い声。
ヨリは瞳を大きく見開いた。
「……テジュンさん?」
そこに立っていたのは――大手財閥『チェソン・グループ』の御曹司、カン・テジュンだった。
大学時代、ヨリと同じキャンパスで過ごした同期の男。
隙のない端正な身なりに、柔らかな笑みをたたえた表情。誰が見ても知的で落ち着いた、完璧な紳士という印象を与える人物だった。
テジュンは室内へ足を踏み入れると、懐かしさと愛おしさを込めた瞳でヨリを見つめた。
「ヨリ、久しぶりだね」
ヨリも立ち上がり、驚きを隠せないまま迎え入れる。
「テジュンさん、本当に……。今日は一体どうされたの?」
テジュンは穏やかに微笑んだ。
「少しヨリの噂を耳にしたものだからね。顔が見たくなって寄らせてもらったんだよ」
「噂?」
「少し、パク・ドヒョン副社長とこじれているそうじゃないか」
ヨリの美しい眉が、微かに動いた。
「……もう、そんな噂が社外にまで?」
「副社長の推進するプロジェクト……どうも地域住民とうまくいっていないようだね」
一瞬、代表室内にピンと張りつめた静寂が落ちる。
テジュンはヨリの表情を静かに見つめ、言葉を続けた。
「君が、その泥沼の収拾にかかっていると聞いたよ」
ヨリは少しだけ思案したあと、ブレない瞳で答えた。
「ええ。住民の方々と、もう一度きちんと話をするつもりよ」
テジュンは感心したように深く頷いてみせた。
「そうか……」
そして、少しだけ身を乗り出し、親密さを込めて語りかける。
「実際はどうなんだい? 僕にできることは何もないかな?」
「ありがとう……でも、お気遣いは無用よ」
「そうかい……」
拒絶されてもなお、テジュンは完璧な笑顔を崩さなかった。
「僕にできることがあれば、何でも遠慮なく言ってくれ」
そして、少し間を置いて――深みのある声で告げた。
「君は僕にとって、特別な……大切な人だからね」
ヨリは一瞬だけテジュンの瞳を見つめ返した。そして、ビジネスパーソンとしての完璧で柔らかな笑顔を返す。
「……ありがとう。お気持ちだけいただいておくわ」
その一線を引いた言葉に、テジュンは小さく苦笑した。
「それはそうと……近いうちに食事でも行こうよ、ヨリ」
ヨリは少しの動揺も見せず、淡々と応じる。
「ええ。何かビジネスに関するお話があるのなら、いつでも連絡して」
テジュンの笑みが、ほんの一瞬だけピタリと止まった。
だが次の瞬間には、いつもの穏やかな紳士の表情へと戻っていた。
「ほんと、変わらないね。ヨリは」
テジュンは軽く手を上げた。
「じゃあ、近いうちに連絡するよ」
「ええ」
テジュンはチェ秘書とカン室長にも軽く会釈してみせると、流れるような動作で代表室を辞していった。
パタンと扉が静かに閉まる。
室内には再び静寂が戻ってきた。
ヨリは閉じられた扉を、少しの間だけじっと見つめた。
「……大学時代のお知り合いなんですか?」
チェ秘書の問いかけに、ヨリは振り向いて微笑みを浮かべた。
「ええ。大学の同期よ。久しぶりに会ったわ」
何事もなかったかのように答えると、ヨリは再び机の上の資料へと視線を戻した。
「それより、住民の方々との対話の件だけど、続きを――」
その頃――。
重厚な廊下を一人歩くテジュン。
先ほどまでその顔に浮かべていた柔らかで温かな笑顔が、一歩踏み出すごとに冷酷に削ぎ落とされていく。
誰もいない静まり返った廊下で、テジュンはピタリと足を止めた。
振り返り、遠くにある代表室の扉を冷ややかな瞳で見つめる。
しばらくの間、無言のままその扉を睨みつけ――
「……チッ」
不機嫌極まりない低い舌打ちが、静かな廊下に響いた。
「……相変わらずだな、高嶺の花気取りか……」
柔らかな笑みの裏に隠された、彼の冷徹な本性と企みを知る者は、まだ誰もいなかった。




