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第十六話 言葉が結ぶもの

――夜。亮の小料理屋。

ピーク時の賑わいも過ぎ、小さな店内にはゆったりとした心地よい空気が流れていた。

カウンター席にはいつもの常連客が腰掛け、酒杯を傾けながら亮と楽しそうに言葉を交わしている。

「亮さん」

「そういえばさ……」

亮が洗ったグラスを布巾で拭きながら、「ん?」と優しく顔を上げた。

「ホテル建設に反対している連中と、ソンファ・グループが直接話し合いをするらしいよ」

亮の手が、ほんの一瞬だけピタリと止まった。

「へぇ……そうなんですか」

何事も知らないような素振りを見せ、亮は再び静かにグラスを拭き始める。

「次の土曜日らしいよ。……今まで散々強引なやり方で進めてきたのは、あの副社長だろ?」

常連客の言葉に、亮も黙って耳を傾ける。

「でも、今度は違うらしいんだ。……ソンファ・グループの代表が、自ら挨拶に来るらしいよ」

亮が、少しだけ顔を上げた。

「代表が……?」

「そう。……一体どういう風の吹き回しだろうねぇ」

亮は、ふっと温かな笑みを浮かべた。

「いいことじゃないですか」

常連客の顔を見つめる。

「お互い、ちゃんと向き合って話し合うことが一番大事なんじゃないですかね」

常連客は酒をぐっと飲み干しながら、「まあねぇ、そういうもんかね」と頷いた。

亮は再び、カウンターの奥へと向かう。

しかし、その表情には隠しきれない嬉しそうな笑みが滲んでいた。

(……ヨリさん)

(……ほんまに、考えてくれたんやなぁ)

あの日、彼女が店を出て行く前に語りかけた言葉。

ヨリはあの時、『考えてみます』と静かに答えてくれた。

正直なところ、あの時はただの社交辞令かもしれないと自分に言い聞かせていた。

けれど――彼女は本気で言葉を受け止め、本当に動いてくれたのだ。

亮は仕込みの手を動かしながら、少しだけ思いを巡らせる。

(……ちょっと、覗きに行ってみようかな)

その時、常連客が亮の様子に気づき、不審そうに首を傾げた。

「亮さん……なんか、嬉しそうじゃない?」

亮はハッとして顔を上げた。

「えっ? そうですか?……いやいや、別にそんなことないですよ」

妙に引きつった笑顔で大慌てする亮。

常連客はニヤリと意地悪く笑った。

「怪しいなぁ」

「な、なにがですか!」

「なんでもないけどさ……顔に『良いことありました』って書いてあるよ」

亮は思わず、自分の両頬を手で触った。

「えっ? ほんまに……?」

語尾にふと関西弁が漏れ出るほど焦る亮を見て、常連客は楽しそうに声を上げて笑った。

亮は少し照れくさそうに頭を掻くと、誤魔化すように厨房の奥へと向かった。

(……土曜日)

(……少しだけ、遠くから覗いてみよう)

亮は胸の奥を温かな鼓動で満たしながら、静かに、嬉しそうに微笑んだ。


 ――土曜日の朝

いつもの朝の光が差し込む亮と愛菜の家。

キッチンからは、食欲をそそる朝食の良い香りが漂っていた。

亮は手際よく愛菜の朝食を準備している。

「今日は土曜日なのに学校なんだなぁ」

愛菜は朝食をつつきながら、少しだけため息をついた。

「そうなんだぁ。もうすぐ課題の発表会があるから、今が追い込みなの」

亮は納得したように首を縦に振った。

「そうか、大変やな」

そして、テーブルの上のお弁当箱に視線を向ける。

「お弁当も、ちゃんと忘れずに持っていくんやで」

「分かってるって」

愛菜はあっという間に朝食を平らげた。

「よし! 行ってくる!」

バッグを手に取り、玄関へと向かう。

靴を履きながら、ハッと思い出したように振り返った。

「あっ、そうだ。今日の夜、少しヨリさんと会う約束なんだー」

包丁を洗っていた亮の手が、一瞬だけピタリと止まった。

「……そ、そうなんだ」

少しだけ動揺した表情を見せる。

「うん」

愛菜は嬉しそうに胸を張る。

「へぇ……そうなんだ……」

「何?」

「いや」

亮は慌てて首を振った。

「別に。……よろしく言っといてな」

愛菜は満面の笑みを浮かべた。

「分かった! じゃあ、行ってきまーす!」

「気をつけてなー」

愛菜は元気よく家を飛び出していった。

玄関の扉が閉まり、静けさが戻ってきた部屋。

亮はしばらくの間、その扉を見つめていた。

(……あの二人、ちょこちょこ連絡取り合ってるんだなぁ)

亮の口元に、自然と小さな微笑みが浮かんだ。

亮は朝食の食器をテキパキと片付けると、外出の準備を始めた。


 今日は、ソンファ・グループと、青雲洞(チョンウンドン)のリゾートホテル建設予定地周辺の住民たちが、直接対話を行う日だった。

亮は少しだけ、その様子を遠目から見に行こうと心に決めていた。

――対話の会場

会場には、すでに多くの人々が集まっていた。

これまでホテル建設に強く反対してきた、地域住民たちだ。

亮が会場の片隅からそっと足を踏み入れる。

「あっ、亮さん」

知り合いの住民が亮に気づき、声をかけてきた。

「おはようございます」

亮も笑顔で低く会釈を返す。

しかし、なるべく目立たないよう、会場の隅にあるパイプ椅子へ静かに腰を下ろした。

しばらくして、進行役の社員がマイクを手にした。

「本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。本日皆様から頂戴する貴重なご意見を、今後の事業に活かしてまいりたいと考えております」

会場がしんと静まり返る。

「代表もまもなく到着されますので、今しばらくお待ちください」

少しして、入口の重厚な扉が開かれた。

「それでは定刻となりましたので、始めさせていただきます。まず、ソンファ・グループのパク代表よりご挨拶をさせていただきます」

会場の入口から、ヨリが静かに姿を現した。

亮の瞳が、自然と彼女の姿を追いかける。

いつもの優しい笑顔とは違う、凛とした経営者としての表情。

一歩一歩、しっかりと地を踏みしめて壇上へと前進していく。

ヨリはマイクの前に立ち、壇上から会場を見渡した。

「本日は、このような対話の機会を受け入れてくださった皆様に、まず心から感謝申し上げます」

静まり返る会場。ヨリは一人ひとりの顔を真っ直ぐに見つめながら言葉を続けた。

「皆様がこの地域を深く大切に思っていらっしゃること。そして、今回の建設事業に対して様々な不安や思いを抱えていらっしゃること……私たちはもっと早く、皆様のお声を聞くべきだったのかもしれません」

会場が微かにざわめいた。

「本日は、皆様の思い、希望、そして率直なご意見をぜひお聞かせください。よろしくお願いいたします」

ヨリは深く、丁寧に頭を下げた。

亮は会場の隅から、静かにその姿を見つめていた。

(……ヨリさん)

まっすぐに立ち向かうその背中が、なぜだかとても誇らしく思えた。

そして、息を呑むほどに美しく、素敵に見えた。

会場は少しずつ、真剣な討議へと入っていく。

住民たちがそれぞれの思いや不安を口にし始めた。

亮はその様子をしっかり確認すると、誰にも気づかれないよう、そっと席を立った。

(……じゃあ、俺も買い出しに行かなあかんしな)

心の中で小さく呟き、静かに会場を後にした。

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