第十七話 重なる声
――対話会場の外
亮が会場の建物の外へと足を踏み出す。
少し遅れて、ヨリも関係者口から外へと出てきた。
ヨリはこの後にも分刻みで重要な予定が入っている。残りの対話の進行を室長たちに任せ、待機させていた送迎車へと向かっていた。
亮は少し離れた樹木の陰から、その姿を見つける。
(……やっぱり、めいっぱい忙しいんやろな)
それでも、彼女の無事な横顔を見られたことで、亮の口元には自然と温かな笑みがこぼれた。
頑張るヨリの美しい背中を密かに見送りながら、自分も買い出しへ向かおうと足を進めかけた――その時だった。
――スッ。
一人の男が、亮のすぐ横をすれ違うように通り過ぎた。
真っ黒なパーカーを羽織り、フードを深く被り、顔を隠すように俯いている。
足早に、一直線にどこかへ向かって歩いていく。
亮は一瞬だけ、何気なくその男の後ろ姿を追った。
……次の瞬間。
キィィィィン――――。
頭の中を激しく突き刺す、脳を揺さぶるような強烈な耳鳴り。
亮は思わず顔をしかめ、こめかみを押さえた。
(……またか……っ)
亮の足がピタリと止まる。
胸を覆い尽くす、禍々しいほどの嫌な予感。
ゆっくりと後ろを振り返ろうとした、その瞬間――。
――未来が、脳裏に重なって見えた。
黒いパーカーの男。
早足のまま、一直線にヨリへと向かって突進していく。
男がポケットへと手を突っ込む。
そこから取り出されたのは――一本の鋭利なナイフ。
午後の光を反射し、刃が鈍くギラリと光る。
ヨリはまだ、背後に迫る死線に何も気づいていない。
男が一気に距離を詰める。
そして――。
刃が閃き、ヨリの身体が大きく揺れる。
崩れ落ちるように、地面へ倒れ込む体。
真っ白なコンクリートの上へ、急速に広がっていく鮮烈な赤。
亮の呼吸が、激しく止まった。
「……っ!」
衝撃とともに未来の映像が掻き消えた。
亮は勢いよく振り返る。
そこには、さっき視界に焼きついた映像と全く同じ、黒いパーカーの男の姿があった。
男は周囲の視線を遮るように、一直線にヨリの背中へと向かって歩を進めている。
(まずい……っ!)
亮の顔色が蒼白に変わる。
(距離がある……間に合わへん……!)
さっき見せられた最悪の未来。
地面に倒れ込んだヨリの姿。
赤く染まっていく惨劇の地面。
その光景が、亮の頭の中を何度も何度も駆け巡る。
亮は奥歯をガチリと噛み締め、歯を食いしばった。
――ヨリさんを。
亮の瞳に、激しい覚悟の炎が宿る。
――守る。
強く、拳を握りしめた。
――必ず、命にかえても守る……!
亮の頭の中を、切迫した問いが駆け巡る。
(……間に合うか……!?)
黒いパーカーの男と、ヨリとの距離。
もう、ほとんど残されてはいない。
(考えるな……っ!)
亮は自分に強く言い聞かせた。
(考えるより先に――動け!)
黒いパーカーの男はすでに、ヨリのすぐ背後へと迫っていた。
周囲の異変に気付き、ヨリが振り返る。
目の前には、フードを深く被った不気味な黒い男。
そして、その手にはギラリと光る尖ったナイフ――。
「……っ!」
悲鳴すら喉に引っかかり、出ない。
ヨリの身体が恐怖で完全に硬直する。
(ダメ……っ!)
死の恐怖に直面し、ヨリは両目を強く閉じた。
次の瞬間、男がナイフを高く振り下ろす。
そして――。
「え……?」
男の顔が驚愕に歪んだ。
ナイフを握り締めた右手が、ピタリと止まって動かない。
目の前に、いつの間に現れたのか。男には理解すらできなかった。
そこにあったのは、亮の姿。
亮の左手が、振り下ろされたナイフの刃を――素手で深く握り締めていた。
「……っ!?」
男が一瞬、状況を理解できずに凍りつく。
その隙を、亮は見逃さなかった。
亮の右拳が、風を切ってしなった。
――ゴキッ!
男の顎を、正確かつ強烈に捉える。
鈍い打撃音が響き、男の巨体が大きく宙を舞った。
そのまま勢いよく、コンクリートの地面へと倒れ込む。
ヨリは激しいショックに震えながら、ゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、目の前に立ちはだかる大きな背中。
どこか見覚えのある、愛おしい背中――。
「……」
ヨリの瞳が大きく見開かれる。
黒いパーカーの男は地面に倒れ伏し、動かない。
一体、目の前で何が起きたのか。頭が追いつかない。
目の前の男が、ゆっくりと振り返る。
亮だった。
亮とヨリの視線が、真っ直ぐに重なり合う。
「……亮さん……?」
状況は全く理解できない。
けれど確かに、亮がそこに立ち、自分を守ってくれている。
そして――自分は傷一つ負っていない。
(……どうなってるの……?)
ヨリの頭の中は混乱で真っ白になっていた。
亮は傷ついた手など気に留めず、ゆっくりとヨリを見つめた。
「ヨリさん」
いつもの、包み込むような優しい声。
「大丈夫?」
自由になった右手で、怯える彼女を安心させるように、ふっと柔らかく微笑んだ。
「……は、はい」
その声を聞いた瞬間、ヨリの全身から一気に緊張の糸が切れた。
恐怖で限界まで張り詰めていた膝が、がくぐりと崩れ落ちそうになる。
亮はすかさず手を伸ばし、崩れるヨリの体をしっかりと抱きしめた。
強く、でもどこまでも優しく。
「もう大丈夫ですよ」
ヨリの身体を全身で包み込む。
「大丈夫だから……」
ヨリの瞳が大きく見開かれた。
(……その声……)
(……なぜ……?)
一瞬、ヨリの胸の奥深くで、封印されていた過去の記憶が重なり合った。
暗い、冷たい水の中。
遠ざかっていく意識。
息の途切れる感覚。
その暗闇の向こうから聞こえた、誰かの必死な声――。
『もう大丈夫だよ』
誰かに強く抱きしめられている、温かな腕の感触。
『大丈夫』
『もう大丈夫だから――』
ヨリの瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。
けれど、ヨリ自身にも分からなかった。
なぜ、涙が溢れて止まらないのか。
なぜ、亮の声を聞いた瞬間、胸の奥がこれほどまでに締めつけられ、苦しくなったのか。
ヨリは亮の胸の中で、小さく消え入りそうな声で呟いた。
「……なぜ?」
亮には、その小さな声が聞き取れなかった。
「え?」
ヨリはゆっくりと顔を上げ、亮の顔を見つめた。
「……いえ」
首を微かに横に振る。
けれど、その眼差しは亮の瞳から片刻も離れなかった。
亮の声が――
17年前、冷たい事故の夜に自分を命がけで救出してくれた『あの人』の声と、痛いほどに重なっていた。




