第十八話 死なないで下さい
——「死なないで下さい」
周囲が一気に騒がしくなる。
「何があった!?」
「警備員を呼べ!」
「警察にも連絡を!」
緊迫した悲鳴を聞きつけた会場の関係者や警備員たちが、次々と現場へと駆け集まってくる。
地面には、亮の一撃によって倒れた黒いパーカーの男。その男を取り囲むように人垣ができていく。
そして、その中心にはヨリと亮がいた。
亮の左手――ナイフの鋭利な刃を素手で力任せに掴み切った掌から、鮮血が止まることなく溢れ出ていた。
ボタボタと、コンクリートの地面へ赤い雫が落ちていく。
ヨリが、その傷ついた手に気がついた。
「亮さん……!?」
血で染まる掌を見て、ヨリの顔から一気に血の気が引く。
「誰か!」
取り乱したように周囲を見回し、悲鳴を上げる。
「早く、救急車を!」
ヨリはすぐさま自分の鞄から清潔なハンカチを取り出すと、亮の掌に押し当てた。傷口を力いっぱい強く押さえつける。
「しっかり押さえて……っ! 止血しないと……!」
あまりのショックに手を震わせながら必死に処置をするヨリを、亮は静かに見つめた。
「大丈夫ですよ。そんなに心配しなくても……」
いつもの、包み込むような優しい声。
しかし次の瞬間、亮はその場からそっと離れようと足を引いた。
「亮さん? ちょっと……!」
「早く……ここから離れないと……」
自分がその場に留まれば、未来を改変したことによる歪みや怪しさ、そして自分自身の変調が周囲に露呈してしまう。
亮は血を流したまま歩き出そうとするが、ヨリが咄嗟にその腕を強く掴んで引き止めた。
「どこへ行くんですか!」
亮は答えない。
(早く……早くここから離れへんと……)
そう心の中で呟いた、その瞬間――。
ドクン――――!
亮の胸の奥で、心臓が爆発したかのような強い衝撃が跳ねた。全身が激しく震える。
「……っ!?」
心臓が恐ろしい悲鳴を上げる。
未来を無理やり書き換えた代償としての、激しい痛みが全身を襲った。
亮の表情が、苦痛に酷く歪む。
「亮さん!?」
亮は胸元を力任せに強く押さえた。息ができない。酸素が途絶え、視界が急激に明滅する。
「……っ……」
立っていられない。膝から一気に力が抜け落ちる。
(……今回は……少し無理しすぎたかな……)
亮の身体が、そのまま力なく横へと傾いていく。
ヨリが慌ててその身体を支えようと手を伸ばした。
しかし、亮の巨体を受け止めきれず、亮の身体はコンクリートの地面へと崩れ落ち、倒れ込んだ。
「亮さん!!」
周囲が一瞬、静まり返る。
亮は、ぴくりとも動かない。
ヨリの表情が絶望に染まっていく。
「……亮さん……? 亮さん……!?」
何度呼びかけても、返事はない。
「誰か!」
ヨリの声が激しく震える。
「早く……! 早く救急車を……!!」
ヨリは倒れた亮の頭をそっと抱え上げ、自分の膝の上へと乗せた。
「亮さん……聞こえますか……? ねぇ……」
必死に頬を擦り、声をかけるが、返事は微塵もない。
ヨリには、今何が起きているのか全く分からなかった。
さっきまで自分を危険から救ってくれた、あの優しく頼もしい亮が。
今、自分の膝の上で息も絶え絶えに動かなくなっている。
「……嫌……」
ヨリの瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ出始めた。
「……お願い……っ」
ヨリはすがるような思いで亮の顔を見つめ直す。
「死なないで下さい……」
零れ落ちた涙が一滴、亮の蒼白な頬の上に落ちて弾けた。
「お願い……目を開けて……っ」
また、一滴。
「お願いだから……!」
ヨリの声は完全に涙で震え、途切れ途切れになっていた。
周囲にはソンファ・グループの関係者、詰めかけた住民、警備員など、大勢の人間が取り囲んでいる。
けれど今のヨリには、その誰の姿も視界に入っていなかった。
ただ一人、目の前で動かなくなっている亮だけ。
「亮さん……っ」
ヨリの涙が止まらない。
「……死なないで下さい」
「お願い……」
「お願いだから……っ!」
ヨリは亮の頭をそっと抱きしめながら、子供のように泣き崩れた。
そして、彼女の涙は静かに、次々と亮の顔へと溢れ落ちていった。
――救急車の中
車内には張り詰めた緊張感が漂っていた。
「血圧、測ります!」
「脈拍確認!」
「酸素飽和度低下――マスク装着!」
救急隊員たちが慌ただしく指示を飛ばし、亮の状態を絶え間なく確認している。
ナイフの刃を掴んだ亮の左手には、手際よく止血用包帯が巻かれ、応急処置が施されていく。
「出血箇所を確認。止血を続けます」
亮の意識は、未だ戻らない。
ヨリはそのすぐ横に身体を寄せ、座っていた。
そして、亮の無事な右手を、自分の両手で力いっぱいしっかりと握りしめていた。
冷たい。
けれど、確かにそこにある温かな命の感触。
「……亮さん」
震える小さな声。
「聞こえますか……?」
返事はない。
それでもヨリは、その手を決して離そうとはしなかった。
――病院
サイレンを響かせた救急車が病院の救急救命センターへ到着する。
「患者さんを運びます! 処置室へ!」
ストレッチャーが慌ただしく車内から降ろされ、通路を滑るように搬送されていく。
「亮さん……!」
ヨリも思わずストレッチャーの後を追おうと足を踏み出した。
しかし、瞬時に医療スタッフがその前に立ち塞がる。
「申し訳ありません、患者様以外はこちらでお待ちください!」
ヨリは言われるままに足をとめ、固く閉ざされた処置室の重厚な扉を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
赤いランプが点灯し、扉が閉まる。
その瞬間、ヨリは自分が彼の家族でも何でもなく、彼の個人的な事情を何も知らない場所に立っているという事実に、改めて直面させられた。
しばらくして、処置室から医師が出てきた。
「付き添いの方ですね?」
「はい」
ヨリはハッとして立ち上がる。
「患者さんは、心臓になにか持病や既往歴などはありますか?」
医師の問いかけに、ヨリの表情が凍りついた。
「……いえ。私は……」
ヨリは首を左右に振り、唇を噛みしめる。
「詳しいことは……分かりません……」
「ご家族の方に確認を取っていただけますか?」
「はい……!」
ヨリは震える手でバッグからスマートフォンを取り出した。
連絡先リストを開く。
『竹内 愛菜』
一瞬、指が止まった。
専門学校の講義中かもしれない彼女にこんな連絡をしていいのだろうか。
けれど、一刻を争う事態に迷っている猶予はなかった。
ヨリは覚悟を決め、発信ボタンを押した。
――愛菜への電話
『……ヨリさん?』
愛菜の声がスピーカーから聞こえる。
ヨリは一度、深く息を吸い込んで心を落ち着かせようとした。
「愛菜さん……ごめんなさい、今、お電話しても大丈夫?」
『はい、大丈夫ですけど……どうしたんですか?』
ヨリの声がいつもと明らかに違うことに、愛菜は瞬時に勘づいた。
『……何かありました?』
ヨリは一瞬だけ目を閉じた。
彼女を過度に不安にさせたくはない。
「亮さんのことで……」
愛菜の息が止まる音が聞こえた。
『父さん……?』
ヨリはできる限り冷静に、声を落として話し始めた。
「今、病院にいるんです」
『……え?』
「少し、医師の方から確認したいことがあって……亮さんは、心臓などに何か持病はお持ちですか?」
『……え?』
愛菜の声色が、はっきりと狼狽したものへと変わる。
『父さんが……どうしたんですか!? 怪我したんですか!?』
「愛菜さん、大丈夫だから落ち着いて。今、病院でしっかり診てもらっていますから」
愛菜は当然、そんな言葉で納得できるはずもなかった。
『……ヨリさん、本当に……本当に大丈夫なんですか……?』
ヨリは静かに答える。
「……はい」
しかし、その声はほんのわずかに震えてしまっていた。
愛菜はその震えを見逃さなかった。
『……私、今から行きます!』
「愛菜さん、学校は――」
『大丈夫です!!』
愛菜の声が、泣き出しそうなほど大きく響いた。
『病院の名前を教えてください!』
ヨリは一瞬、言葉を失った。
探るような沈黙のあと、小さく頷いた。
「……分かりました。病院の名前と場所を、メッセージで送ります」
「お願いします!」と言い捨てて電話が切れる。
ヨリはスマートフォンを握りしめたまま、ゆっくりと腕を下ろした。
そして、今なお静まり返っている処置室の扉を、ただ祈るように見つめ続けた。
その頃――。
愛菜はスマートフォンを指が白くなるほど強く握りしめていた。
ヨリは『大丈夫』と言った。
けれど、あの声は絶対に普通ではなかった。
愛菜の胸の中に、言いようのない黒い嫌な予感が渦を巻いて広がり始める。
「父さん……っ」
愛菜は講義中の教室を飛び出し、荷物を乱暴に掴むと、病院へ向かってなりふり構わず走り出した。




