第十九話 困った人
――処置室の中。
医師たちが、心電図や血圧計のモニターを険しい表情で確認していた。
「……数値が戻ってきています」
「脈拍も安定してきたな」
一人の医師が、モニターとベッドに横たわる亮を交互に見比べながら、不可解そうに首を傾げた。
「しかし……先ほどの状態から考えると……回復が早すぎる」
医学的には説明のつかない現象。原因は未だに分からない。
ただ一つだけ確かなことは、亮の容体が確実に落ち着いてきているということだった。
「……病室へ移しましょう」
医師の指示で、ストレッチャーがゆっくりと動き始めた。
――処置室の外。
ヨリが、落ち着かない様子で固く組んだ手を祈るように握りしめ、待っていた。
やがて扉が開き、担当の医師がヨリの前に立つ。
「パクさん」
「はい!」
ヨリは弾かれたように顔を上げた。
「とりあえず、命に別状はありません」
「……っ」
その一言を聞いた瞬間、ヨリの身体から一気に力が抜け落ちた。
「ですが――」
医師のトーンが変わり、ヨリの表情が再び強張る。
「何らかの原因で、心臓にかなりの負担がかかっていたことは間違いありません。現時点では、その原因を特定できていません」
「……心臓に」
ヨリが小さく呟く。
「今後、一度精密検査を受けられることをお勧めします」
「……分かりました」
医師はカルテに目を落とし、言葉を続けた。
「それから、左手の怪我ですが……思っていたよりも状態は軽かったです。深い傷でしたので十針ほど縫っていますが、現時点では、後遺症が残るような怪我ではないでしょう」
ヨリの目が、安堵でじわりと潤む。
「……ありがとうございます」
深く、深々と頭を下げる。
医師がその場を去ったあと、ヨリは立ち尽くしたまま、長く大きな息を吐き出した。
「……よかった」
その瞬間、思わず身体がよろめいた。
「……っ」
すぐ近くの冷たい壁に手をつき、かろうじて身体を支える。
これまで限界まで張り詰めていた緊張の糸が、一気にほどけていった。
――病室。
亮は、静かに眠っていた。
ヨリはベッドの横のパイプ椅子に腰を下ろす。
視線の先には、痛々しい白い包帯が巻かれた左手。そして、静かに繰り返される寝息。
ヨリはじっと、亮の横顔を見つめていた。
「……本当に」
小さく、呟く。
「……不思議な人」
なぜ、自分のためにあんな危険なことを。
なぜ、自分を助けるために、命を投げ出すような無茶をするのか。
「何で……」
ヨリは、眠る亮の顔をただ見つめ続けた。
「私なんかのために……こんな無茶まで……」
眠っている亮の顔は、起きている時よりも少しだけ穏やかで、優しく見えた。
ヨリはふと、自分の両手を見る。
あの絶望的な瞬間、自分を覆い隠し、守ってくれた大きな背中と手。そして、その代償として左手に残った深い傷。
ヨリの胸が、ギリリと締め付けられる。
その時だった。
「……っ」
シーツの上に置かれた亮の指先が、かすかに動いた。
「……!」
ヨリが弾かれたように顔を上げる。
「亮さん!?」
亮の重い瞼が、ゆっくりと開いていく。
ぼんやりとした目の前の景色。少しずつ焦点が合っていく。
そして、覚醒した亮の視界に最初に飛び込んできたのは、心配そうに覗き込むヨリの顔だった。
「……ヨリさん」
ひどくかすれた声。
ヨリが身を乗り出し、亮の顔を覗き込む。
「亮さん……! 分かりますか?」
亮は小さく頷いた。
そして、激痛の走る自分の身体のことなど一切気に留めず、ただヨリの全身を見渡した。
「……怪我、ないですか?」
ヨリの表情が、ピタリと止まった。
「……え?」
亮は、ゆっくりともう一度聞く。
「ヨリさん……怪我……してないですか?」
ヨリの瞳の奥から、熱いものが一気に込み上げてきた。
こんな状態になってまで。死の淵を彷徨った直後だというのに。
自分のことなど二の次で、真っ先に私の心配をしている。
ヨリは慌てて涙を隠すように、無理に口角を上げて少し笑った。
「……私は、大丈夫です。怪我をしたのは……亮さんの方ですよ」
亮はそれを聞くと、心底安心したように、少しだけふっと笑った。
「……だったら、よかった」
ゆっくりと、安堵に包まれたように目を閉じかける。
「……本当に、よかった……」
ヨリの唇が、小さく震えた。
「……」
もう、我慢できなかった。
ヨリの瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。
でも、亮には見せたくない。彼を困らせたくない。
ヨリは泣いていることを誤魔化すように、ふふっと笑い声を漏らした。
「……本当に、困った人ですね」
亮はまだ少しぼんやりとした顔で、不思議そうにヨリを見つめ返す。
ヨリは少し笑いながら、指先でそっと自分の涙を拭った。
「どうして……自分のことより、人の心配ばかりするんですか」
亮は少しだけ困ったように、けれど優しく笑った。
「……そうですかね」
ヨリは、亮の深く温かい瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
そして今度は、はっきりと、心からの言葉を口にした。
「……ありがとう」
亮の目が、少しだけ驚いたように見開かれる。
ヨリは涙を浮かべたまま、もう一度、深く思いを込めて言った。
「……本当に、ありがとう」
病室には、穏やかで静かな時間が流れていた。
二人とも、もう何も言わない。
ただ、言葉を超えた場所で、互いの存在の温かさを静かに感じ合っていた。




