第二十話 愛菜の怒り
――病室。
ベッドの上で、亮はゆっくりと身体を起こしていた。そのすぐ横にはヨリが立ち、少しだけ安心したような柔らかな表情で亮を見つめている。
亮はふと、申し訳なさそうに眉を下げて口を開いた。
「……ヨリさん」
ヨリが亮を見る。
「はい?」
亮は少しだけ視線を落とした。
「今回の件は……本当に申し訳ありません。俺が余計なお願いをしたばっかりに……ヨリさんを危険な目に遭わせることになってしまって……」
亮は自分を責めるように苦笑いを浮かべた。
しかし、ヨリは静かに、けれど明確に首を横に振った。
「亮さん」
亮が顔を上げる。
「それは違います」
ヨリの声には、はっきりとした芯があった。
「私はソンファ・グループの代表として、自分自身で判断して行ったことです。亮さんが謝るようなことではありません」
亮はヨリの毅然とした言葉を、静かに受け止めていた。
ヨリは少し間を置くと、真剣な眼差しで亮を見つめ直す。
「それより……」
ヨリの表情が、探るように少し固くなる。
「亮さんは……どうやって突然、私の前に……?」
亮の表情が、わずかに引きつった。その秘密に触れられそうになった――その時だった。
「おとーさーん!!」
病室の外の廊下から、愛菜の大きな声が響き渡った。
「!?」
同時に、病室の重厚なドアが勢いよく開かれた。
「父さん!?」
愛菜が肩で息を切りながら、弾かれたように病室へ飛び込んできた。
そして、そのまま目を見開く。
ベッドの上に座る亮。
そして、そのすぐ傍に佇むヨリ。
「……っ! 父さん! 大丈夫なの!?」
亮は困ったように少し笑ってみせた。
「大丈夫や。ほら、元気やろ?」
愛菜は亮の顔色を見て、少しだけ安堵の息を吐く。
しかし次の瞬間、彼女の視線が亮の左手へと吸い寄せられた。痛々しい包帯が、頑丈にしっかりと巻かれている。
愛菜の表情が一瞬で青ざめ、鋭くなった。
「……どうしたん!? その左手!」
「いや……その……」
完全に説明に困り、頭をかく亮。そんな亮の様子を見かねて、ヨリが二人の間に入った。
「愛菜さん」
愛菜がヨリを見る。ヨリは少し申し訳なさそうに語り始めた。
「実は……私が暴漢に襲われそうになって……」
愛菜の表情が変わる。ヨリは静かに、今日起きた出来事を丁寧に説明した。
「亮さんが私を助けてくれて……その時に、左手を怪我してしまったんです」
ヨリは愛菜に向かって、深く頭を下げる。
「……ごめんなさい、愛菜さん。私のせいで、亮さんが怪我をしてしまって……」
その瞬間、亮がヨリを見た。
「ヨリさん」
ヨリが顔を上げる。亮は優しく、温かく笑った。
「ヨリさんは悪いことを一つもしてないんで、謝ることはないですよ。俺が自分の判断で助けたいと思ってやった結果なんで、ヨリさんが謝ることじゃないんで……」
亮の言葉に、ヨリの瞳が揺れる。
愛菜もヨリを見つめ、包み込むように優しく言った。
「父さんの言う通りですよ、ヨリさん。ヨリさんが謝ることじゃありません」
亮は二人のやり取りを見届け、少しだけ場を和ませようと愛菜の方を見た。
「あ……愛菜、ごめんな。心配させて」
亮は苦笑いするしかない。
愛菜は亮をジロリと見つめると、少し怒ったように唇を尖らせた。
「……年甲斐もなく、無茶するからやん」
亮が参ったように笑う。
「いやぁ……」
愛菜は言葉を重ねる。
「父さん、空手やってるんだから!」
「……ん?」
「飛び蹴りでも! 回し蹴りでも! 悪い奴をやっつけたらよかったでしょ!」
あふれ出る心配の気持ちが、そのまま怒りの形となって爆発する。
亮は予想外の反論に目を丸くした。
「……いや、それは……そういう問題ちゃうやろ」
思わず口をついて出る関西弁。
愛菜はまだプンプンと怒っている。
「もう! 本当に心配したんだからね!」
亮は降参するように困った顔で笑った。
「……ごめん」
ヨリは、そんな仲の良い二人の温かなやり取りを静かに見つめていた。
そして、ふっと口元を緩ませて微笑む。
亮がどうやって、あの一瞬で自分の前に現れたのか。
どうして、あんな常人離れした速度とタイミングで動くことができたのか。
本当は、聞きたい疑問が山ほどあった。
けれど、今はあえて聞かないでおくことに決めた。
亮には、亮なりの話せない理由があるのかもしれないから。
ヨリは亮の横顔を見つめ、心の中で静かに思った。
(……でも…本当に宇宙人…だったりして…?いつか、ちゃんと聞かせてもらいますからね)
その瞳には、どこか少しだけお茶目で、譲らない意志が宿っていた。
――ソンファ・グループ本社、副社長室。
重厚な調度に囲まれた静かな室内に、スマートフォンの電子着信音が冷たく響き渡った。
デスクに腰掛けたパク副社長が、ゆっくりと画面に表示された番号を見る。
その表示を確認すると、わずかに眉を動かして表情を変えた。
通話ボタンをスライドさせ、静かに耳に当てる。
「……私だ」
電話の向こうから、低い男の声が焦りを込めて何事かを報告してくる。
副社長は黙ってその報告に耳を傾けていた。
やがて、小さく冷ややかな息を吐き出す。
「……そうか。やり損ねたか」
電話の相手が言訳するように何かを捲し立てる。
副社長は椅子の背もたれに深く身体を預け、大きな窓の外に広がる高層ビルの街並みを見つめながら、氷のように冷静な口調で答えた。
「いや、もういい」
少しの間。
「捕まった男は、ホテル建設に反対している住民の一人だったということにしろ」
副社長の目が、冷酷な光を帯びて細められる。
「マスコミには、それでリークしておけ。『パク代表が住民との直接対話を行った直後、過激化した反対派の人間から暴力的な襲撃を受けた』とな。……それだけでいい」
「……」
「あとの裏処理はこちらで適当にやっておく」
副社長は電話を切ろうとして、ふと何かを思い立ったように考え込んだ。
そして、唇の端を歪めて薄く笑った。
「まあ……十分な『躾』にはなっただろう」
一度、本気の殺意に晒され、殺されかけた。
その圧倒的な恐怖。
自分がどれほど危険な立場の崖っぷちに立っているのか。
ヨリにも、これで少しは身に沁みて分かったはずだ。
「しばらく連絡は必要ない。こちらから指示がある時だけ連絡しろ」
一方的に通話を切り、副社長はスマートフォンをゆっくりとデスクの上へ置いた。
そして、窓の外の街並みを冷たい眼差しで見つめる。
「……ヨリ」
小さく、吐き捨てるように呟いた。
「お前は少し、自由に動きすぎたんだよ」
その口元には冷淡な笑みが浮かんでいた。
しかし、その奥にある瞳は、いっさい笑っていなかった。




