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第二十一話 午後からの予定

――亮の自宅・翌朝

亮が退院した翌日。

まだ完全に身体の調子が戻ったわけではない。時折、胸の奥を突き刺すような鈍い痛みが走る。

それでも、意識を失って倒れた昨日よりは、ずっと身体が楽になっていた。

亮はいつもの習慣で、朝の光とともに目を覚ます。

(……さて)

ゆっくりとシーツを繰り、ベッドから起き上がった。

左手には、まだ痛々しい白い包帯が頑丈に巻かれている。

(愛菜の朝ごはん、作らんと……)

心の中で呟きながら、亮は寝ぼけ眼のまま台所へと向かった。

しかし、台所に近づくにつれて、トントンと軽快な包丁の音が聞こえてきた。

(……ん?)

亮は不思議そうに眉をひそめ、台所の暖簾をくぐる。

そこには、エプロン姿の愛菜が立っていた。

手際よく朝食を作りながら、脇では大学に持っていくお弁当まで準備を進めている。

亮の目が丸くなった。

「ど……どうしたん!? 愛菜!?」

愛菜は包丁の手を止め、振り返ると少し呆れたように笑った。

「どうしたって……父さん、左手怪我してるでしょ?」

亮は思わず自分の左手を見つめた。愛菜は手を休めることなく言葉を続ける。

「しばらくは私がするから、父さんは気にしないで」

亮は照れくさそうに頭をかいた。

「いや……でもなぁ。いつも俺が作ってるし……」

「いいの!」

愛菜が食い気味に即答する。

「たまには私にもさせてよ」

亮は言葉に詰まり、愛菜の温かな横顔をじっと見つめた。そして、嬉しさを噛み殺すように小さく笑う。

「……分かった。ありがとな」

朝食の準備を終えた愛菜は、ふと亮の方を振り向いた。

「そういえば……お店はどうするの?」

亮は少し思案するように天井を見上げた。

「そうやなぁ……やっぱり右手だけじゃ、仕込みも調理も仕事にならんからなぁ」

左手をさすりながら、静かに息を吐く。

「少しの間……休業かな」

愛菜の表情が少し陰った。

「そっか……」

そして、何かを決意したように言葉を紡ぐ。

「私も……できる限りアルバイトのシフト、増やしてもらうようにするね」

亮が愛菜を見た。愛菜は気丈に笑っている。

けれど、その言葉の奥に隠された経済的な心配や申し訳なさを、亮は見逃さなかった。

亮は包み込むような優しい目を愛菜に向けた。

「愛菜……大丈夫や。なんとかなるから、そんな心配せんでええよ」

愛菜は小さく頷いた。そして、真剣な眼差しで亮を見つめ直す。

「父さん……できるだけ早く、精密検査受けてほしい」

「……ごめんなぁ。色々心配かけて」

愛菜は少し間を置くと、表情を和らげた。

「……でも、父さんがヨリさんを守ってくれて、本当に良かった」

亮が愛菜を見る。愛菜は晴れやかに笑った。

「ヨリさんは、私にとっても大切な人だから」

その言葉に、亮の心も温かくなり、笑みがこぼれた。

しかし、愛菜の眉が再び思案気になぞられた。

「……でも、心配だなぁ」

「ん?」

「何で、ヨリさんが暴漢に襲われなきゃならなかったんだろ?」

亮の表情が、わずかに硬くなった。

「……そうやなぁ。俺も少し気になってるんや」

亮はあの緊迫した瞬間の光景を鮮明に思い返す。

黒いパーカー。殺意を孕んだナイフ。そして、あの男の無機質な目。

「そもそも、あんな奴、この辺で見かけたこともないしな」

亮は顎に手を当て、記憶を辿る。

「……地元の人間ではなさそうやったけど」

愛菜も首をかしげ、不思議そうな顔をした。

しかし、ふと壁の時計を見上げるなり、愛菜の顔色が急変した。

「あっ! 時間やばい!」

亮が思わず笑ってしまう。

「おいおい、もう行くんか?」

愛菜は慌ただしく鞄と荷物を抱え上げた。

「父さん! ちゃんと無理しないでね!」

「分かった。愛菜も気をつけてな」

「行ってきます!」

愛菜は元気よく玄関を飛び出していった。

バタンと重い扉が閉まる。

一瞬にして静まり返る部屋。

亮はふっと深く息を吐き出した。

(……まったく)

小さく苦笑する。そして、包帯の巻かれた左手を見つめた。

(娘に心配ばっかりかけてるなぁ……)

その微笑みが、少し寂しそうに消えていく。

亮はゆっくりと歩み寄り、窓の外の静かな街並みを見つめた。

(……あの男、本当に誰やったんやろな)

穏やかな朝の光の中で、亮の胸の奥には消えない違和感がくすぶり続けていた。

――そして。

その胸騒ぎと違和感は、まだこれから起きる、より巨大な陰謀と激動の渦へと繋がっていくのだった。


 ――ソンファ・グループ本社、代表室。

天井が高く広い代表室。

ヨリは重厚なデスクの前に座っていた。

しかし、目の前に広げられた書類に目は通っているものの、ペンは一向に進んでいない。

ヨリの頭の中に浮かんでいたのは、ただ一人の男性のことだった。

(……亮さん)

あの静かな病室。痛々しい包帯がしっかりと巻かれていた亮の左手。

ヨリはふと、自分の手元を見つめた。

「……左手を怪我してしまったら、お店は……」

誰もいない部屋で、小さく呟く。

亮は一人で小料理屋を営んでいる。包丁を握る料理人にとって、手は何よりも大切な命綱だ。

「どうするのかしら……日常の生活も大変でしょうね……」

知らず知らずのうちに、ヨリの眉間には心配そうなシワが寄せられていた。

その時――。

コンコン、とノックの音が静寂を破った。

「!」

ハッとして我に返るヨリ。

「……どうぞ」

ドアが開かれ、カン室長とチェ秘書が部屋へ入ってきた。

ヨリは一瞬で表情を引き締め、凛としたいつもの「代表」の顔に戻る。

「対話の件は?」

カン室長が手元の資料を開いた。

「はい。先日の地域住民との対話についてご報告いたします」

ヨリは静かに話を聞く。

住民たちの切実な意見、未来への不安、知識不足、そしてホテル建設に対する根強い反対意見。

一通りの報告を聞き終えたヨリは、ゆっくりと深く頷いた。

「……やはり、一度の対話で理解を得るのは無理ね」

「はい」

「もう少し対話を重ねてみましょう。皆さんが本当は何を望んでいるのか、もう少し詳しく知る必要があるわ」

「承知いたしました。警備に関しましても、今後さらに強化するよう指示を出します」

ヨリが深く頷く。

「お願いね」

すると、カン室長の表情がわずかに曇り、慎重な色を帯びた。

「それと……」

ヨリが顔を上げる。

「少し気になる情報が入りまして」

「何かしら?」

カン室長は周囲を窺うように、言葉を慎重に選んだ。

「代表を襲った暴漢ですが……どうも反対派の住民ではないようです」

ヨリの目がわずかに細められた。

「……そうなのね」

「地元の住民でもありません」

ヨリは腕を組み、思索を巡らせる。

「……少し調べる必要がありそうね」

「はい。ですが、それだけではありません」

カン室長が真剣な眼差しでヨリを見つめた。

「実は……すでにマスコミへ『反対派住民が過激化し暴走した』という内容の情報をリークしている者がいるようです」

ヨリの瞳に、鋭く冷ややかな光が宿る。

「……誰?」

カン室長は一度息を整えて答えた。

「副社長の周辺にいる人物のようです」

一瞬にして、代表室の空気が氷のように張り詰めた。

ヨリは何も言わず、静かに目の前の資料を閉じた。

「……なるほど」

その表情は、恐ろしいほど冷静だった。

「分かりました。引き続き、真相の調査をお願いします」

「承知いたしました」

カン室長とチェ秘書が頭を下げる。

ヨリはそのままチェ秘書に視線を向けた。

「今日の午後の予定は?」

チェ秘書が素早く端末でスケジュールを確認する。

「はい。午前中は資料の確認とオンライン会議が一件入っております。午後は……今のところ調整可能です」

ヨリが小さく頷いた。

「そう」

その瞬間、張っていた気が少しだけ緩み、柔らかい表情が戻る。

「では、午後から少し出掛けますので、あとの対応はよろしく頼むわね」

カン室長とチェ秘書は一瞬、不思議そうに顔を見合わせた。普段、多忙を極めるヨリが午後の予定を空けて外出するなど滅多にないことだからだ。

「……承知いたしました」

二人が退室すると、ヨリはゆっくりと立ち上がり、巨大なガラス窓から外の景色を見つめた。

その瞳には、仕事の冷徹な計算とは違う、温かく切ない光が宿っていた。

(……亮さん)

誰にも聞こえない声で、心の中で小さく語りかける。

(……本当に、無理をしていないかしら)

その頃、亮はまだ何も知らなかった。

ヨリが午後、自分に会うためにこちらに向かおうとしていることを――。

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