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第二十二話 宇宙人ですか?

――小料理屋の前・午後

午前中の公務と会議を終えたヨリは、いつもより少し足早に会社を後にした。

その急ぎ足の後ろ姿を、チェ秘書が不思議そうに見つめている。

(……代表、最近……)

チェ秘書は小さく首を傾げた。

以前のヨリであれば、社内での執務が終わればそのまま次の公務や会食へ向かうのが常であり、自ら進んで午後のスケジュールを空けることなど一度としてなかった。

それなのに、今日はわざわざ自ら時間を作り、どこか落ち着かない様子で会社を出て行ったのだ。

(……何か、変わられましたよね)

ヨリの心は、一直線に亮の小料理屋へと向かっていた。

(……亮さん)

病院で目にした、痛々しい包帯が巻かれた左手。

あの大きな怪我で、本当に毎日の生活や仕事は大丈夫なのだろうか。そればかりが頭から離れなかった。

しばらくして、ヨリの乗った車が小料理屋の少し手前に到着した。車を降り、店の前へと足を進めると、入り口に立つ一人の男の姿が見えた。

亮だった。

左手を痛そうにかばいながら、店の引き戸に一枚の張り紙を貼っているところだった。

ヨリがゆっくりと近づく。

張り紙には、力強い手書きの文字でこう記されていた。

『ご迷惑をお掛けしますが、しばらくお休みさせていただきます』

ヨリの足が自然と止まった。

その気配に察したように、亮が振り返る。

「あっ」

ヨリと亮の視線が、正面から重なり合った。

「亮さん……!」

ヨリが少し驚いた表情を見せる。

「もう……動いて平気なんですか?」

亮は困ったように笑った。

「あっ、ヨリさん」

そして、無事な右手でグッと力こぶを作るように腕を曲げ、お茶目に胸を張ってみせた。

「この通り、ピンピンしてますよ」

「……!」

一瞬呆然と亮を見つめていたヨリだったが、次の瞬間、思わずふっと吹き出してしまった。

「ふふっ……! 何ですか、それ……っ」

亮も和やかに笑う。

「『元気ですよ』っていうアピールです」

ヨリは可笑しそうに笑いながら首を振った。

しかしふと、視線が店の扉に貼られた張り紙へと向かう。

――しばらくお休みさせていただきます。

ヨリの顔から、ゆっくりと笑顔が消えていった。

「……お店、休まなきゃならなくなってしまったんですね」

亮は少しだけ困ったように、頭をかきながら笑う。

「まあ……左手がこの状態ですからね」

ヨリは胸が締め付けられるような痛みを覚えた。

「……本当に、ごめんなさい」

亮が少し驚いたように目を丸くする。ヨリは切切と言葉を重ねた。

「せめて……お休みなさる間の営業保証金を、ソンファからお支払いさせて――」

「ヨリさん」

亮がその言葉を、温かくも強い声で優しく遮った。

ヨリが顔を上げる。

亮の表情は、いつになく真剣だった。

「怒りますよ。本当に」

「……」

ヨリの瞳が大きく見開かれる。

亮はいつもの優しい眼差しでヨリを見つめ直した。

「俺が、俺の勝手でやったことです。ヨリさんが悪いと思う必要なんて、どこにもないんです」

亮の優しく包み込むような顔。そして、嘘の偽りもない真っ直ぐな瞳。

ヨリはその瞳に見つめられ、吸い込まれてしまいそうだった。

「……どうして……」

小さく漏れるヨリの呟き。

亮は再びふっと柔らかく笑った。

「少しくらい蓄えもありますし……まあ、なるようになりますから」

その笑顔には一点の曇りもなかった。

ヨリは何も言えなくなり、ただ目の前の亮をじっと見つめるしかなかった。

(……この人は、どうしてこんなにも優しいのだろう)

自分が店を休業せざるを得なくなった原因かもしれないのに。

それでも一度として責めることなく、むしろ自分を心配させまいとおどけて笑ってみせる。

ヨリの胸の奥深くで、今まで感じたことのない温かく切ない何かが、静かに脈打ち始めていた。


 亮の優しい笑顔を見つめながら、ヨリは少しだけ胸の中で迷っていた。

そして、意を決したように静かに口を開く。

「亮さん……」

亮が包帯の巻かれた手に視線を落としたまま、ヨリを見た。

「はい?」

ヨリは誤魔化すことなく、亮の瞳を真っ直ぐに見つめる。

「……一つ、聞いても良いですか?」

亮は少し首を傾げた。

「はい、何でもどうぞ」

ヨリは一度、亮から視線を外し、思考を整理するように息を吸った。何から聞けばいいのか、自分でも上手く整理がついていない。

そして、再び亮へと視線を戻す。

「……あの日」

亮の表情が、わずかに緊張を帯びて変わった。

「建設現場で、私を助けてくれた時――」

ヨリの頭の中に、あの恐ろしい瞬間の光景が鮮烈に蘇る。

頭上から落下してくる巨大な鉄骨。死を覚悟した瞬間、あり得ないほどの速度で自分の目の前に突然現れた亮の姿。

「どうして……」

ヨリの声が、少し小さく沈む。

「どうして、私が危ないって分かったんですか?」

亮は一瞬、何も言わずに言葉を呑み込んだ。ヨリはさらに踏み込んで問いかける。

「亮さん。あの時……ものすごい速さで私のところへ来ました」

亮は少し困ったように苦笑いを浮かべた。

「……そうでしたっけ?」

ヨリは逃がさないように、すぐさま言い返した。

「そうでした。私、鮮明に覚えています。亮さんが突然目の前に現れて、そして……」

言いかけて、ヨリはふと少し恥ずかしそうに言葉を止めた。

亮が首を傾げる。

「そして?」

ヨリは少し目を逸らしながら、小さく呟いた。

「……私を、抱きしめました」

亮の動きが、一瞬ピタリと止まる。

「……あぁ、それは……そうしないと間に合わなかったからで……」

「間に合わなかった? 何にですか?」

言葉に詰まる亮。ヨリはさらに真剣な眼差しで畳み掛ける。

「それに……今回もです。亮さんは突然、私の目の前に現れました。どうして分かったんですか? 私が危険だって……」

亮は答えられない。ヨリは真摯な表情で言った。

「なぜあんなにも迷うことなく、私を助けられたんですか?」

亮は参ったように困り果て、ふっと弱く笑った。

「……それはですね……俺にも、よく分からないんですよ」

「……え?」

亮は無事な右手で頭をかいた。

「気がついたら、身体が勝手に動いてたんですよ。ヨリさんが危ないと思ったら、考えるより先に動いてた……ただそれだけです」

ヨリは亮の言葉をじっと聞いていたが、まだ到底納得がいっていないようだった。

「でも、それで……あんな速さで……?」

亮が苦笑いしながら言い訳を添える。

「昔、少しだけ足が速かったんですよ」

「……少しだけ?」

ヨリが心底怪訝そうな顔をする。亮は「あはは……」と乾いた笑声を漏らして誤魔化そうとした。

しかし、ヨリは亮から一切目を離さない。

「……亮さん」

「はい?」

ヨリは少しだけ首を傾げ、至極真面目な顔のまま言った。

「もしかして……」

亮が思わず身構える。

「……何です?」

ヨリは少しだけ目を細め、大真面目に尋ねた。

「……宇宙人ですか?」

「…………」

亮は完全にフリーズした。

「……は?」

ヨリはいたって真剣そのものの表情だ。

「だって……普通の人間があんな速さで突然目の前に現れたりしません」

亮は真顔で一瞬考え込んだ。

「……確かに。いや! 確かにじゃないです! 宇宙人ちゃいますよ!」

思わずツッコミと一緒に関西弁が飛び出す亮。それを見たヨリは、張り詰めていた緊張が弾けたように、思わず吹き出してしまった。

「ふふっ……! ですよね……っ」

「……」

亮は呆れたように、けれどどこか嬉しそうにヨリを見た。

「本気で考えてました?」

「……少しだけ」

亮も堪えきれずに笑ってしまう。

小料理屋の前に、二人の柔らかな笑い声が静かに響き渡った。

けれど――ヨリの胸の奥深くには、まだ消えない温かな疑問が残っていた。

(……亮さん。あなたはいったい、何者なの?)

そして、どうしてそこまで命を懸けて自分を守ってくれるのか。

その本当の答えを、ヨリはまだ知らない。

でも――知りたい。

(もっと……この人のことを知りたい)

ヨリは、胸の奥で芽生え始めた自分自身の恋心に、まだ気づいていなかった。

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