第二十三話 胸騒ぎの再会
小料理屋の前で、亮は優しくヨリを見つめた。
「ヨリさん。良かったら……」
少しだけ間を置いて、亮は提案するように言葉を続ける。
「少し、歩きませんか?」
ヨリは意外な誘いに少し驚いた顔をした。
「えっ?」
そして咄嗟に、包帯が痛々しく巻かれた亮の左手に視線を落とす。
「わ……私は大丈夫ですが……亮さんはまだ無理をなさらない方が……」
亮は不安を払拭するように、いつもの温かい笑顔を浮かべた。
「俺なら本当に、もう大丈夫です」
ヨリはじっと亮の顔を見つめた。
(……本当に?)
まだ怪我が癒えていないのに、自分の前で無理をしているのではないか。そんな心配が頭をよぎる。
けれど、亮の優しい瞳を見つめていると、吸い込まれてしまいそうな不思議な安心感に包まれるのだった。
「……そうですか」
ヨリは小さく微笑んだ。
「では」
秋の柔らかな日差しの中、二人は並んでゆっくりと歩き始めた。
ヨリは亮との距離感を、密かに意識している。
遠すぎず、近すぎず、傍目にはごく自然に見える距離。
けれど自分の中では、どこかいつもより少しだけ近く感じられていた。
亮が前を向いたまま、ぽつりと口を開く。
「……なんか、気になるんですよね」
その言葉に、ヨリの心臓がどきりと跳ねた。
「えっ……?」
予期せぬ言葉に動揺を隠せない。
「な……何が気になるんですか?」
亮は足を緩め、ヨリの方を見た。
「ヨリさん」
「えっ……?」
(……私のこと!?)
一瞬、自意識過剰な考えが頭をよぎり、ヨリの頬が熱くなる。
しかし亮の表情は、真剣そのものだった。
「俺と知り合ってから、もう二回も危ない目に遭ってますよね。俺の知らないところでも、こんなことがあったりするんですか?」
ヨリは拍子抜けすると同時に、胸の奥がくすぐったくなり、小さく苦笑した。
(……そういう意味、だったのね)
「……あるんですか!?」
真顔で心配そうに尋ねてくる亮に、ヨリは首を横に振った。
「いいえ。亮さんに助けていただいた、あの二回だけです」
亮は心底安堵したように息を吐いた。
「そうですか……」
そして何かを思案するように少し考え込んだあと、言いにくそうに口を開いた。
「ヨリさん……本当に嫌でなかったらなんですけど……」
ヨリが亮を見つめる。
「連絡先を、交換してもらえませんか?」
ヨリは目を丸くして亮を見た。
亮は急に恥ずかしくなったように慌てて頭をかく。
「あっ……その……愛菜もヨリさんのことをすごく心配してて……俺みたいな者でも、何か役に立てることがないかなぁって考えてしまって……」
亮は真っ直ぐにヨリを見つめた。その瞳には偽りのない真摯な思いが宿っている。
亮自身もまだ分かっていない。この感情がただの心配なのか、それとも胸の奥に芽生えた特別な感情なのか。理由はうまく説明できない。
けれど、確かなことが一つだけあった。
「……理由は上手く説明できないんですけど、ヨリさんが、心配で」
ヨリの足が自然と止まった。
「……」
ヨリは亮を見つめ、やがてじわりと胸の奥から溢れ出る温もりとともに、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
亮が少し驚いたように目を配る。
「亮さんのお気持ち……とても嬉しいです」
ヨリはバッグからスマートフォンを取り出した。
「……交換しましょう」
亮の顔にも、一気に明るい笑顔が弾けた。
「ほんとですか?」
「はい」
二人は並んで画面を操作し、連絡先を交換した。
ヨリは自分の画面に登録された名前を見つめる。
『亮さん』
そのシンプルな文字を、少しだけ愛おしそうに見つめたあと、スマートフォンをそっと胸元へ寄せた。
(……今まで、ずっと一人だった)
若くして両親を失い、ソンファ・グループの重圧を背負って生きる中で、誰かとこんな風に互いを思いやり、心配し合うことなどほとんどなかった。
でも、今は亮がいる。そして、愛菜もいる。
その事実が、ただたまらなく嬉しかった。
(……独りじゃない)
その想いが今、ヨリの中で初めて確かな実感を伴って胸を満たしていく。
二人は再び、ゆっくりと歩き始めた。
先ほどまでとはどこか違う、互いの温もりが触れ合いそうなほど、二人の距離はほんの少しだけ近くなっていた。
連絡先を交換した後――。
二人は穏やかな余韻に包まれながらゆっくりと歩き、小料理屋の前へと戻ってきた。
ヨリはスマートフォンを両手に持ったまま、画面に表示された『亮さん』の文字を嬉しそうに、愛おしそうに見つめている。
亮もどこか照れくさそうに、けれど満足そうに目を細めていた。
しかし――店の前に一人の女性が立っていることに、ヨリが気づいた。
「お客さん……ですかね?」
上品な立ち振る舞いと洗練された装いの女性。
彼女は、引き戸に貼られた『ご迷惑をお掛けしますが、しばらくお休みさせていただきます』という張り紙を、静かに読んでいるようだった。
亮も不思議そうに首を傾げる。
「……??」
その時、気配を察したように女性がゆっくりと顔を上げた。
探すような視線が亮の姿を捉えた瞬間、その美しい表情が一気に華やぎ、変わった。
驚き、そして溢れんばかりの眩しい笑顔。
「…………亮ちゃん……?」
亮の足がピタリと止まる。
「……え?」
次の瞬間――女性は勢いよく亮に向かって駆け出した。
「亮ちゃーーーん!!」
あまりの急展開に、ヨリが息を呑む。
「……えっ?」
亮の目の前まで駆け寄ってきた女性――ジヨンは、躊躇うことなくそのまま――
ぎゅっ。
と、亮の体に強く抱きついた。
「ジ……ジヨン……!?」
予期せぬ出来事と抱擁に、亮は驚きのあまり完全に固まってしまった。
「会いたかった……! 本当に亮ちゃんだ……!」
嬉しそうに亮に抱きつき、そのぬくもりを確かめるジヨン。
そして――その二人の姿を、すぐ隣で立ち尽くしたまま見つめるヨリ。
ヨリの瞳が大きく見開かれ、胸の奥で何かが冷たく冷え切っていくような衝撃が走る。
(……亮ちゃん……?)
さっきまで感じていた胸の温もりも、二人だけの特別な空気も、一瞬にして吹き飛んでいく。
呼び捨てではなく、親しみを込めた「亮ちゃん」という呼び名。
そして、ためらいもなく抱きつけるほどの親密な距離感。
ヨリは二人を凝視したまま、言葉を完全に失っていた。




