第四十六話 忍び寄る影と歪められた記憶
楽しかったお祝いの宴も終わり、夜の静けさが街を包む頃。
亮と愛菜は、車でヨリを自宅である重厚な邸宅の敷地前まで送っていった。
車を降りたヨリが、後部座席から振り返る。
「今日は本当にありがとう」
愛菜が窓を開けて、嬉しそうに笑った。
「こっちこそ! ヨリさん、また一緒に買い物行こうね!」
運転席の亮も優しく笑い、声をかける。
「また店にも来てください」
「はい」
互いに見つめ合い、三人が温かく笑い合う。
だが――その微笑ましい姿を。
少し離れた物陰から、黒い影が静かに見つめていた。
カシャ、カシャ、カシャ……。
暗闇の中に、連続するカメラのシャッター音が虚しく響いていた。
◇
翌日。
愛菜のスマートフォンに、一通の連絡が入った。
(……ヨリさんから……?)
差出人の名前に見覚えはなかったものの、ヨリの会社関係者を名乗る連絡に、愛菜は急いでソンファ本社ビルへと向かった。
そびえ立つ壮大なビルの受付で、少し緊張しながら名前を告げる。
「あの……ヨリさんとお会いする約束をしていて……」
受付係の女性は一瞬だけ戸惑うような表情を見せたが、すぐに丁寧に電話を取り確認した。
「……少々お待ちください」
やがて、受話器を置いた受付係が愛菜を案内する。
「こちらへどうぞ」
エレベーターが上昇していく。
案内されたのは――ソンファ本社ビルの最上階にある、重厚な副社長室だった。
中に足を踏み入れると、一人の男性が待っていた。
ヨリの叔父――ドヒョンだった。
「突然呼び出してしまってすまないね」
ドヒョンは穏やかな笑みを浮かべ、愛菜にソファーを勧める。
愛菜は少し緊張しながら、丁寧にお辞儀をした。
「いえ……ヨリさんに会えると思って来たんですけど……」
「そうだったのか」
ドヒョンは優しげに笑う。
それからしばらくの間、ドヒョンは親しげに他愛もない話を振ってきた。
愛菜の通っている学校のこと。
アルバイトや将来の仕事のこと。
そして、ヨリとどうやって知り合い、どんな関係なのかということ。
愛菜は戸惑いながらも、素直に答えていた。
だが――。
ふと、ドヒョンの表情が少しだけ陰りを帯びた。
「……ところで」
「はい?」
「君のお母さんのことなんだが……」
その一言で、愛菜の顔から一瞬にして笑顔が消え去った。
「……母……?」
ドヒョンは、いかにも申し訳なさそうな、痛ましい表情を作ってみせる。
「17年前の事故……本当に気の毒だった」
愛菜はハッと息を呑む。
亡き母・ソヨンの名が出るとは思ってもみなかったからだ。
ドヒョンは小さくため息をつきながら、ゆっくりと言葉を重ねた。
「お母さんには、ヨリの身内として……心からお詫びしたい」
「……え?」
意味が分からず、愛菜の瞳が戸惑いに揺れる。
ドヒョンは悲痛な面持ちで、重々しく告げた。
「ヨリが……あんなことをしなければ」
「……ッ」
「ソヨンさんも、死なずに済んだのに」
「…………」
一瞬で、頭の中が真っ白になった。
鼓動がドクンと嫌な音を立てる。
「どう……いうことでしょうか……?」
声が震えた。手先がすっと冷たくなっていく。
「私には……何のことなのか、全く分かりません……」
ドヒョンはわざとらしく驚いた顔をしてみせた。
「……ああ」
少し間を置いて、悲しそうに視線を落とす。
「ヨリから、何も聞いていないんだね」
愛菜は言葉を失った。
「ヨリさんが……?」
ドヒョンはためらうように言葉を濁す。
「いや……私から話すべきことではないのかもしれない。忘れておくれ」
「教えてください!」
愛菜は思わず身を乗り出していた。
胸がざわざわと騒ぎ、呼吸が浅くなる。
ドヒョンはしばらく黙り込んだあと、意を決したように重い口を開いた。
「……すまない」
反対に、愛菜の目をまっすぐに見つめて言った。
「私は君を心配しているんだ」
「私を……?」
「なぜ今になって、ヨリが君たちに近づいたのか」
ドヒョンの投げかけた言葉が、刃のように愛菜の胸に突き刺さる。
「昔の事故と関係があるのではないか……そう考えてしまう」
「そんな……っ」
ドヒョンは首を横に振った。
「もちろん、私の考えすぎかもしれない。ヨリに悪気はないのかもしれないが……」
そして最後に、静かに、諭すように言った。
「でも……君のお母さんのことを何も知らされていない君が、ヨリとあれほど親しくしているのを見ると……少し怖くなるんだよ」
愛菜の頭の中に、昨日のヨリの笑顔が鮮明に浮かぶ。
誕生日に温かく抱きしめてくれた、あの腕の温もり。
一生懸命選んでくれた、胸元で光るペンダント。
まっすぐな目で「大好き」と言ってくれたヨリ。
それら全てが、グラグラと足元から崩れ去っていく。
(ヨリさんが……私に隠し事をしてる……? お母さんの事故に、ヨリさんが関係してる……?)
「……詳しく教えていただけませんか」
愛菜の声は、自分でも驚くほど震えていた。
「母のことを……全部知りたいです」
ドヒョンはそっと目を伏せる。
うつむいたドヒョンの口元に――ほんの一瞬だけ、冷酷な笑みが浮かんだ。
罠にかかった。
だが愛菜はまだ知らない。
ドヒョンが語ろうとしている言葉の全てが、真実などではないことを。
17年前の悲劇を悪用し、愛菜とヨリの絆をズタズタに引き裂くための、あまりにも巧妙で悪意に満ちた「嘘」だということを――。




