第四十二話 二人で探すもの
店内には、静かで穏やかな時間が流れていた。
営業再開を目前に控えた店の中には、昆布と鰹節の出汁の優しい香りがほんのりと漂っている。
カウンターを挟んで向かい合って座る亮とヨリ。
先ほどまで17年前の海難事故とソヨンの遺志について話し合っていた二人の間には、まだどこか重く切ない余韻が漂っていた。
ヨリは、意を決したようにゆっくりと口を開く。
「実は私も……17年前の海難事故について、独自に調べ直していて……」
亮は黙って、まっすぐにヨリを見つめた。
「亮さんと愛菜さん、そしてソヨンさんが同じ船に乗船していたこと……。そして私を助けていただいたこと、ソヨンさんが亡くなってしまった理由を知りました……」
ヨリは一度言葉を切り、喉を鳴らす。
顔を上げ、かすかに震える声で続けた。
「そして……私の両親が亡くなったのも……すべてがただの偶然ではないのではないかと……」
亮の表情が、すっと緊迫したものへと変わる。
「……仕組まれた事件だった、と?」
亮は口にしながらも、その恐ろしい言葉を声にすることに一瞬の躊躇いがあった。
17年前の、あの氷のように冷たい海。
そして、自分たちを庇って沈んでいったソヨン。
亮は視線を手元へ落とし、静かに言葉を紡ぐ。
「実は……俺もそう考えています」
ヨリがハッと顔を上げた。
「確信的な記憶ではないのですが……」
その瞬間だった。
亮とヨリの声が、示し合わせたかのように同時に重なった。
「「黒いスーツの男たち……!」」
二人は息を呑み、固く顔を見合わせる。
しばらくの間、静寂が店内に落ち、言葉が出てこなかった。
ヨリの脳裏に、あの日恐ろしい恐怖とともに焼き付いた断片的な記憶が蘇る。
無機質な黒い服。
激しく傾く船体。
海へと消えた両親。
そして、自分と愛菜が繋いでいた小さな手の感触。
ヨリは深く息を吐き、静かに口を開いた。
「私の……うっすらとした記憶の中にも残っているんです。その男たちが……」
亮は言葉を挟まず、静かに耳を傾ける。
「その男たちが……私の両親、そして私と愛菜さんを……海へ……」
言葉にするだけでも胸が押し潰されそうに苦しかった。
ヨリはやるせなく目を伏せる。
「ただ……何一つ、客観的な証拠はありません。今のところは……」
亮は少し思案するように目を細め、ゆっくりとうなずいた。
「それを……ずっと一人で調べておられたんですね……」
「はい……」
短い返事。
けれどその声には、決して折れない強い覚悟が込められていた。
亮はヨリの疲弊した、けれど芯のある瞳を見つめる。
「ヨリさんが以前、危ない目に遭われたのも……その件と関連が?」
ヨリはすぐには答えなかった。
「それは……まだ分かりません」
少し間を置いてから、慎重に続ける。
「ですが……可能性は、十分にあるかもしれません……」
亮は何も言わず、ヨリの言葉をひとつ重く受け止めた。
ヨリは逃げずに、まっすぐ亮を見つめ返す。
「いずれにせよ……調査は続けるつもりです」
「分かりました」
亮は静かに、けれど力強く答えた。
そしてほんの少し間を置いてから、覚悟を込めてヨリに問いかける。
「できれば……これからの調査の情報、俺にも共有していただけませんか?」
「え?」
ヨリが驚いたようにパチクリと目を丸くした。
亮は、逸らすことなくヨリの瞳を見つめ続ける。
「ヨリさんを……もう二度と危険な目に遭わせたくないんです」
その言葉には、一切の飾り気も誤魔化しもなかった。
「俺に何ができるのかは分かりませんが……」
亮は一瞬だけ言葉を詰まらせ、胸の奥にある素直な想いを言葉に乗せた。
「……ヨリさんを、独りにさせたくないんです」
ヨリの胸が、きゅっと切なく締め付けられた。
以前の自分なら、この言葉を聞くだけで嬉しくて涙が出たかもしれない。
けれど今は、17年前の真実の重みを知ってしまった自分に、亮のこの圧倒的な優しさを手放しで受け取る資格があるのか分からなかった。
それでも――。
飾り気のない亮の真っ直ぐな想いは、凍えていたヨリの心の奥深くへと温かく届いていた。
「亮さん……ありがとうございます」
ヨリの唇から、小さな笑みが零れ落ちた。
亮もまた、安堵したように優しくうなずく。
そして、もう一つだけ大切なことを確かめるように口を開いた。
「あと……愛菜に17年前の真実を話すのは……」
亮の表情が、少しだけ父親の顔になって曇る。
「できれば……俺の口から話すまで、待っていただけますか?」
ヨリはその意味を痛いほど理解した。
愛菜にとって、母親であるソヨンの死は17年間ずっと心の奥底に眠る繊細で傷つきやすい記憶だ。
その事実をどう伝えるかは、父親である亮自身の責任であり愛なのだ。
「分かりました」
ヨリは静かに、深くうなずいた。
「ありがとうございます」
亮はそう言うと、ふっと緊張を解くように表情を和らげた。
店内に漂っていた重苦しい空気を、少しでも払いのけるように。
「それと……もう一つだけ、相談に乗っていただけますか?」
「もちろんです」
ヨリの表情も自然と柔らかくなる。
亮は少し照れくさそうに、後頭部を掻いた。
「ずっと……愛菜の誕生日プレゼントに何を選べばいいか悩んでいまして……」
その微笑ましい悩みに、ヨリの頬が緩む。
「きっと……亮さんが選んでくれたものなら、何であっても喜んでくれますよ、愛菜さんは」
ヨリの温かな言葉に、亮は苦笑いを浮かべた。
「そうなんですけど……」
少し恥ずかしそうに視線を泳がせながら続ける。
「俺……本当にそういうセンスの欠片もなくて……」
ヨリは思わず、クスクスと小さく声を立てて笑ってしまった。
亮は一転して、真剣な眼差しでヨリを見つめた。
「できれば……一緒に選んでいただきたいんです」
そして――。
「ヨリさんに」
まっすぐな瞳。そこにはもう、迷いや躊躇いは何一つなかった。
ヨリは一瞬、息を呑み言葉を失う。
距離を置いていた頃の自分なら、この瞬間をどれほど切望していただろう。
そして今――。
ヨリは久しぶりに、心の底から自然で穏やかな笑顔を浮かべることができていた。
「ふふ……じゃあ……」
ヨリは亮の温かな瞳を見つめ返す。
「二人で選びに行きましょうか」
亮の顔にも、パッと花が咲いたような自然な笑顔が広がった。
「はい!」
17年前の暗い海。
黒いスーツの男たち。
満足な手応えが得られていない惨劇の真相――。
二人の前には、これから乗り越えなければならない大きな謎と試練が残されている。
(……一人やない)
(ヨリさんも、俺も……もう独りやない)
亮は心の中で静かに噛みしめた。
今この瞬間だけは、ヨリの心に優しく温かな光が戻っていた。
こうして二人は、大切な愛菜の誕生日プレゼントを一緒に選ぶという、小さな約束を交わしたのだった――。




