第四十一話 託された想い
亮から届いた愛菜の誕生日の相談メールを受けて、ヨリは葛藤の末、自ら亮へと電話をかけた。
受話器の向こうから聞こえる、久しぶりの亮の声。
それだけで、ヨリの胸はキュッと切なく締め付けられた。
『もしもし……』
「亮さん、おはようございます」
『ヨリさん……お忙しいのに、すみません』
「少しだけ時間を作れましたので……。よろしければ、これからお店に伺いましょうか?」
『愛菜も今日は学校ですし……ちょうどよかったんですが、本当に甘えてしまってもいいんですか?』
「ええ。では、今からそちらに向かいますね」
『ヨリさん……』
「えっ?」
『……あ、いえ、なんでもないです。気をつけて来てくださいね』
「はい」
どこかぎこちない空気。
以前なら、もっと自然に他愛もない会話を交わせていたはずなのに。
電話を切ったあと、二人はそれぞれの場所で、しばらくの間スマートフォンの画面をじっと見つめていた。
しばらくして――。
ヨリは静かに亮の小料理屋へと到着した。
「おはようございます……」
ガラガラと引き戸を開ける。
その瞬間――ふわっと、出汁の優しく香ばしい匂いがヨリの全身を包み込んだ。
「ヨリさん!」
厨房の奥から亮が振り返る。
「おはようございます!」
その温かな笑顔。
知識や記憶があっても、あの日と何一つ変わらない、包み込むような優しい眼差し。
「亮さん……」
ヨリの胸が強く締め付けられる。
(……どうして……)
(どうして、そんな温かい目をして私を見るの……?)
自分は罪悪感から二人と距離を置こうとしている。
それなのに亮は何も責めず、いつもと変わらない圧倒的な優しさを向けてくれる。
その温もりが、かえってヨリの罪悪感をいっそう深く重くしていた。
「本当にすみません……」
亮が申し訳なさそうに頭を下げる。
「お忙しいと聞いていたのに……甘えてしまって」
「いいえ……」
「どうぞ、そちらに腰掛けてください」
ヨリは促されるままカウンターの椅子へ腰掛けた。
亮はその顔を静かに見つめる。
以前より少しやつれたその顔に、胸が痛んだ。
「ヨリさん……」
「はい?」
「ちゃんと……ご飯、食べてますか?」
ヨリは一瞬、言葉を詰まらせた。
亮がどこまでも自分を心配してくれている。その愚直なまでの思い遣りが、痛いほど心に刺さる。
「ええ……それなりに、食事も取れていますよ」
「……そうですか」
亮は少しホッとしたように息を吐いた。
それでも――亮の視線は、ヨリから離れない。
じっと、愛おしむようにヨリを見つめ続ける。
その深い瞳の奥に――あの日、夢の中で見た幼い少女の面影が鮮やかに重なっていった。
10歳のヨリ。
荒れ狂う海の中で、自分より小さな愛菜の手を固く握りしめていた少女。
(……やっぱり……)
(間違いやない……)
(ヨリさんやったんや……)
ヨリは、亮のどこか切切とした視線に戸惑いを隠せない。
「……どうかされましたか?」
「えっ?」
亮はハッと我に返った。
「あ……いえ、すみません」
少し慌てた様子で視線を外す。
胸の奥に抱え込んできた真実を伝えるため、すっと表情を引き締めた。
「今日、本当は愛菜の誕生日の相談をするつもりだったんです」
「はい……」
亮は言葉を一度切り、深く息を吸い込んだ。
「でも、その前に……どうしても」
再び、まっすぐにヨリを見つめ返す。
「どうしても、ヨリさんと話しておきたいことがあって……」
その真剣な眼差しと声のトーンに、ヨリの胸が不穏にざわめき始める。
「……どんなお話ですか?」
亮は溢れ出そうになる感情を抑えるように、もう一度息を整えた。
「もし……」
声がかすかに震える。
「聞きたくない……話したくない……そんな気持ちになったら、遠慮せずにすぐに止めてください」
ヨリは理由も分からぬまま戸惑い、それでも小さく頷いた。
「え……ええ」
亮は静かに、けれど慈愛を込めて口を開いた。
「実は……17年前のことを……」
一瞬、言葉を詰まらせる。
「ソヨンから……教えてもらったんです」
「……えっ?」
ヨリの瞳が大きく見開かれた。
「ソヨンさんに……?」
「はい」
亮自身、それが常識では信じてもらえない話だと分かっていた。
「変なことを言っていると思われるかもしれません……」
それでも、途切れさせずに言葉を紡ぐ。
「でも……そのおかげで、忘れていた記憶がすべて蘇って……」
亮はゆっくりと、愛おしそうにヨリを見つめた。
「気づいたんです……遅すぎますけど……」
「……?」
ヨリの胸が、早鐘のように大きく脈打つ。
「ヨリさんが……ソヨンの写真を見た時から」
「……」
「様子が変わってしまった理由に」
ヨリの目から――ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
亮は、確信した。
そして、静かに、優しく告げた。
「ヨリさんだったんですね……」
「……」
「ソヨンが助けた、小さな女の子……」
亮の声が震えていた。
「愛菜の手を、絶対に離さなかった女の子は……」
涙を浮かべたヨリをまっすぐに見つめる。
「ヨリさん……あなただったんですね」
その瞬間――ヨリの目から、溢れ出る涙が止まらなくなった。
「……ごめんなさい……」
「ヨリさん……」
「ごめんなさい、亮さん……っ」
ヨリは耐えきれずに深く俯く。
「私のせいで……」
言葉にならないまま、震える声を絞り出す。
「私なんかのために……ソヨンさんが……っ」
「ヨリさん」
亮が、きっぱりと、けれど温かくその言葉を遮った。
ヨリがハッと顔を上げる。
亮の表情には、ヨリを責める色など何一つなかった。ただただ、慈悲に満ちた眼差しがあるだけだった。
「ヨリさん……大きな誤解をなさっていますよ」
「……え?」
亮は、一つひとつの言葉を噛みしめるように続けた。
「あなたが……愛菜を救ってくれたんです」
「……」
「ソヨンは……ヨリさんと愛菜、二人を助けてほしいって……俺に託してくれたんです」
ヨリの頬を、幾筋もの涙が絶え間なく伝い落ちていく。
「ソヨンも分かっていたんです」
亮の声はどこまでも穏やかで、温かかった。
「ヨリさんが、激しい波の中で愛菜の手をしっかりと離さずに……必死に守ってくれていたことを」
「……」
「ソヨンも……ちゃんと分かっていたんです」
亮の瞳にも、熱い涙が溢れていた。
「だから……俺に託したんです」
「……」
「ヨリさんを……愛菜を……」
「二人を守ってほしいって」
ヨリは何も言えなかった。
ただ、溢れる涙の向こうで亮の言葉に耳を傾けていた。
今まで自分を責め立て、心を苛み続けていた暗い罪悪感の底へ――亮の優しく力強い言葉が、沁み渡るように広がっていく。
「ヨリさん……」
亮は優しくヨリを見つめた。
「17年前、あなたは幼い愛菜の手を絶対に離さなかった」
「それは……ヨリさんが愛菜を守ってくれたという、紛れもない真実ですよ」
ヨリの胸が激しく打ち震える。
ずっと自分は奪ったのだと思い込んでいた。
ソヨンを。愛菜のお母さんを。亮の最愛の妻を。
けれど――亮は、真逆の真実を教えてくれた。
「あの日……ソヨンが最後に俺に託したのは――」
亮の声が、温かく静かに響き渡る。
「ヨリさんと愛菜を、俺の手で守ることだったんです」
ヨリは涙で滲む視界の中で、亮の姿をじっと見つめ続けた。
その瞬間――
ヨリを冷たく縛りつけていた恐怖と罪悪感の鎖が、亮の圧倒的な愛と優しさによって、ゆっくりと解け消えていった。
まるで――亮の想いそのものが、傷ついたヨリの心を優しく包み込む柔らかなベールのように。
そしてヨリは生まれて初めて――
自分が大切なものを「奪った側」などではなく、ソヨンから想いを「託された側」だったのかもしれないという、小さくも温かな光を感じ始めていた――。




