第四十話 夢の中の真実
その日の夜――。
亮は重い瞼を閉じ、深い眠りへと落ちていった。
そして――夢を見ていた。
――17年前、闇に包まれた絶望の海。
当時、3歳になったばかりの愛菜を連れ、亮とソヨンは家族旅行に出かけていた。
その夜。三人にとって、温かな思い出の一つになるはずだった小さな遊覧船。
たくさんの乗客を乗せ、船は静かな夜の海へと出港していった。
その乗客の中には――当時10歳だったヨリと、その両親の仲睦まじい姿もあった。
最初は、何一つおかしいところはなかった。
ところが――船は少しずつ、予定されていた正常な航路を外れ始める。
さらに船体は、海流の激しく荒れ狂う危険なエリアへと侵入していった。
(……あれ?)
違和感を覚えた亮が周囲を見回す。
その瞬間――船体が軋み、大きく傾くように揺れ始めた。
「ソヨン!」
二人が同時に振り返る。
「愛菜は!?」
「……え?」
そこに、いるはずの愛菜の姿がない。
「愛菜!」
「愛菜ーっ!」
亮とソヨンは青ざめ、慌てて二手に分かれて愛菜を探し始めた。
船の激しい揺れは増すばかりで、客室からは乗客たちの悲鳴が上がる。
そんなパニックの中――泣きじゃくりながら船内を彷徨っていた愛菜を、一人の少女が見つけ出していた。
10歳のヨリだった。
「大丈夫?」
震えて泣く愛菜の手を、ヨリは力強く、しっかりと握りしめる。
「お父さんとお母さんのところに行こうね」
小さな手を握ったまま、ヨリは愛菜を連れて自分の両親のもとへ向かおうとしていた。
その姿を――ソヨンが発見する。
「……愛菜!」
そして、愛菜の隣で必死に手を引いてくれている少女の存在にも気づいた。
一瞬、安堵の息を漏らすソヨン。
しかし――次の瞬間、ソヨンの表情が一変した。
船内に紛れ込んでいた、異彩を放つ真っ黒なスーツを着た男たち。
その男たちの不穏で無機質な動き。
(……何……?)
ソヨンは本能的に、恐ろしい何かが起きていることを察知した。
その頃――船は容赦なく大きく傾き続けていた。
乗客は混乱の極みに達し、パニックが広がる。ドヒョンに買収されていた船長は、指示通りわざと船を激しい潮流へと追い込んでいたのだった。
「もっと切れ……!」
船体が大きく斜めに倒れ込む。
そして――その瞬間、真っ黒なスーツの男たちが牙を剥いた。
ヨリの両親へと不気味に近づき――躊躇なく二人を激しい海へ突き落としたのだ。
「……ッ!?」
ソヨンは息を呑んだ。
あまりの光景に危険を察知したソヨンは、愛菜とヨリのもとへ向かって遮二無二走り出す。
反対側からは――亮の姿が見えた。
亮もまた、押し寄せる人波の向こうにソヨンを見つける。
その瞬間――。
『――ッ!!』
強烈な耳鳴りが、突き刺すような激痛とともに亮の脳髄を襲った。
キィィィィィン――。
一瞬、周囲の音が消え去り、世界が静止したかのように思えた。
(……なんや……!?)
亮の脳裏に、強烈な記憶の未来視・過去視の映像が直接流れ込んでくる。
――ソヨンが、漆黒の海へ飛び込んでいく光景。
(……なんや!? 一体……何が起こってるんや……!?)
何が見えているのか、それが何を意味しているのか、当時の亮には全く理解できなかった。
そして激しい耳鳴りとともに映像が途切れる。
現実へと引き戻された亮は、狂ったようにソヨンのもとへ向かおうとした。
しかし――上階に潜んでいた黒スーツの男たちが、大きな荷物を意図的に下へ叩き落とした。
「うわぁぁっ!」
「危ない!」
乗客たちがさらにパニックを起こし、ドッと押し寄せる人波に亮は押し戻される。
「どいてくれ! 頼むからどいてくれ!」
思うように前へ進めない。
その頃――ソヨンはあと一歩のところまで二人へ近づいていた。
「愛菜!」
けれど――間に合わなかった。
黒いスーツの男たちが、ヨリと愛菜の身体を――容赦なく海へ突き落とした。
「――ッ!!」
ソヨンは一瞬たりとも躊躇しなかった。
二人の身体が海へ消えた瞬間――己の命を投げ打ち、自ら荒れ狂う海へ飛び込んだ。
その時。
人波を力任せに押し分け、ようやく視界が開けた亮の目に、ソヨンが海へ躍り出る姿が焼き付いた。
「ソヨン――ッ!!」
亮もまた、迷うことなくその絶望の海へ飛び込んだ――。
漆黒の、氷のように冷たい海。
ソヨンは必死に深く潜っていく。
海中へ沈んでいく愛菜とヨリの姿を、暗闇の中に見つけた。
ヨリは水の中でも、愛菜の手を握りしめたまま離さずにいた。そのおかげで、二人はバラバラにならずに済んでいたのだ。
「……!」
ソヨンは二人を力強く抱き寄せると、残された全生命力を振り絞って海面へと押し上げていく。
――肺が潰れそうに苦しい。
――それでも、絶対にこの手だけは離さない。
やがて、奇跡的に一瞬だけ三人の顔が海面へと躍り出た。
その視線の先に――亮の姿があった。
「亮!」
ソヨンが必死に叫ぶ。
「愛菜と……この子を!」
必死に二人の身体を亮の方へ押しやる。
「二人を助けて! お願い!」
亮は死に物狂いで腕を伸ばした。
「必ず助ける!」
愛菜とヨリを自分の胸元へ引き寄せる。
そして、沈みかけていく妻に向かって叫んだ。
「ソヨン!」
「君も諦めるな! 必ず助ける! 必ず助けるから!!」
しかし――ソヨンの身体は、蒼い泡を引いてゆっくりと漆黒の水底へと沈んでいく。
「ソヨン――ッ!!」
亮の手は、届かない。
それでも今の亮には、抱きしめた愛菜とヨリを助けることしかできなかった。
二人の幼い身体を己の胸へ強く抱き寄せる。
「大丈夫……!」
「必ず助ける!」
「必ず守るから……大丈夫や……!」
何度も、何度も、壊れたように繰り返した。
そして――。
亮の記憶の中に、あの時救い出した一人の少女の顔が鮮明に焼き付けられた。
あの日、必死に助けた女の子。
その可憐な顔立ちが、脳裏にハッキリと浮かび上がる。
次の瞬間、夢の場面が急速に切り替わった。
以前、ヨリの自宅を訪れた時に見せてもらった家族写真。そこに写っていた幼い頃のヨリ。
二つの顔が――寸分の狂いもなく、完璧に重なり合った。
「……そうか……」
亮の瞳が、夢の中で大きく見開かれる。
「ヨリさん……だったんや……」
その瞬間。
夢の中の闇が消え去り、ソヨンの優しく温かな声が響き渡った。
『亮……』
亮が振り返る。
そこには――あの頃と変わらない、優しく微笑むソヨン姿があった。
『あなたしかいないのよ……』
慈愛に満ちた瞳で、ソヨンは亮を見つめる。
『二人を守れるのは……』
「ソヨン……」
亮の目から、溢れる涙がボロボロとこぼれ落ちる。
「ソヨン……ッ!」
「――ッ!?」
亮は弾かれたように跳ね起き、ガバッと身体を起こした。
窓の外からは、静かな朝の光が薄っすらと差し込み始めている。
荒い息を吐き出しながら、亮はしばらくの間、ベッドの上で呆然と固まっていた。
夢だった。
――普段なら、ただの悪夢だと笑い飛ばして終わるはずだった。
けれど。あまりにも……あまりにも鮮明すぎた。
17年前、自分が直接目撃していなかったはずの光景。
不気味な黒いスーツの男たち。
ヨリと愛菜が海へ落とされた一瞬。
ソヨンが二人を救うために迷わず飛び込んだ理由。
そして――自分が命がけで救い上げた、あの小さな少女の顔。
亮は震える両手で顔を覆った。
「……夢やない」
深く、重く呟いた。
「間違いなく……ヨリさんやったんだ……」
17年間、亮自身すら知る由もなかった悲劇の真実。
そのすべてが――一夜の夢となって、亮のもとへ届けられたのだった――。




