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第三十九話 揺れる心

亮の左手の傷は、ほぼ完治していた。

日々のリハビリの甲斐あって経過は極めて良好で、もう日常生活で不自由を感じることもほとんどない。

そろそろ、長らく休業していた小料理屋の営業再開に向けて本格的に準備を始める時期だった。

それなのに――。

亮の心は、どういうわけか少しも晴れなかった。

原因は、はっきりしている。

ヨリと、まったく連絡が取れないことだ。

メールを送っても、返ってくるのはいつも決まって同じ、一言だけの素っ気ない言葉。

『また連絡しますね』

ただ、それだけ。

亮はそんなヨリを責める気など更々なく、ただただ彼女の身体や心に何かあったのではないかと心配でならなかった。

ある日のこと。

リビングで手持ち無沙汰にしていた亮は、ふと愛菜に声をかけた。

「愛菜……最近、ヨリさんは元気にしてるんか?」

尋ねられた愛菜の表情が、途端に曇る。

「どうだろうね……最近はヨリさん、仕事がすごく忙しいらしくて……全然会えてないんだ……」

ポツリと漏らしたその声から、愛菜がどれほど寂しさを耐え忍んでいるかが痛いほど伝わってきた。

「そっかぁ……」

亮もまた、それ以上は何も言えなくなってしまう。

ふと、壁に掛けられたカレンダーへ視線を向けた。

「あ……」

亮の表情が、かすかに動く。

「もうすぐ、愛菜の誕生日やな……」

ぽつりと呟いた亮は、腕を組んでしばらく考え込んだ。

そして、ポケットからスマートフォンを取り出す。

(ヨリさんに……相談してみようか)

真っ先にそう思い浮かんだものの――すぐにまた迷いが首をもたげる。

今のヨリは仕事で忙しいはずだ。そんな時に、自分の個人的な用件で連絡してしまってもいいのだろうか。

けれど、愛菜の誕生日のことなら――。

亮は迷いを振り払うように、ゆっくりと画面に文字を打ち始めた。

『ヨリさん

最近はお忙しいようですね。

お身体は変わりないですか?

ちゃんと食事は取れてますか?

何かあればいつでも連絡してくださいね。

今日連絡させてもらったのは、もうすぐ愛菜の誕生日でして、

ヨリさんに相談したいことがあるんです。

一度連絡が取れると嬉しいです。』

亮は完成した文章を、画面越しにじっと見つめた。

「…………」

送信ボタンに指を添える。

けれど――躊躇して離す。

もう一度、指を置く。

やはり、思い直して離す。

「……どうしようかな……」

一人で何度も行きつ戻りつを繰り返していた、その時。

「父さん?」

背後から、ひょっこりと愛菜の声が響いた。

「……!?」

不意を突かれた亮の指が、反射的に画面を強く叩く。

――送信完了。

「あっ……! やばっ……!」

亮は慌てて送信取り消しを試みようと指を滑らせた。

けれど――すべては遅かった。

メッセージは無慈悲にも、すでにヨリのもとへと送られてしまっていた。

「…………」

亮はスマートフォンを握りしめたまま、石のように固まる。

(俺はいったい……何をしてるんや……)

己の不甲斐なさと要領の悪さに、思わず深いため息が漏れた。

「父さん!」

「は、はい!?」

「さっきからお湯が沸きっぱなしなんですけど……!」

「えっ!?」

亮が慌てて振り返ると、目の前のコンロに置かれた鍋から、勢いよく湯気が立ち上っていた。

「け、消しました! 消したから大丈夫や!」

慌てふためいてガスコンロのツマミを回す父親の背中を見て、愛菜はニヤッと悪戯っぽく笑った。

「ヨリさんのこと……考え過ぎちゃうの?」

「そ、そんなんとちゃうわ……!」

「ふーん……」

愛菜はどこか嬉しそうに、楽しそうにクスッと笑う。

「…………」

亮は誤魔化すように咳払いをしてみせたものの、かえって動きがぎこちなくなってしまうのだった。

静まり返ったヨリの自宅リビングに、スマートフォンの電子音が静かに響いた。

ヨリがテーブルの画面に目を落とす。

そこに表示された差出人の名前――

『亮さん』

その文字を見ただけで、ヨリの胸がキュッと強く痛む。

亮から時折届くメッセージ。

そこにはいつだって、自分をどこまでも思い遣り、気遣ってくれる温かな言葉だけが並んでいた。

体調を心配し、食事を摂れているかを案じ、何かあればいつでも頼ってほしいと伝えてくれる。

それなのに――。

自分が返せる言葉は、いつも冷たい一言だけ。

『また連絡しますね』

ヨリはスマートフォンを両手で包み込み、胸元で固く握りしめた。

(これが……本当に正しいことなの……?)

(私は……このまま自分の気持ちに嘘をつき続けなきゃいけないの……?)

視界が歪み、大粒の涙がポロポロと溢れ出してくる。

分からない。

亮と愛菜の前から姿を消すことが、本当に二人の幸せのためになるのだろうか。

それとも――ただ自分が「ソヨンを奪った」という恐ろしい罪悪感から逃げ出したいだけなのだろうか。

震える指先で、ヨリは届いたメールを開いた。

そこには――ヨリを責めるような言葉は、ただの一つもなかった。

連絡を拒まれ、距離を置かれていることへの怒りも憤りもない。

ただただ、いつものように自分を温かく心配してくれる亮の優しい言葉。

そして――。

「愛菜ちゃんの……誕生日……」

ヨリの心が、激しく揺さぶられた。

祝いたい。本当は、誰よりも一番近くで祝ってあげたい。

愛菜のあの眩しい笑顔を、もう一度すぐそばで見つめたい。

そして――『相談』。

亮からの、自分を頼ってくれる言葉。

ずっと自分を助け、守り抜いてくれた人。

どんな時も自分を温かく見守ってくれた人。

――かけがえのない、大切な人。

ヨリは溢れる涙を指先で強く拭った。

何度も、何度も胸の中で迷い、葛藤した。

けれど、最後はその迷いをすべて振り払うように、スマートフォンを力強く握り直した。

そして、ゆっくりと、決意を込めて返信を打ち込む。

『明日、お会いしましょう』

送信。

ヨリはしばらくの間、送信完了の画面をじっと見つめていた。

やがて、頬に涙を伝わせながら、静かに、けれど愛おしそうに呟く。

「亮さん……」

そっと自分の胸に手を当てる。

「私は……間違えてないのかな……?」

答えは、まだ闇の中だ。

それでも――明日、亮と愛菜に会う。

その小さな、けれど大きな一歩となる決断だけが、凍りついていたヨリの心を少しだけ温めていた――。

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