第三十八話 消せない想い
ソヨンの墓参り以来――。
ヨリは意識的に、亮や愛菜と距離を置いていた。
それは、ヨリの胸の中に芽生えてしまったあまりにも酷な罪悪感からだった。
(――私が、亮さんから大切なお嫁さんを奪ってしまった……)
(――愛菜さんから、大好きなお母さんを奪ってしまった……)
もちろん、17年前の自分は何も知らない幼い子どもだった。自分が望んで起こした事故ではない。そんなことは頭では分かっている。
それでも、脳裏に刻み込まれた鮮明な記憶が、容赦なくヨリの心を締め付けていた。
亮や愛菜と一緒に過ごす時間は、息が止まるほど幸せだった。
一緒に温かい食事を囲み、顔を見合わせて笑い合い、何気ない言葉を交わす。亮の包み込むような優しさに触れ、愛菜の無邪気な笑顔を見つめる。
その時間は、両親を失って以来、ヨリが初めて知った「家族」のような温もりだった。
だからこそ――苦しかった。
(大切な人を奪ってしまった私が……こんな風に幸せになっていいはずがない……)
そう思えば思うほど、二人の前から消えなければならないと自分を追い詰めてしまう。
けれど――。
本当は、亮と愛菜が与えてくれたあの温もりを失うことこそが、ヨリにとって何よりも耐えがたい恐怖だった。
消せない想いと罪悪感の狭間で矛盾を抱えたまま、ヨリは胸を削るような毎日を過ごしていた。
その時――デスクの上に置かれたスマートフォンが、微かな振動とともに画面を光らせた。
ヨリが視線を落とす。ディスプレイに表示された名前は――
『愛菜さん』
胸がキュッと締め付けられる。
ヨリは一瞬ためらい、震える指先で静かに通話ボタンを押した。
「……もしもし」
受話器の向こうから、聞き慣れた声が届く。
『おはようございます……愛菜です』
いつもの明るく弾んだトーンではない。明らかに元気がなく、沈んだ声。
その音色だけで、愛菜がどれほど寂しさを堪えているかが痛いほど伝わってきた。
「愛菜さん……」
ヨリは思わず目を伏せる。
「ごめんなさい……最近、仕事が立て込んでいて……」
すると、愛菜は慌てたように言葉を重ねた。
『ごめんなさい……! お忙しいのは分かってるのに……お電話なんてしちゃって……』
かすかに震える声。今にも泣き出してしまいそうな愛菜の気配に、ヨリの頬を伝って一筋の涙がこぼれ落ちる。
「……」
言葉が出てこない。愛菜の声を聞いているだけで、胸がはち切れそうに痛かった。
『また……』
愛菜が少しだけ言葉を詰まらせる。
『また……本当にお時間がある時で……いいので……会いたいです』
その切切とした言葉に、ヨリは唇を固く噛みしめた。
本当は、今すぐ飛んでいって抱きしめたい。
いつものように、隣で笑って話したい。
けれど――それをしてはいけないのだと、必死に心へ言い聞かせる。
「……わかったわ、愛菜さん」
溢れ出る涙を必死に抑え、震える声で応える。
「私から……また連絡するわね」
『……はい』
愛菜の寂しげな小さな返事。
その瞬間――コン、コン、と代表室の重厚なドアを叩くノック音が響いた。
ヨリは慌てて指先で涙を拭う。
「ごめんなさい……それじゃあ、また……」
『はい……』
通話が切れた。
ヨリはスマートフォンを両手で抱きしめるように胸元に押し当て、もう一度静かに涙を拭った。
そして――深呼吸を一つ。
「どうぞ」
ノックに応じた。
同じ頃。
通話の切れたスマートフォンを抱えたまま、愛菜は静かな部屋でじっと画面を見つめていた。
「……ヨリさん」
ぽつりと漏れた小さな呟き。
寂しげに落とされたその瞳には、いつもの眩しい笑顔は消えていた。
代表室の重厚なドアが開く。
「失礼いたします」
入ってきたのは、カン室長だった。
しかし――いつも浮かべている穏やかな笑みは消え失せ、その表情は硬く痛々しいほどに強張っていた。
その顔を見た瞬間、ヨリの背筋に冷たい緊張が奔る。
「……どうされました?」
カン室長はヨリのデスクの前まで静かに歩み寄ると、深々と頭を下げた。
「17年前の海難事故について……中間報告に参りました」
ヨリの瞳の色が変わる。
先ほどまで愛菜との会話で心に溢れていた涙を、強固な理性の奥へと押し殺した。
「……聞きましょう」
ヨリの声はどこまでも静かだった。
けれど、その瞳には真実と対峙する強い覚覚悟と、隠しきれない緊張が宿っていた。
17年前――。
己の運命を残酷に狂わせた、あの日の海難事故。
その裏に隠された真実の扉が今、静かに開かれようとしていた――。
静まり返った代表室。
ヨリの向かいに立つカン室長は、手にしていた報告書へとゆっくり視線を落とした。
そして、静かに口を開く。
「17年前の海難事故ですが……」
ヨリは小さく息を呑んだ。
「代表を助けてくださった方の身元が判明いたしました」
「……」
「お一人は、日本人の男性です」
ヨリの胸がどっと大きく跳ね上がる。
(――やっぱり……そうなのね……)
カン室長は淡々と、けれど重々しく続けた。
「竹内……亮さんという方です」
その名前が室長の声によって発せられた瞬間――ヨリの瞳が大きく揺れた。
やはり。
あの日、激しい荒波の中で自分を救い上げてくれた人は――亮だった。
「そして、もう一人が……その妻であるソヨンさんということも確認できました」
ヨリの呼吸がピタリと止まる。
「事故の際……ソヨンさんは命を落とされております」
「…………」
ヨリは言葉を失った。
胸の奥底から激しい感情の波がこみ上げてきて、抑え込むことができない。
ボロボロと溢れ出す涙が、次々と頬を伝ってデスクへとこぼれ落ちていく。
カン室長が痛ましそうな表情で声をかける。
「代表……大丈夫ですか?」
ヨリは幾度も小さく首を振り、溢れる涙を必死に指先で拭った。
アシスタントとして、震える声を振り絞る。
「……大丈夫よ……」
涙を拭いながら、力強くカン室長を見つめ直した。
「……続けてちょうだい」
「はい」
カン室長は再び報告書へ目を落とす。
「このお二人が命がけで救出されたのが……代表と、愛菜さんというお二人のお子様です」
その言葉に、ヨリの胸がより一層強く締め付けられた。
愛菜。
自分と一緒に、あの死の海に落ちた小さな女の子。
そして――ソヨンが己の命と引き換えに守り抜いた大切な娘。
「また、当時のパク代表……つまり代表のお父様であるパク・ドジン様と、奥様のハン・ソヒ様も、同じく海へ投げ出され、お亡くなりになっております。……ただし、この時の目撃証言などは一切残されておりません」
ヨリは黙って、唇を噛みしめながら聞き入っていた。
すると、カン室長が少しだけ表情を曇らせる。
「……ここで、ひとつ気になる点が分かってまいりました」
「何かしら?」
「事故の直後、竹内亮さんが……『黒い服を着た数名の男たち』について、船会社側へ執拗に問い合わせを行っていた形跡があるのです」
「……!」
ヨリがハッと顔を上げる。
「黒い服の……男たち……?」
昨日までの自分なら、単なる過去の不審点として受け止めていただろう。
しかし――今のヨリには違った。
あの嵐の海。
自分たちへ近づいてきた暗い影。
蘇った強烈な記憶――。
ヨリの脳裏に、黒いスーツを纏った男たちの不気味なシルエットが確かに浮かび上がっていた。
「……記憶が、曖昧なのですが」
ヨリは震える声で語り始める。
「私の幼い記憶の中にも……真っ黒なスーツを着た男たちが数名……いたような気がするのです」
カン室長の鋭い瞳が光る。
「……」
「でも……それが本当に事故の瞬間のものなのかは、まだ確信が持てません。記憶が途切れ途切れで……」
「承知いたしました」
カン室長は深く頷いた。
「ただ……当時の乗船者名簿、および船長や船員の証言を照合いたしましたが……そのような不審な男たちが乗船していたという記録は一切残されておりません」
ヨリはしばらくの間、考え込むように黙り込んだ。
そして――。
「……引っかかりますね」
「ええ」
カン室長もまた、同じ確信を抱いていた。
「さらに詳細な調査が必要かと思います。……それともうひとつ、不可解な点がございます」
「何?」
「事故の後、船長と数名の主要船員が……ほぼ同時期に会社を退職していることが判明いたしました」
ヨリの表情が引き締まる。
「……同じタイミングで?」
「はい」
「詳しく追跡調査することはできるかしら?」
ヨリの声には、冷徹なまでの強い決意が宿っていた。
カン室長は深く一礼する。
「全力を尽くします」
「……頼みます」
ヨリは静かに頭を下げた。
17年前の失われた記憶。
亮。ソヨン。愛菜。
自由を奪おうとする闇。そして、そこに蠢く黒い服の男たち――。
バラバラに散らばっていた過去の欠片が今、一つの恐ろしい真実の線へと繋がり始めていた。
同じ頃――ソンファ本社・副社長室。
薄暗い室内で、ドヒョンの前に秘書が静かに立っていた。
「副社長……どうやらパク代表が、17年前の海難事故について水面下で調査を進めている模様です」
ドヒョンの眉がぴくりと動く。
「……何だと?」
一瞬の沈黙。ドヒョンは煙草の煙を吐き出すように、心の中で呟いた。
(……少し、事を急ぐ必要がありそうだな)
秘書は報告を続けた。
「それと……パク代表と、竹内愛菜という娘、そして竹内亮という男は……かなり親密な関係にあるようです」
そう言うと、秘書はポケットから数枚の隠し撮り写真をデスクの上に滑らせた。
そこに写っていたのは――
亮とヨリが並んで歩いている姿。
そして、亮、ヨリ、愛菜の三人がまるで家族のように温かな笑顔を交わしている姿。
ドヒョンは無言でその写真を見つめ続けた。
「…………」
やがて、氷のように冷ややかな低い声を漏らす。
「……分かった。下がれ」
「はい。失礼いたします」
秘書が恭しく一礼し、部屋を辞していく。
一人残されたドヒョンは、デスクの写真へ視線を戻した。
写真の中で、見たこともない穏やかな笑みを浮かべているヨリ。そして、隣で微笑む亮と愛菜。
ドヒョンの顔から、先ほどまでの余裕めいた笑みが完全に消え去った。
「全く……目障りな小娘め……」
写真を乱暴に叩きつけるように置く。
「これ以上は……放置できんな」
ドヒョンはゆっくりと立ち上がった。
そして一度も振り返ることなく、暗い副社長室を後にする。
夜のソウル。
無数の欲望と光が渦巻く街の中へ、ドヒョンは冷酷な計画を胸に一人、姿を消していった。
17年前に闇へと封じ込められた秘密を守り抜こうとする者と、
その真実を暴き出そうとするヨリたち。
二人を巡る歪んだ歯車が、静かに、そして決定的に交差し始めていた――。




