第三十七話 ソヨンの墓前 ―― 蘇る記憶
ヨリの身体が、ふらりと大きく揺れた。
「ヨリさん!」
異変に気づいた亮が咄嗟に手を伸ばし、崩れ落ちそうになるヨリの肩をしっかりと抱きとめる。
愛菜も顔色を変えて反対側へと駆け寄ってきた。
「ヨリさん! どうしたんですか!?」
二人に身体を支えられながら、ヨリは必死に息を吸い込み、乱れる呼吸を整えようとする。
だが、亮の手の温もりが肩に触れた瞬間、頭の中で再びあの日の記憶が激しい怒涛となって蘇り始めていた。
『――ソヨン!!』
脳裏を刺す、男の悲痛な叫び声。
荒れ狂う、漆黒の海。
『――ソヨン!! 必ず助ける! 愛菜と……この子は必ず守るから! だからソヨン、諦めるな!!』
支えられているヨリの身体が、ガタガタと激しく震え出す。
(――この声……)
暗く冷たい荒波に何度も呑み込まれそうになりながら、小さな愛菜とヨリの二人を、死に物狂いで抱き寄せている一人の男性。
容赦なく打ち寄せる大波が、何度も何度も三人を出鱈目に呑み込んでいく。
それでも――その男性は、二人を絶対に離さなかった。
『――大丈夫だ!』
冷たい海水に怯え、震えるヨリに向かって、男は何度も必死に声をかけていた。
『大丈夫……!』
その声。ヨリの記憶の底で、17年間ずっとかすかに響き続けていた、あのあたたかく力強い声。
『大丈夫や……!』
男性はヨリと幼い愛菜を、己の身体を盾にするようにしっかりと胸元へ引き寄せる。
『必ず守る! 絶対に……二人とも、俺が守るから!!』
荒れ狂う波飛沫と闇のせいで、男の顔ははっきりと見えない。波の合間に見え隠れするその顔。
(――誰……?)
ヨリの記憶の中で、激しくブレていた映像が一瞬、嘘のように鮮明に焦点を結んだ。
見え隠れしていた男性の顔。
若い頃の、必死な眼差しをしたあの日の姿――。
(――亮さん……!)
ヨリの呼吸が、ピタリと止まった。
「……亮さん……」
「……え?」
呆然と見つめてくる亮の瞳に向かって、ヨリの目から大粒の涙が次々と溢れ出していく。
「亮さん……亮さんだったんですね……」
ヨリの絞り出すような呟きに、亮の表情が一変する。
ヨリは涙で霞む視界の中、自分を支えてくれている亮の顔を、慈しむように見つめた。
17年前。冷たく暗い海の中で、自分の命を投げ打ってまで自分と愛菜を守り抜いてくれた男性。
そして今、こうして温かな手やで自分の肩を優しく支えてくれている目の前の男性。
――同じ人。
紛れもなく、そこにいるのは亮だった――。
墓参りを終え、三人で亮の店へ向かう帰り道。
車を運転するヨリは、行きとは打って変わってほとんど言葉を発しなかった。
ハンドルを握る両手には、知らず知らずのうちに強い力が入っている。
頭の中では、先ほど墓前で蘇ったあの海の記憶が何度も、何度も激しく渦巻いていた。
(――まだ……確信はない……)
そう自分に言い聞かせようとする。
あれは本当に、過去の自分の記憶なのだろうか。
漆黒の荒れた海。
冷たく濡れた、震える小さな手。
泣きじゃくりながら必死に自分の手を握りしめていた、幼い愛菜。
そして――自分たちを守るために海へと消えていった女性、ソヨン。
ヨリは唇を強く噛みしめた。
(本当に私が……亮さんから……愛菜さんから……ソヨンさんを奪ってしまったの……?)
胸が痛いほど締め付けられる。
もちろん、当時の自分は何も分からない幼い子どもだった。自分から望んで誰かを傷つけたわけではない。頭では分かっているはずなのに、鮮明すぎる記憶は残酷な罪悪感となって、ヨリの心へ重くのしかかっていた。
その時――後部座席から、愛菜が心配そうに声をかけてきた。
「ヨリさん……大丈夫ですか?」
「えっ……ええ。ごめんなさい……」
ヨリはハッと顔を上げた。バックミラー越しに、亮もじっと自分を見つめているのが見える。
その瞳には、隠しきれない明らかな心配の色が浮かんでいた。
ヨリは慌てて無理に笑顔を作ってみせる。
「風邪がぶり返したのかしら……少し気分がすぐれなくて……でも、大丈夫です」
「……」
亮は何も言わなかった。
ただ、様子のおかしいヨリの横顔を、静かに見つめ続けている。
その目に宿るあまりにも温かな優しさが、今のヨリには耐えがたいほど痛かった。
(――亮さん……)
心の中で名を呼ぶけれど、その言葉を声に出して伝えることは、今の自分にはできなかった。
しばらくして、三人を乗せた車は亮の小料理屋の前へと到着した。
ヨリが静かにエンジンを切る。
亮が車を降りながら、ドア越しにヨリへ優しく声をかけた。
「ヨリさん、少し休んでいかれませんか? ずっと運転でしたし……」
気遣う言葉を最後まで言い終わる前に、ヨリは小さく首を横に振った。
「ごめんなさい……この後も予定があるので、帰りますね」
「……そうですか」
愛菜も不安そうに、どこか寂しげな瞳でヨリを見つめる。
「ヨリさん……また連絡します……」
その声に滲む切なさに、ヨリの胸の奥が痛む。
本当なら――『うん、またね』と笑って、いつものように二人と温かな時間を共有したかった。けれど今の自分には、二人と目を合わせることすら恐怖だった。
「では……」
ヨリはそれだけ告げると、急いで車を発進させた。二人が見送る間もなく、逃げるようにその場を走り去っていく。
遠ざかる車の後ろ姿が見えなくなったあと、愛菜がぽつりと呟いた。
「どうしたんだろね……ヨリさん」
亮は答えなかった。ただ、ヨリの車が消えていった方向を、じっと見つめ続けている。
(……何かがおかしい)
胸に広がる違和感。
けれど、それが何なのかまでは、今の亮には知る由もなかった。
一方、一人で車を走らせるヨリ。
赤信号で車を止めるたびに、あの暗い記憶が容赦なくフラッシュバックする。
荒れ狂う海。
黒い服を着た不気味な男たち。
泣き叫ぶ幼い愛菜。
二人を抱きしめ海面へと全力で押し上げ、海へ沈んでいったソヨン。
そして最後に、二人を強く抱きしめていた若い頃の亮の顔――。
『大丈夫や……! 必ず守る……!』
ヨリの目から、一筋の涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。
「……本当なの……?」
誰もいない車内に、震える声がぽつりと漏れる。
「こんなこと……本当に……」
ハンドルを握る手が、ガタガタと震えて止まらない。
ヨリにとって、それは受け入れるにはあまりにも残酷な過去だった。
そしてまだ――その記憶がすべて真実なのか、自分でも確かめる術はない。
ただ一つ分かっているのは、もう以前のように、亮と愛菜の前で心から笑うことが出来なくなってしまっているということだった――。




