第三十六話 墓標の前で届いた記憶
墓地へ向かう途中
車は、静かな郊外の道を滑るように走っていた。
後部座席で、亮はぼんやりと窓の外の景色を眺めている。
いつものように優しく穏やかな表情。けれど、どこか遠くを見つめる瞳には、深い考え事をしているような静けさがあった。
ヨリは車を運転しながら、ルームミラー越しにそんな亮の姿をそっと見ていた。
(――亮さん……)
今日は、ソヨンさんに会いに行く日。
ふとヨリの頭の中に美しいジヨンの顔がよぎる…。
ヨリはそれ以上、何も聞かなかった。静かに亮の横顔を見守る。
その隣では、愛菜がいつものように楽しそうに話しかけていた。
「ヨリさん! そういえば昨日ね……」
「うん?」
「学校で……」
愛菜の話を聞きながら、ヨリの顔には自然と笑顔が浮かんでいた。
しばらく車を走らせると、目的地の墓地の少し手前に、綺麗な公園が見えてきた。
時計を見ると、ちょうどお昼。
「あっ!」
突然、愛菜が声を上げた。
「お父さん! ここでお弁当食べて行こっか!」
亮は窓の外を見た。そして、優しく笑う。
「そうしよっかぁ」
「お弁当……?」
ヨリが尋ねると、亮は少し笑いながらヨリを見た。
「ヨリさん、今日は腕によりをかけてお弁当を作ってきたので、この辺で食べて行きましょう!」
「えっ……私の分まで?」
「もちろんです。ヨリさんの分も、ちゃんと作ってますよ」
「……ありがとうございます」
車を公園の近くに停め、三人は車から降りた。
空には、雲ひとつない青空。
心地よい風が、三人の間を吹き抜けていく。
「よーし! ここにしよ!」
愛菜と亮は敷物を広げる。
そして、亮が持ってきた大きな荷物を開けた。
「……わぁ」
ヨリの口から、思わず声が漏れる。
そこには、色とりどりの料理。
彩り豊かな野菜、丁寧に詰められた料理の数々。
まるで、小さな宝箱のような亮特製のお弁当。
「すごいでしょ! お父さん、気合い入れてたんですよ!」
「余計なこと言わなくていい」
「だって本当やもん!」
ヨリは思わず笑ってしまう。
「ふふっ」
「まあ……」
亮は少し照れながら、呟いた。
「せっかくのお墓参りですからね。みんなでゆっくり食べられたらいいかなって」
「……はい」
三人は敷物の上に座る。
「「「いただきます」」」
そして、ゆっくりとお弁当を食べ始めた。
愛菜の笑い声。亮の穏やかな笑顔。
ヨリも自然と会話に加わっていた。
まるで、昔から一緒に暮らしてきた家族のように。
そんな時間が流れていた。
ヨリはふと、二人の姿を見た。
(――こんな時間、いつ以来だろう……)
仕事に追われ、人に囲まれていても、いつもどこかでひとりだった。
でも、今は違う。
目の前に愛菜さんがいて、亮さんがいる。
ただ、一緒にご飯を食べているだけ。
それなのに、胸の奥が不思議なくらい温かかった。
(――幸せ……)
ヨリはそう思った。
ゆっくりと流れていく時間。
雲ひとつない青空。
心地よい風。
そして、隣にいる二人の笑顔。
ヨリにとってそれは、今まで知らなかったゆっくりとした小さな幸せを、実感できる時間だった――。
公園での穏やかな時間とは打って変わり、ソヨンの墓前にたどり着いた三人の間には、静寂とどこか神聖な空気が漂っていた。
ヨリの胸は、かすかな鼓動のまりを覚えていた。
(――ソヨンさん……)
この人が、亮さんの……そして愛菜さんの、何よりも大切な人。
亮は重い足取りで墓前へ歩み寄ると、静かに両手を合わせた。
しばらくの間、何も語らない。秋の冷ややかな風だけが、墓石の周りを静かに吹き抜けていく。
愛菜も父の隣に寄り添うように立ち、そっと小さな手を合わせた。
ヨリは数歩離れた場所から、二人のかけがえのない背中をじっと見つめていた。
やがて、亮がゆっくりと口を開く。
「ソヨン……」
その低く掠れた声を聞いた瞬間、ヨリの胸がぎゅっと締めつけられた。
「昨日な……ずっと考えてたんや」
亮は目を閉じ、溢れ出そうになる感情を抑え込むように呟いた。
「最近……毎日のように見てたあの悪夢を、見なくなったんや。君が海の中へ沈んでいく、あの夢を……」
亮の声が、かすかに震える。
「どれだけ手を伸ばしても届かへんかった。何度も……何度も助けようとした。でも……俺は何もできへんかった」
静かに息を吐き出す亮。
「君を失ってから、俺は生きることを何度もやめたいと思った」
隣で聞いている愛菜が、涙ぐみながらそっと父の横顔を見上げた。
「君のおらん世界は、俺にとって何もなかった。……そんな俺を、この世界に繋ぎ止めてくれたのは、愛菜やったんや」
愛菜の大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「愛菜を愛することだけが、俺の生きる理由だった」
ヨリは息をひそめ、黙って亮の背中を見つめ続けていた。
「……でもな」
亮は一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。
「ヨリさんと出会ってから……」
その名前が呼ばれた瞬間、ヨリの心臓が跳ね上がる。
「世界が……少しずつ、変わっていってるんや」
亮は小さく、どこか切なそうに苦笑した。
「ソヨン……俺、いいんかな? こんな風に、誰かを心配したり……その人の笑顔を見て、心から嬉しいと思ったり……」
亮の問いかけは、秋風の中に消えていく。
「自分でも分からへんのや。だから……今日は君に会いに来た。答えを聞きたくて」
もちろん、墓石の中のソヨンが言葉を返すことはない。ただ静かに、そこにあるだけだ。
ヨリは亮の背中を見つめながら、ふと、墓石の横に供えられた写真立てに目を向けた。
その瞬間――ヨリの胸が、激しくざわめいた。
(――……何?)
頭の奥が、突然焼けるように熱くなる。
視界が歪み、脳裏に鋭い衝撃とともに微かな映像が激しくフラッシュバックした。
――夜の海。
荒れ狂う波。大きく傾く船。
激しく泣いている、小さな女の子。
ヨリはその小さな手を、狂おしいほど強く握りしめていた。
(――愛菜さん……!?)
船が大きく傾き、二人まとめて黒い海へ投げ出されそうになる。
その時、暗闇の中から二人へ近づいてくる黒い服を着た不気味な男たち。
(――怖い……!)
映像が激しく乱れ、交錯する。
何もかもがぼやけて見えない中、一人の女性がヨリと小さな愛菜を強く、強く抱きしめた。
(――誰……!?)
次の瞬間、襲いかかる激しい衝撃。三人の身体は冷たい海へと叩きつけられた。
真っ黒な、荒れ狂う海。
冷たく、暗く、どこまでも深い底へと引きずり込まれそうになる恐怖。
ヨリは冷たい水の中で、小さな愛菜の手を必死に握りしめていた。離さない。絶対に離さない――。
その時、さっきの女性が水中でヨリたちの前に現れた。
そして、残された最後の力を振り絞り、二人を必死に海面へと押し上げたのだ。
『――亮!!』
泡の向こうから聞こえる女性の声。
『――愛菜と……この子を……助けて!!』
映像が激しく波打ち、歪んでいく。
「……ッ!」
あまりの衝撃に、ヨリの息が止まった。
二人を押し上げた女性の身体が、暗く冷たい水底へとゆっくりと沈んでいく。
その瞬間――女性の顔が、一瞬だけ鮮明に視界に焼き付いた。
「……嘘……」
ヨリの視線が、記憶の残像から目の前の墓前の写真へと吸い寄せられる。
記憶の中で、自分たちを助けるために海底へ沈んでいった女性。
そして、目の前で優しく微笑んでいるソヨンの写真。
――二つの顔が、完璧に重なった。
「……嘘……嘘よ……」
胸が破裂しそうなほど激しく締めつけられる。
目の前の、ソヨン。
17年前、冷たい海の中で自分と愛菜の命を守り抜いてくれた、あの女性――。
(――同じ人……!)
ヨリの目から、堰を切ったようにボロボロと涙が溢れ出した。
「……ソヨンさん……?」
かすれた声に気づき、亮と愛菜がゆっくりと振り返る。
ヨリは震える両手で口元を覆いながら、ソヨンの写真を固まったように見つめていた。
「……嘘……嘘でしょう……」
溢れ落ちる大粒の涙が止まらない。
17年越しの残酷で愛おしい真実が、秋の墓地で静かに解き明かされた瞬間だった――。




