第三十五話 三人での道連れ
日曜日、澄み渡る秋空が広がる朝。
ヨリは約束通り、亮と愛菜を迎えに行くために愛車を走らせていた。
亮が尽くしてくれた手厚い看病と温かい料理のおかげで、三日前の高熱が嘘のように体調はすっかり快復していた。
(――あの時の辛さが、本当に嘘みたい……)
ハンドルを握りながら、ヨリの唇に自然と優しい笑みがこぼれる。
やがて車は静かな通りに入り、亮の小料理屋の前へとスムーズに停車した。
すると、エンジンを止める間もなく、勢いよく店舗の引き戸が開く。
「ヨリさーん!」
愛菜がとびきりの笑顔で車へと駆け寄ってきた。
「おはよう、愛菜さん」
「今日は本当にありがとうございます!」
「こちらこそ。今日はよろしくね」
「はい!」
満面の笑みを弾けさせる愛菜。
そのすぐ後ろから、少し大きめの手提げ荷物を抱えた亮が店から出てきた。
「お待たせしてすみません」
「大丈夫ですよ、私も今着いたところですから」
「今日は本当にありがとうございます」
亮は車の助手席側へ歩み寄ると、愛菜の頭をチラリと見やりながら楽しそうに目を細めた。
「愛菜は、ヨリさんと出かけるのが楽しみすぎて、昨日はあんまり眠れなかったみたいで……」
「お父さん!」
愛菜はすぐに振り返り、亮をジロリと睨みつけた。
「余計なこと言わんといて!」
「ふふっ」
二人の仲睦まじいやり取りに、ヨリは思わず声を立てて笑ってしまう。
「もう……」
愛菜が少し頬を膨らませて拗ねてみせると、亮も「ははは」と声を上げて笑った。
秋の朝の澄んだ空気の中に、温かく自然な笑い声が溶けていく。
ヨリはその光景を、どこか愛おしそうに見つめていた。
(――不思議……)
少し前までの自分なら、休日に誰かと車で出かけるなんて考えられなかった。孤独と重責の中で、ただ一人静かに過ごすだけだった週末。
けれど今は、この二人と一緒に過ごす時間が、胸が躍るほど楽しみになっている。
ヨリは息を整えると、しっかりとハンドルを握り直した。
「それでは……出発しましょうか」
「はい!」
「よろしくお願いします」
ヨリ、亮、そして愛菜。
温かな温もりに包まれた三人を乗せて、車はソヨンの眠る墓地へと向かって静かに走り出した――。
――お墓参りの前日・夜
小料理屋の二階にある、亮の部屋。
外の喧騒から切り離された静かな室内には、壁掛け時計が刻む規則正しい針の音だけがゆっくりと響いていた。
亮は一人、椅子に腰かけながらぼんやりと窓の外の暗がりを見つめていた。
最近、ふと思うことがあった。
(――いつからやろう……)
あの、恐ろしい悪夢を見なくなったのは。
ソヨンを失ってからの17年間、毎夜のように亮を苛み続けていた悪夢。
冷たく暗い海の中。蒼い光の泡の向こうへ、深い水底へと確実に沈んでいくソヨンの姿。
亮は狂ったように手を伸ばした。肺が押し潰されそうな水圧のなか、必死に、何度も手を伸ばした。
だが、あと数センチのところで指先は届かない。
何度必死に手を伸ばしても届かず、目の前から愛する妻が闇の底へと消えていく――。
目を覚ますたび、胸をナイフで抉られたような激痛と汗に襲われた。
何もできなかった。大切な妻一人、守れなかった。
(――俺が……もっと早く助けていれば……)
そんな鋭い後悔が、刃となって何度も何度も亮の心を酷苛んできた。
けれど――亮はハッと気づいた。
(――いつから、あの夢を見なくなった……?)
ゆっくりと記憶の糸を手繰り寄せる。
そして、ある強い衝撃とともに、記憶の「あの日」が鮮明に蘇った。
ヨリを、初めてあの危険な暗躍から助け出したあの日。
(――あの日からや……)
亮は深々と息を吐き、静かに瞼を閉じた。
「ソヨン……」
静寂に包まれた部屋に、掠れた声で亡き妻の名前を呼ぶ。
「君を失ってから……」
亮の低く落ち着いた声が、誰もいない部屋の壁に静かに染み込んでいく。
「俺は……生きることを、何度も諦めようとした」
愛するソヨンが存在しない世界。
生き残ってしまった亮にとって、それは色のない、何も存在しない無の世界と同じだった。
「君のいない世界は……俺にとって、ほんまに無だった」
亮は自責の念に駆られるように目を伏せる。
「そんな俺を……この世界に繋ぎ止めてくれたのは……愛菜だった」
最愛の娘、愛菜。
ソヨンが自らの命と引き換えにしてまで守り抜いた、かけがえのない宝物。
「愛菜を愛する気持ちだけが……俺の、生きる糧だった」
亮は自嘲気味に、ふっと寂しげに微笑んだ。
「ソヨン……君を失ってから……」
言葉が途切れ、長い沈黙が二人の間に横たわる。
亮はもう一度瞼を開け、窓の外に広がる夜空を見上げた。
「……でもな」
ポツリと、心の奥底から漏れ出すような呟き。
「ヨリさんと出会ってから……」
自分の凍りついていた心が、少しずつ、溶けるように変化しているのを感じていた。
モノクロだった世界に、少しずつ温かな色が戻っていく。
気づけば、自分以外の誰かの体調を心から心配していた。
連絡が来るかもしれないとソワソワし、スマートフォンを首から下げて道場に立っていた。
声を聞きたいと願った。無事でいてほしいと、祈った。
そして――ヨリが笑っていると、胸の奥が温かくなり、なぜかたまらなく嬉しかったのだ。
「ソヨン……」
亮は苦しそうに、けれど誤魔化すことのできない想いを込めて呟いた。
「俺……いいんかな?」
暗闇に向かって、亡き妻へ問いかける。
「君を失って……ずっと、君だけを想って生きてきたのに……」
自分でも、この胸のざわめきが何なのか分からない。
長年抱え続けてきた愛妻への誓いと、ヨリに対して芽生え始めている愛おしい感情。その狭間で、亮の心は激しく揺れていた。
「……分からへん。自分でも……」
亮は静かに、長く溜め込んでいた息を吐き出した。
「だから……明日、君に会いに行くよ。愛菜と一緒に」
そして、ほんの少しだけの間を置いた。
「……ヨリさんも」
一瞬、脳裏に浮かんできたのは、自分に向かって柔らかく微笑むヨリの可憐な姿だった。
亮は小さく、愛おしそうに目を細めた。
「一緒に……来てくれるんだ」
亮は夜空を見上げながら、もう一度だけ、心の中で愛するソヨンの名前をそっと呼んだ――。
――同じ頃
静寂に包まれた、ドヒョンの邸宅。
薄暗い書斎の中で、ドヒョンは一人、窓の外に広がる街を見下ろしていた。
その時、デスクの上に置かれたスマートフォンが低く振動し、画面を明るく照らし出す。
ディスプレイに表示された名前に目を通し、ドヒョンは静かに通話ボタンをスライドさせた。
「……もしもし」
電話の主は、裏で17年前の事故と乗船者名簿の調査を命じていた秘書からだった。
受話器越しに報告を聞くドヒョンの瞳が、暗闇の中で冷たく光る。
「そうか……やはりな……」
秘書が掴んできた衝撃的な事実に、ドヒョンは静かに、けれど確信に満ちた声を漏らした。
亮と亡き妻ソヨン、そしてヨリを繋ぐ、あまりにも残酷な運命の糸。
「……詳しい報告は、明日聞くことにしよう」
そう言い残し、ドヒョンは静かに通話を切った。
手の中に収まる真っ暗な画面を見つめながら、ドヒョンの口元に歪んだ笑みが浮かぶ。
「ヨリ……皮肉だな……」
何も知らずに亮たちと心を通わせようとしているヨリの姿を思い浮かべ、ドヒョンは低く呟いた。
暗闇の中に落ちたその一言は、これから三人を待ち受ける波乱の運命を暗示するように、静かに、重く響いていた――。




