第三十四話 大切な人の正体
――次の日の午前中
爽やかな秋晴れの下、亮は自宅近くにある小さな空手道場の中にいた。
今日は、地域の子どもたちに空手を教える日だった。
怪我をしている左手には、まだ真っ白な包帯が巻かれている。珍しく首からストラップでスマートフォンを下げていた。ヨリの体調に何か変化があった時、いつでも電話に出られるようにするためだ。
「はい! まずは基本からいくぞ!」
亮の力強い声が、道場の木床に心地よく響き渡る。
「正拳突き!」
「「「押忍!!」」」
子どもたちの元気いっぱいな掛け声が重なる。
亮は子どもたちの前に立ち、一つひとつの型を手本として見せていく。
正拳突き、裏拳、受け技、そして蹴り。
小さな子どもたちにも分かりやすいよう、無理のないペースで丁寧に指導していく。
「そうそう! 今の形、いいぞ! でも、力が入ると動きが硬くなるからな。肩の力をスッと抜いてごらん」
亮の指導はどこまでも優しく、失敗したからといって怒鳴り散らすようなことは絶対にない。
けれど、手本を見せる瞬間だけは――まるで別人のような空気を纏った。
「よし、次は上段蹴り」
亮がゆっくりと構えをとる。
その瞬間――道場内の空気が一変した。
鋭く研ぎ澄まされた眼差し。180センチを超える大きな体躯から放たれる威圧感。
「――っ!」
バシッ!!
包帯を巻いた左手をものともせず、空気を切り裂く鋭利な高軌道の蹴りが空を穿つ。
子どもたち「おおーっ!!」
「亮先生、すごーい!!」
その頃、ヨリはソンファグループの本社ビルに出社していた。
昨日、亮が心を込めて作ってくれた温かい薬膳粥を食べ、十分な睡眠をとったおかげで、体調はすっかり回復していた。
代表室で書類に目を通したあと、ヨリは愛菜へ電話をかけた。
「愛菜さん」
『ヨリさん! もう体調は大丈夫なんですか?』
「ええ、おかげさまで。昨日は本当にありがとう」
『そんな! 私、何もしてませんよ!』
「そんなことないわ。愛菜さんが亮さんに連絡してくれなかったら……私、どうなっていたか……」
言葉の語尾を濁らせながら、ヨリはふっと微笑む。
『ふふっ』
「亮さんにも直接お礼を伝えたいのだけれど……」
『あ、父さんなら今日は空手ですよ!』
「空手……?」
『はい! 近くの道場で、子どもたちに教えてるんです』
「……そう」
ヨリの胸に、小さな好奇心が芽生えた。
「その道場の場所……教えてもらえるかしら?」
『えっ?』
一瞬、電話の向こうで愛菜が絶句した。
『……もちろんです!』
どこか楽しそうな声で、愛菜は道場の住所を教えてくれた。
しばらくして、ヨリはチェ秘書が運転する車で道場へと向かっていた。
バックミラー越しに、チェ秘書は何度も後部座席のヨリに視線を向ける。
大企業のトップであるパク代表が、仕事とは全く無関係な個人の空手道場へ足を運ぶなど、前代未聞だった。
「代表、本当にこちらでよろしいのですか?」
「ええ。少しだけ……見てみたくなって」
「……そうですか」
チェ秘書は、ヨリの意図が掴めず首を傾げるばかりだった。
道場へ到着すると、ヨリはチェ秘書とともに、入口の引き戸の陰からそっと中を覗き込んだ。
そこにいたのは――亮だった。
普段、小料理屋で見せる穏やかで柔らかな表情とは全く違う、真剣で鋭い眼差し。
大きな体から繰り出される正拳、裏拳、そして美しい上段蹴り。一動作ごとに研ぎ澄まされた迫力が宿っていた。
ヨリは思わず、その姿に見入ってしまう。
(……こんな顔も、するのね……)
料理を作っている時、愛菜と仲良く話している時、自分を心配して駆けつけてくれた時。
ヨリが知っていた「竹内亮」とはまた異なる、頼もしく男らしい新しい一面だった。
その横で、チェ秘書は別の意味で言葉を失っていた。
いつも冷静沈着で、誰に対しても一定の距離を保つ完璧な代表が、まるで好きな人をこっそり覗き見る少女のように、道場の中を熱心に見つめているのだ。
(……代表、最近……本当に雰囲気が変わられた……)
やがて稽古が終わり、子どもたちが一列に並んだ。
「「「ありがとうございました!」」」
「はい! 今日もみんなよく頑張りました!」
稽古を終えた子どもたちが、亮の周りにわっと集まってくる。
その時、一人の男の子が亮の首から下がっているスマートフォンに気づいた。
「亮先生! なんで今日、スマホ首からぶら下げてるの?」
「ああ、これ?」
亮は首元のスマートフォンを愛おしそうになでた。
「先生の大切な人が寝込んでてな。いつ連絡があるか分からないから、いつでも電話が取れるようにしてるんだよ」
「……!」
陰で聞いていたヨリは、思わず息を呑んだ。
(――大切な人……?)
すると、一人の女の子が無邪気に尋ねた。
「大切な人って……先生の恋人?」
ヨリの体が固まった。その答えを聞き逃さないよう、祈るような気持ちで亮を見つめる。
(……恋人……?)
胸が痛いほど高鳴っていく。
亮は少し考えるように首を傾げると、ふっと柔らかく目を細めた。
「こんな先生には、もったいないくらいの人だよ」
「……っ!」
その言葉が耳に届いた瞬間、ヨリの顔が熟したリンゴのように真っ赤に染まった。
(わ、私のこと……!?)
動揺のあまり、顔を隠すように俯くヨリ。
隣のチェ秘書が小声で声をかける。
「代表……?」
「な、何でもないわ!」
「ですが……お顔がかなり赤いですけれど」
「……っ! 暑いのよ! 道場の中が!」
「ですが、本日はそこまで気温は上がっておりませんが……」
「暑いの!」
「……は、はい」
チェ秘書はますます狐につままれたような顔になった。
子どもたちと楽しそうに話していた亮だったが、ふと道場の入口に視線を向ける。
そして、亮の表情が驚きで見開かれた。
「……ヨリさん!?」
「……」
「なんでこんなところに!?」
驚きを隠せないまま、亮は慌ててヨリの方へ駆け寄ってきた。
「もう体調は大丈夫なんですか!?」
「ええ、もう大丈夫です。昨日は本当にありがとうございました」
「いや……それより、本当にもう起き上がって大丈夫なんですか?」
「はい、おかげさまで、すっかり良くなりました」
亮はホッとしたように胸を撫で下ろし、穏やかに笑った。
その横で、チェ秘書は目を見開く。
(――昨日……? ありがとうございました……? 代表と亮さん、一体何があったの……!?)
チェ秘書が混乱していると、子どもたちが一斉にヨリの周りへと群がってきた。
「あ! お姉ちゃん!」
「え?」
一人の男の子が、無邪気にヨリを指差す。
「亮先生の『大切な人』!!」
「……っ!?」
「……っ!?」
ヨリと亮の顔が、同時に爆発したように真っ赤になった。
亮は慌てて子どもたちを制する。
「こら! 大人をからかうもんじゃない!」
「えー! 亮先生、さっき『もったいないくらいの人』って言ってたじゃん!」
「そ、それは……っ!」
言葉に詰まる亮の姿を見て、ヨリは思わず「ふふっ」と吹き出してしまう。
亮はさらに顔を赤くしながら、情けないようにおそるおそるヨリを見つめた。
「ヨリさん……」
「はい?」
「……いつから、話を聞いてました?」
「ついさっきですよ。到着したのは、本当に……ついさっきです」
「……そうですか」
亮は安心したような、でもどこか半信半疑のような微妙な顔を浮かべた。
その横で、チェ秘書は静かにヨリを見つめていた。
(……ずっと前から隠れて聞いていらっしゃいましたよね……?)
心の中で力強くツッコむチェ秘書だったが、ヨリはその視線から巧みに目を逸らし、涼しい顔を決め込むのだった――。




