第三十三話 亮が作った温もり
――ヨリの自宅・寝室
ヨリは重い身体を横たえ、寝室のベッドに静かに身を沈めた。
――亮さんが、家にいる。
ただその事実があるだけで、不思議なくらい心が安らいでいくのを感じていた。
普段なら、一人で過ごす広すぎる邸宅。
体調を崩して高熱にうなされても、誰かが傍に寄り添い、心配してくれることなど一度もなかった。
でも、今日は違う。
『大丈夫ですよ』
頭の中に浮かぶ、亮のあの温かい声。
その音色を慈しむように思い出しているうちに、ヨリはいつの間にか深い眠りの中へと落ちていた。
――広大なキッチン
一方、亮は静まり返った邸宅の中で、なるべく物音を立てないよう静かに包丁を握っていた。
トントン、とまな板を叩く音も極力小さく殺す。
片手の不自由さを感じさせない手慣れた手つきで食材を刻み、火にかける。
鍋の中では、彩り豊かな野菜と薬膳がコトコト……とゆっくり煮込まれていた。
静寂に包まれた豪邸の中に、心地よく優しい調理の音が小さく響く。
やがて、丁寧に引かれた出汁の香ばしく甘い香りが、ゆっくりとリビング全体へと広がっていった。
亮は時折ふと手を止め、廊下の奥へと視線を向ける。
(――ヨリさん、ちゃんと眠れてるかな……)
心の中でそっと祈りながら、亮は丁寧に料理を仕上げていった。
――寝室・リビング
どのくらい時間が経っただろうか。
ヨリは重い瞼をゆっくりと開けた。
あれほどズキズキと痛んでいた頭の重みが、驚くほど軽くなっている。
そして――鼻腔をくすぐる、何とも言えず香ばしく優しい香り。
「……?」
出汁の上品で温かな香り。
昨日から水以外ほとんど何も口にしていなかった。そのせいか――
ぐぅぅ……。
静かな寝室に、情けないほどハッキリとしたお腹の音が響いた。
「……」
ヨリは思わず自分のお腹を見つめ、頬をかすかに赤らめる。
少しだけ照れくさくなりながらも、ヨリはゆっくりとベッドから起き上がった。
素足で廊下を歩き、リビングへと向かう。
キッチンの中では、ちょうど器に料理を盛り付け、最後の味見をしていた亮の姿があった。
気配に気づいた亮が振り返り、穏やかに目を細める。
「ヨリさん、少し眠れましたか?」
「はい……」
ヨリは照れくさそうに、けれど深く微笑んだ。
「とても……よく眠れた気がします」
「それは良かった」
ヨリはふと、亮が使っていたキッチンに目をやった。
あれだけの料理を作ったはずなのに、調理場は驚くほど綺麗に拭き上げられ、整理整頓されている。
そしてコンロの上には二つの小さな鍋が置かれ、そこから静かに白い湯気が立ち上っていた。
亮が優しく声をかける。
「お腹は、少しは減りましたか? 無理せずご自身のタイミングで食べてくださいね」
「ありがとうございます。……休ませてもらったおかげで、お腹も空いてきました」
少し恥ずかしそうに視線を泳がせながら、ヨリは小さく付け加えた。
「いただいても……いいですか?」
「もちろん!」
ヨリはダイニングテーブルの椅子へと腰を下ろした。
亮は手際よく料理をトレーに乗せ、運んでくる。
「お口に合うといいのですが……」
目の前に、次々と運ばれてくる料理。
黄金色に透き通った薬膳粥。ふっくらと焼き上げられた美しいだし巻き卵。そして、出汁の染み込んだ美味しそうな韓国風肉じゃが。
温かな湯気と食欲をそそる芳醇な香りが胸を満たした瞬間――
ぐぅぅ……。
再び、ヨリのお腹が静かな部屋に鳴り響いた。
亮「……」
ヨリ「……」
一瞬、二人の視線が交差する。
ヨリは真っ赤になって慌てて視線を逸らし、亮はこらえきれずに破顔した。
「……いただきます」
恥ずかしさを隠すように、ヨリはスプーンで薬膳粥を一口すくい、口へと運んだ。
「……!」
身体に優しく、けれどしっかりと奥深くまで染み渡っていく上品な旨味。
続いて、出来立てのだし巻き卵。そして肉じゃが。
「……美味しい」
思わず、吐息とともに言葉がこぼれ落ちていた。
どの料理も、繊細でどこか懐かしく、ヨリの口に驚くほどしっくりと馴染んでいた。
「愛菜さんが、羨ましいです」
「え?」
「いつもこんなに美味しいものを食べていらっしゃるんですもの」
亮は「ああ……」と気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「そうでもないですよ。手を抜くことも多いので……カップラーメンで済ませちゃう日もありますし」
「え?」
意外そうに目を見開くヨリに、亮は朗らかに笑ってみせる。
「夜の分の食事も作って置いてありますから、食べる前に軽く温めてくださいね」
「……」
ヨリの胸の奥が、ぎゅっと熱くなった。
――夜の分まで。
両親を事故で失って以来、こんな経験は一度もなかった。
誰かが自分のためだけにキッチンに立ち、温かい食事を作り、そして自分が一人になる夜のことまで気遣って準備してくれる――そんな温もりに触れたことなど、ずっと無かったのだ。
「あ、薬も食後に必要な数を三回分、わかりやすく分けて置いてありますから」
「……亮さん」
ヨリは深く俯き、溢れそうになる涙を必死に堪えた。
「本当に……ありがとうございます……」
「気を遣わなくていいですよ」
どこまでも静かで、優しい声。
ヨリの身体と心が、じわじわと温かな光に包み込まれていく。
薬膳粥の心地よい温もり。
身体の芯からポカポカと温まっていくのを感じる。
(――でも、この温もりは……きっと、薬膳粥のせいだけじゃない……)
ヨリは目の前で微笑む亮を、吸い込まれるようにじっと見つめていた。
亮は、その瞳に込められた深く切ない感情に、まだ気づいていなかった――。
ヨリが最後の一口を食べ終えると、亮はすぐに水と薬を食卓へ置いた。
「食後に飲んでくださいね」
「はい」
亮は空になった器を手際よくまとめる。左手は事故の傷が痛むはずだが、慣れた手つきで右手を中心に器用に片付けていく。
ヨリはその無駄のない、優しい手元をじっと見つめていた。
亮が洗いものをしながら声をかける。
「ヨリさん……」
「はい?」
「日曜日も、もし体調が悪ければ無理しないでくださいね」
「はい……」
ヨリは少しだけ目元を和ませ、静かに答えた。
「無理はしないようにしますね」
「それがいいですね」
片付けがひと段落すると、亮はヨリの隣へ歩み寄り、ゆっくりと腰を下ろした。
「少し、じっとしていてくださいね」
「……?」
亮は右手をそっと伸ばし、再びヨリの額へ温かな手のひらを重ねた。
「……!」
またしても、ヨリの胸の奥が大きく跳ね上がる。
「まだ、少し熱があるようですね」
「そうですか?」
「今日はなるべく横になって休んでいてください」
そして、亮は少しだけ真剣な表情を浮かべてヨリの瞳を見つめた。
「何かあったら、すぐ連絡してください」
「え?」
「ほんとに近いとこだと分かったので、すぐ飛んできますから」
ヨリの胸の奥が、じんと温かさで満たされていく。
亮はゆっくりと立ち上がり、帰る準備を始めた。
その時、ふとリビングの棚に飾られた一枚の写真が目に入る。
幼い頃のヨリと、亡き両親。三人が心から幸せそうに微笑んでいる古い家族写真。
亮はしばらくの間、その写真を見つめていた。
(――ヨリさん……寂しい思いをしてはったんやな……)
幼い頃に両親を亡くし、この広すぎる屋敷でずっと一人で戦ってきたヨリ。
亮はその背負ってきた孤独の重さを、改めて噛みしめていた。
亮は振り返り、ヨリへ柔らかく語りかける。
「俺がずっといると、ぐっすり眠れないでしょうから。今日のところはこれで帰りますね」
「……」
(――そんなこと……ないのに……)
亮がここにいてくれるだけで、今日は心から安心して眠ることができた。
むしろ、このままもう少しだけ側にいてほしい――そう願ってしまう自分がいた。
けれど、ヨリはその素直な気持ちを口にすることができない。
いつものように冷静でしっかりとした「パク・ヨリ代表」として振る舞ってしまう。
「……本当に、ありがとうございました」
「いえ」
「本当に……助かりました」
亮は満足そうに頷いた。
「それでは……」
玄関へ向かおうとして、亮は最後にもう一度だけ振り返る。
顔いっぱいに浮かぶ、眩しいほどの優しい笑顔。
「ちゃんと休んでくださいね」
「はい」
「約束ですよ?」
「……はい」
二人は微笑みを交わし合い、亮は静かに玄関のドアを開けて出て行った。
カチリ、とドアが閉まる音。
ヨリは静まり返った玄関で、しばらくの間、その場から動くことができなかった。
再び静寂に包まれた広い邸宅。
けれど、さっきまで確かにここに亮がいて、自分を温かく包み込んでくれていた。
ヨリは自分の額に、そっと指先を重ねる。
(――亮さんの手……)
肌の上に、まだあの優しく大きな手の温もりが残っているような気がした。
一人きりの静かな部屋で、ヨリの胸には今まで知らなかった甘く切ない鼓動が、静かに響き続けていた――。




