第三十二話 孤独を溶かす存在
――小料理屋の厨房・自宅
通話を切った亮は、しばらくの間、じっと手の中のスマートフォンを見つめていた。
――ヨリさんが風邪で寝込んでいる。
しかも、あの広い屋敷に一人きりで。
亮の脳裏に、あの薄暗く広い寝室のベッドで、苦しそうに息を吐きながら一人で耐えているヨリの姿が鮮明に浮かび上がった。
「……」
ほっとけるわけがない。
亮は迷いを捨て、すぐに立ち上がった。
二階の自宅へ上がり、薬箱を引っ張り出す。
「風邪やったら……解熱剤と、消化を助ける薬も要るな……」
必要そうな薬をいくつか手に取り、ポケットへ。
知識を頼りに手際よく準備を進める。そして、ふと考える。
「身体が温まるものも、食べた方がええな」
亮は素早く一階の店舗へと向かった。
仕込み前の静かな小料理屋の厨房。
亮は冷蔵庫を開け、中の食材を目で手早く確認する。
「片手でも、手早く簡単に作れるもん……」
一瞬思考を巡らせ、亮の瞳が閃いた。
「よし、あれやな」
必要な食材と、使い慣れた調味料、そして小ぶりな調理器具。
亮はそれらを丁寧に、かつ素早くリュックの中へ詰め込んでいく。
準備が整うと、リュックを担いでそのまま店を飛び出した。
午前中の澄んだ日差しが照らす大通りまで走り出て、流しのタクシーを探す。
「すみません!」
亮は大きく手を挙げた。
一台のタクシーが滑り込むように停車する。
亮はすぐに後部座席へと乗り込んだ。
「この住所までお願いします!」
少し息を乱しながら、スマートフォンに保存されたヨリの自宅の住所をドライバーに見せる。
「できるだけ急いでもらえますか?」
運転手はバックミラー越しに亮の必死な表情を伺うと、力強く頷いた。
「分かりました」
タクシーが午前中の穏やかな街並みの中へと滑らかに走り出す。
車内でも、亮の胸の動悸は一向に収まらなかった。
(――ヨリさん、大丈夫やろか。高熱で動かれへんのちゃうか……)
焦る思いで窓の外を眺めていた亮だったが、やがてタクシーのスピードが緩やかになった。
見覚えのある重厚な街並み。
「……あれ?」
思っていたよりも、ずっと早く到着した。
「ほんま近いとこに住んではったんやなぁ……」
料金を支払い、亮は急いで車を降りた。
そこは、亡き両親から受け継いだパク家の立派な豪邸の門前。
少し乱れた息を整える間もなく、亮は門横のインターホンに手を伸ばした。
ピンポーン――。
静かな邸宅にチャイムの音が響く。
しばらくして、インターホンのスピーカー越しに苦しそうな咳き込む音が聞こえてきた。
『ゴホッ……ゴホッ……』
亮の目元が、さらに心配そうに落ち込む。
『……はい』
「ヨリさん!」
インターホンに向かって亮が呼びかける。
『……え?』
屋内のモニターを見つめたヨリの瞳が、驚きに大きく見開かれた。
画面に映っていたのは、少し息を切らせ、心配そうな顔で画面を覗き込む亮の姿だった。
『……亮さん……?』
「大変な時にすみません!」
『どうして……ここに?』
「愛菜から話を聞いて……いてもたってもいられなくて」
画面の向こうで、ヨリは一瞬だけ静かに目を閉じた。
(――愛菜さん……!)
強引な愛菜の企みに呆れつつも――胸の奥が、温かい何かでいっぱいに満たされていく。
亮が自分のことを本気で心配して、わざわざここまで駆けつけてくれた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
『……』
ヨリは少しだけ躊躇ったが、すぐにロック解除のボタンを押した。
電子音とともに、重厚な門扉がゆっくりと解錠される。
『……どうぞ、お入りください』
「すみません! 失礼します!」
亮は門をくぐり、少し息を切らせたまま、静かな邸宅の敷地内へと足を踏み入れた。
そして――亮はまだ知らなかった。
この日、自分がヨリの今まで誰も知らなかった「もう一つの素顔」を見ることになるということを――。
――ヨリの自宅・玄関
重厚な門を潜り抜け、亮は急ぎ足で玄関へと向かった。
息を整える間もなく、目の前で静かにドアが開く。
そこに立っていたのは、少し顔色を蒼白くさせたヨリの姿だった。
「……良かった」
亮は胸に手を当て、心の底からホッと安堵の息を吐き出した。
「間に合って……」
「え?」
ヨリは驚いたように目を丸くする。
亮は本当に心配していたのだ。愛菜から「一人で倒れている」と聞き、頭の中では誰にも気づかれないまま苦しんでいるヨリの姿を想像して焦り切っていた。だからこそ、自分の足で玄関まで出迎えてくれたことだけで、心から救われた心地になっていた。
ヨリはそんな亮の姿を見つめる。
肩には溢れんばかりの荷物が詰まった大きなリュック。両手にも袋を提げ、額には汗を浮かべて呼吸を乱している。
(……私なんかのために、こんなに急いで……)
胸の奥がキュッと締め付けられ、ヨリの唇から自然と笑みがこぼれた。
「……亮さん」
その時――。
「ゴホッ……ゴホッ……!」
冷たい外気に触れたせいか、ヨリが激しく咳き込んでしまう。
亮の表情が一瞬で真剣なものへと変わった。
「すみません! ヨリさん! 早くベッドへ戻ってください!」
「え?」
「無理したら余計に悪化しますから!」
その言葉には、下心も気負いも一切ない。ただ純粋にヨリの身を案じる温かな想いだけが込められていた。
その優しさが、ヨリの冷え切っていた心をじんわりと包み込んでいく。
「……ありがとうございます。どうぞ、中へ……」
ヨリの案内で、二人は静まり返った邸宅の中へと足を踏み入れた。
――広大なリビング
ヨリはゆっくりとソファへ腰を下ろし、深く身を預けた。
亮は背負っていた大きなリュックをそっと床に下ろし、中から持参した薬を取り出す。
「食事はされましたか?」
「あまり食欲もなくて……」
「じゃあ、薬も飲まずですか?」
ヨリは亮を見上げると、熱で少し潤んだ瞳を揺らし、申し訳なさそうにコクンと縦に首を振った。
「ゴホッ……」
また小さく咳き込むヨリを見て、亮は膝を突いた。
「熱は?」
「多分……あると思います」
「ちょっと、失礼しますね」
亮はゆっくりとヨリに顔を近づけた。
そして、怪我のない方の右手をそっと伸ばし、ヨリの白い額へと重ね合わせる。
「……!」
その瞬間――。
ドキン、とヨリの胸の奥で激しい動悸が跳ね上がった。
(――何……? これ……)
ただ、熱を測るために額へ手を当てられただけ。
それなのに、体温が急上昇し、鼓動が耳元でうるさいほど高鳴っていく。
亮は真剣な眼差しでヨリの状態を推し量っていた。
「……熱も、高そうですね」
ヨリは、額に触れる亮の手のひらの優しく大きな温もりを感じていた。
そして――我ながら信じられないことに、その手が離れていくことをほんの少しだけ寂しいと思っている自分に気づいてしまった。
「キッチン、お借りしてもいいですか?」
「……え?」
ハッと我に返るヨリ。
「あっ……はい」
「ヨリさんはご自身の寝室で、ゆっくり横になっててくださいね」
ヨリは去り際の手際良い亮の動きを見つめた。
不意に、不思議な感覚が胸を満たす。
亡き両親の思い出が残るこの広い家で、普段はいつも一人。仕事の重圧を背負い、一人で食事をし、一人で静かに眠りにつく日々。
それなのに――今、この家には亮がいる。
損得感情も何もなく、ただ自分のためだけに心配し、動いてくれている。
「……はい」
ヨリは自分でも驚くほど素直に頷いていた。
「よし。じゃあ、ゆっくり休んでてくださいね」
亮はいつもの朗らかな笑顔を見せると、リュックを持って手際よくキッチンへと向かっていった。
ヨリは重い身体を起こし、寝室へと向かって静かに廊下を歩き出す。
(――どうしてだろう)
今日は一人じゃない。ただそれだけのことなのに。
いつもより、ずっと、ずっと安心できる。
その温かな胸のざわめきが「恋」という愛おしい感情だと気づくには、今のヨリにはもう少しだけ時間が必要だった――。




