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第三十一話 駆けつける予感

――ソンファ本社・代表控え室の前

チェ秘書が耳から受話器を離し、静かに通話を終えた。

「……承知いたしました。お大事になさってください」

電話が切れると同時に、すぐそばにいたカン室長が不思議そうな顔でチェ秘書を覗き込む。

「代表、何かあったのか?」

チェ秘書は少しだけ不安そうな陰りを表情に浮かべながら答えた。

「熱を出されているようで……本日は自宅にて療養されるとのことです」

「代表が……?」

カン室長は驚きに目を見張った。

「珍しいな……」

パク・ヨリという女性は、たとえ体調を崩しかけていても顔色一つ変えずに仕事を優先するような人物だ。そんな彼女が自ら休むと言い出すことなど、これまで一度もなかった。それだけに、カン室長も胸の奥に一抹の不安を覚えずにはいられなかった。

――ヨリの自宅・寝室

亡き両親と過ごした思い出の詰まった、広大な豪邸。

静まり返った重厚な寝室のベッドの中で、ヨリは一人横たわっていた。

高熱のせいか、頭がズキズキと重く痛む。

「……風邪かしら……」

朝から喉を通ったのは、わずかな水分だけ。体を起こす気力すら湧いてこない。周囲に頼れる家族もおらず、広い屋敷にぽつんと一人取り残されたような寂しさが身に染みる。

その時――サイドテーブルに置かれたスマートフォンが甲高い着信音を響かせた。

重い瞼を開け、薄暗い画面を見つめる。

画面に表示されていたのは――『愛菜さん』の名前だった。

ヨリはゆっくりと息を整え、受話器をとる。

「……もしもし」

『ヨリさん! おはようございます! 朝早くからすみません!』

いつも通りの元気に満ちた声。

「大丈夫よ……」

そう答えようとした瞬間だった。

「ゴホッ……ゴホッ……!」

喉の奥が引きつり、激しい咳が込み上げてしまう。

『ヨリさん!? 具合悪いんですか!?』

「ダ、大丈夫よ……今日は会社をお休みさせてもらうことにしたから……」

『そんなに良くないんですね……!』

「愛菜さん、本当に大したことじゃ――」

ヨリが言い終わるより早く、電話の向こうで愛菜が声を弾ませた。

『あっ! そうだ!』

「え?」

『時間を持て余してる人が、一人います!』

「……え? 愛菜さん?」

『そんなに大したことないって言ってますけど、だめですよ!』

「愛菜さん、本当にそこまで――」

『少し待っていてくださいね!』

「えっ!? ちょっと――」

――プツッ、ツーツー。

一方的に通話が切り捨てられた。

「……愛菜さん?」

静まり返った部屋の中で、ヨリはぽかんとスマートフォンを見つめる。

ぼんぼんとした頭で、今の言葉を反芻した。

(――時間を持て余している人?)

まさか――。

ヨリの瞳がハッと大きく見開かれる。

「……亮さん……?」

その名前を口にした瞬間、高熱のせいだけではない熱さが、頬から耳元へと一気に駆け上がった。

(……熱のせいよ。きっと、熱のせい……)

ヨリは必死に自分へ言い聞かせようとした。

けれど、胸の奥で鐘を突かれたように早くなっていく鼓動だけは、誤魔化すことができなかった。

 ――愛菜の学校・小料理屋の厨房

ヨリとの通話を切った愛菜は、手際よくスマートフォンの画面をタップした。

発信先はもちろん――父親である竹内亮。

数回の呼び出し音が鳴り響き、すぐに聞き慣れた声が返ってくる。

「もしもし?」

「父さん!」

愛菜はわざとらしく、少し息を荒らげて慌てたような声を張った。

「ヨリさんが……! ヨリさんが風邪で寝込んで、大変なことになっているの……!」

『……えっ!?』

受話器の向こうで亮が驚く気配が伝わる。

「ヨリさん、一人なの!」

その言葉を聞いた瞬間、亮の表情が一変した。

『……ヨリさんが……?』

「私がすぐにでも動きたいんだけど……今日はどうしても学校を抜けられなくて……」

『……』

「父さん! 家にある、よく効くお薬を持って行ってあげて!」

『え?』

「それだけじゃない! 何か食べるものも必要じゃない!?」

『……そうだな。お粥か何か……』

『住所は――』

「住所はわかる…ん?!」

『いや……何でもない!住所も教えて…』

亮は思考を巡らせる。

この前タクシーでヨリを送り届けたあの邸宅やんな…危ない…愛菜にバレるとこや…

 

(――ヨリさん、一人で寝込んでいるのか……)

誰もいないあの広大な豪邸で、高熱にうなされ、食事も摂れずに一人ぽつんと横たわっているヨリの姿。

それを想像しただけで、亮の胸の奥がキュッと締め付けられ、居ても立ってもいられなくなった。

『……分かった! とにかく急ぐ!』

「うん!」

――プツッ、ツーツー。

通話が切れた画面を見つめながら、愛菜はゆっくりと口元を緩めた。

そして、誰もいない廊下でニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「さて……」

小さく呟く。

「お二人さん……この後、恋に進展はあるのでしょうか……?」

愛菜は一人、心底楽しそうに「くくっ」と笑いを漏らした。

もちろん、父である亮がヨリを心配していることも。

そしてヨリが亮を気にしていることも。

愛菜にはなんとなく分かっていた。

けれど、当の本人たちはまだ気づいていない。

(ほんま、じれったい二人なんやから……)

これは、愛菜による小さな「恋の応援作戦」だった――。

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