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第三十話 引き寄せられる運命

あの夜の事件から数日が過ぎた、穏やかな日の午後。

ヨリと愛菜は、カフェレストランで並んで昼食を囲んでいた。

料理に手をつけながら、愛菜が何気ない口調で話し始める。

「そういえば……」

一口運ぼうとしていたフォークを止め、ヨリが愛菜へ視線を向けた。

「どうしたの?」

「次の日曜日に……お父さんが、お母さんのお墓参りに行こうかって言い出して」

「お母さん」という言葉を聞いた瞬間、ヨリの表情がわずかに硬くなった。

――亮さんの奥さん。

以前、亮の小料理屋で愛菜が愛おしそうに語っていた話を思い出す。

あの名物の「だし巻き卵」。

亮と、亡くなった奥さんが二人で一緒に試行錯誤して作り上げた、大切な思い出の料理。

(……どんな方だったんだろう……)

ヨリは心の中で、ふとそんな思いを馳せる。

愛菜が少し困ったような苦笑いを浮かべながら続けた。

「でも、お父さん……まだ手の怪我治ってないでしょ? 車の運転も危ないし、バスと電車で行こうかって話になってるんですよねー」

ため息まじりに肩をすくめる愛菜。

「なかなかお母さんのお墓参りに行く時間も作れてなかったし、ちょうど良いタイミングかなって思ってるんですけど」

「……そう」

ヨリは静かに頷き、手元のグラスを見つめながら少しだけ思案した。

そして――自分でも驚くほど自然に、その言葉が口から突いて出ていた。

「もし……よかったら……」

「はい?」

愛菜が首を傾げる。

「私が……車で送りましょうか?」

「えっ!?」

愛菜が大きな目をさらに丸く見開いた。

「ヨリさんが……ですか?」

「……」

(――あ)

言葉を出してしまってから、ヨリはハッと息を呑んだ。

(少し……踏み込みすぎたかしら……)

ヨリの胸に一気に動揺が広がる。

いつも大企業のトップとして冷静沈着に指示を下すパク・ヨリが、見るからに狼狽していた。

「あっ……えーと、その……」

ヨリは慌てて視線を明後日の方向へと逸らす。

「お、怪我をしてしまったのは……私の責任でもあるし……」

「……」

「よ、よければの話よ……?」

ヨリは言い訳をするように早口で付け加えた。

愛菜は、そんなヨリの様子をじっと見つめていた。

顔をわずかに赤らめ、視線を泳がせながら動揺しているヨリ。

いつも堂々としていて格好いいソンファグループ代表の「パク・ヨリ」が、目の前で年下の自分相手に必死に慌てている。

(――あれ?)

愛菜の頭の中で、ピンと何かが繋がった。

そして――思わず口元がニヤリと歪む。

ヨリが居心地悪そうに身をすくめた。

「……なに?」

「いえ? 何でもありませーん」

「愛菜さん……?」

愛菜は心底楽しそうに、パッと花が咲いたような笑みを浮かべた。

「是非、お願いします!」

「……本当に?」

「はい! めっちゃ助かります!」

その言葉を聞いた瞬間、ヨリの強張っていた表情がパッと華やぐように明るくなった。

「じゃあ……日曜日ね」

「はい!」

二人は顔を見合わせ、微笑みを交わし合った。

(……ヨリさん)

愛菜は嬉しさを噛み締めながら、心の中でニヤニヤとつぶやく。

(お父さんのこと……やっぱりちょっと気になってるんちゃうん?)

ヨリは、そんな愛菜の鋭くも温かい視線に気づくはずもなく、静かに自分の内面と向き合っていた。

――亮さんの奥さん。一体どんな人だったんだろう。

なぜか無性に知りたかった。

そして――それと同時に、胸の奥がほんの少しだけ、チクりとざわついた。

そのざわめきが「嫉妬」にも似た恋心であることを、ヨリはまだ、自分自身でも知らなかった――。


 ――ソンファ本社ビル・副社長室

夜の帳が降りたソウルの街。

副社長室の巨大なガラス窓の前に、パク・ドヒョンが一人立ち尽くしていた。

眼下に広がる輝くネオンと、地を這う無数の車の光。

ドヒョンはそれらを、まるで街のすべてが己の手中に収まったかのような、冷徹で傲慢な眼差しで見下ろしていた。

その時――静寂に包まれた室内に、ドアを叩くノックの音が整然と響く。

「入れ」

ドヒョンは街から視線を外すことなく、低く短い声で応じた。

「失礼いたします」

静かにドアが開き、秘書が滑らかな足取りで室内へ入ってくる。

ドヒョンはゆっくりと振り返ると、重厚な革張りの椅子へと歩み寄り、深々と腰を下ろした。

秘書は恭しく一礼し、ドヒョンの目の前のデスクへと一冊の調査書類を静かに滑らせた。

「先日承りました、パク代表の身辺調査の中間報告に参りました」

「……話せ」

「はい。パク代表の最近の交友関係を精査いたしましたところ、プライベートで頻繁に接触している人物が浮かび上がりました。『竹内 亮』、そしてその娘である『竹内 愛菜』の二人です」

秘書の声に、ドヒョンは無言で手元の書類へ視線を落とす。

「二人の詳細な身元については現在も継続して調査中ですが、現時点で判明しているプロフィールにつきましては、そちらの資料にまとめてございます」

ドヒョンは書類の写真――そこに移る亮の穏やかな顔写真を見つめながら、ぽつりと呟いた。

「そうか……日本人の男と、その娘……」

資料をめくるドヒョンの指が止まる。

頭の中で、過去の記憶の断片と現在の不審な出来事が一つ、また一つと結びついていく。

(……前回の鉄骨事故の現場……そして今回の清潭洞での一件……。ただの一般人が、偶然その場に居合わせることなどあり得るか……?)

ドヒョンの瞳に、鋭く不穏な光が宿る。

「……少し気になることがある」

ドヒョンは静かに頭を上げ、秘書を真っ直ぐに見据えた。

「17年前の……あの事故の『乗船者名簿』も調べて報告するように」

その要求に、秘書の表情がわずかに強張った。だが、すぐにビジネスライクな表情を取り戻し、深く頭を下げる。

「……承知いたしました。至急手配いたします」

「……下がっていい」

秘書が去り、再び静寂が戻った副社長室。

ドヒョンはデスクの上の写真を指先で軽く叩きながら、冷ややかな笑みを浮かべた。

「竹内亮……お前はいったい何者だ……?」

暗闇のソウルを見下ろすドヒョンの呟きが、静かな部屋に深く沈んでいった――。

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