第二十九話 闇の兆しと温かな光
――ソンファ本社・副社長室
静けさに包まれた夜の室内。
重厚なデスクに座るパク・ドヒョンの元で、一台のスマートフォンが静寂を破って鳴り響いた。
ピリリリ……と響く着信音。
ドヒョンは取り乱すこともなく、ゆっくりと手元の画面に視線を落とす。
表示されている名前は――『カン・テジュン』。
ドヒョンは穏やかな手つきで端末を手に取り、耳に当てた。
「もしもし……」
電話の向こうから、苛立ちを隠そうともしない刺々しい声が返ってきた。
『パク副社長! 話が違うじゃないですか……!』
感情を剥き出しにするテジュン。
それとは対照的に、ドヒョンの声はどこまでも落ち着いていた。
「カン取締役……どうされましたか?」
『どうされましたかって……!』
テジュンの声がさらに荒く高ぶる。
『邪魔が入るなんてこと、聞いていなかったでしょう……!』
「…………」
『お陰で僕の鼻が曲がってしまいましたよ!』
ドヒョンは、ほんの少しだけ眉を動かした。
「二人とは……合流しなかったのですか?」
『その二人もあっさりやられて、横でのびてますよ!』
「……それはそれは」
まるで他人事のような、淡々とした返答。
テジュンは電話の向こうで怒りを抑えきれずに吐き捨てる。
『僕は、この件から引かせてもらいますよ!』
「…………」
『ですが――』
テジュンの声が低く、粘り気を帯びる。
『約束は、必ず守ってもらいますからね!』
ドヒョンは少しだけ口元を歪めた。
「もちろん……」
そして、諭すような穏やかな声で続ける。
「今回は酷い目に合わせてしまったようで……」
『…………』
「約束は必ず守りますから、ご安心を」
『……分かりました』
「それでは……」
ツーツーという無機質な切断音。
ドヒョンはスマートフォンをゆっくりとデスクの上へ置いた。
「…………」
しばらくの間、静寂が部屋を支配する。
やがて――ドヒョンがポツリと呟いた。
「邪魔が入った……?」
ドヒョンの瞳が、氷のように細く冷ややかに光る。
「……前回といい……」
脳裏に浮かぶのは、以前起きたあの出来事。
青雲洞のリゾートホテル建設現場で起きた、鉄骨の崩落事故。
あの時も――ヨリは絶体絶命の危険に晒された。そして、謎の第三者によって救われている。
今回も同じだった。
「前回の鉄骨崩落の時も……ヨリは助かった」
ドヒョンは椅子の背もたれにゆったりと身体を預けた。
「そして今回も……」
低い声で呟く。
「一度……調べる必要がありそうだな……」
ドヒョンは迷いなく内線電話へと手を伸ばした。
「……秘書を呼んでくれ」
数分後――コン、コンとノックの音が響く。
「入りなさい」
「失礼します」
秘書が滑らかな動作で室内へ入ってきた。
ドヒョンは冷徹な眼光で秘書を見据える。
「一度、ヨリの周辺を調べてみてくれ」
「はい」
「……念入りにな」
「承知いたしました」
秘書が深く一礼し、静かに退室していく。
ドヒョンは再び椅子へ深く腰を下ろした。
誰もいなくなった暗い副社長室で、静かに吐き捨てる。
「それにしても……」
その瞳には、僅かな苛立ちと警戒心が浮かんでいた。
「……悪運の強い女だ……ヨリ……」
毒を含んだ言葉だけが、静まり返った部屋に虚しく残った。
――夜・タクシー車内
病院でのしかるべき処置を終えた二人は、タクシーに乗り込みヨリの自宅へと向かっていた。
車内には、どこか静かで穏やかな時間が流れている。
流れていく夜の街灯りを、ヨリは後部座席からぼんやりと眺めていた。
薬効が抜けきり、徐々に戻ってくる意識の中で、ヨリは小さな声を漏らす。
「亮さん……今日は本当に、ありがとうございました」
隣に座る亮は、少し照れたように目元を緩めた。
「いえ……お礼なんて必要ないです」
そう言った後、亮はふっと言葉を止めた。
「ただ……」
わずかな間。
亮は隣に座るヨリの横顔を、痛ましそうに見つめた。
「怖かったでしょう……辛かったでしょう……」
ヨリの胸がぎゅっと締めつけられ、瞳が揺れる。
「ヨリさんの心にできた傷が……心配です」
その温かい言葉に、ヨリの目から不意に涙が溢れそうになった。
「……」
それでもヨリは、涙を見せまいと微笑む。
「大丈夫です!」
意識して少し明るい声を張る。
「亮さんが助けてくれたから!」
けれど――その笑顔が無理をしていることは、亮にも伝わっていた。
いつもなら人の気持ちに少し鈍感な亮。
それでも今のヨリだけは、見過ごすことができなかった。
亮は優しく言った。
「ヨリさん……」
「……はい」
「本当に今日は……よく自分を守りましたね」
ヨリが亮を見る。
「凄いと思います」
その言葉に、ヨリの表情が少しだけ緩む。
「だけど……」
亮は続けた。
「独りで抱え込まないでください」
ヨリは黙って亮を見つめる。
「辛い時や……独りが怖い時は……」
亮は少し照れながらも、まっすぐ言った。
「俺が……」
一瞬言葉に詰まる亮。そして――。
「俺と愛菜がいますから」
ヨリの胸が、強く締め付けられた。
頬を伝う涙。
一度流れ始めた涙は、もう止めることができなかった。
「……亮さん……」
亮は何も言わず、ただ優しくヨリを見つめていた。
ヨリは涙を拭いながら、少しだけおどけた表情を浮かべる。
「亮さん……」
「はい?」
「あんまり甘やかすと……」
ほんの少し笑う。
「どんどん甘えちゃいますよ……」
亮は一瞬だけ目を丸くした。
そして――いつもの優しい笑顔で答える。
「いつでも甘えればいいですよ」
「……!」
ヨリの胸が、また大きく跳ねた。
(……この人は……)
言葉一つ一つが、どうしてこんなにも心に響くのだろう。
――ヨリの自宅前
やがて、タクシーがヨリの自宅前――亡き両親と暮らしていた重厚な豪邸の門前に静かに停車した。
「ありがとうございました」
二人で車を降りる。
亮はヨリを見つめた。
「今晩はゆっくり休んでくださいね」
「はい……」
「何かあれば、何時でもいいから連絡してください」
ヨリは静かに頷いた。
「本当にありがとう……亮さん」
実家である広い邸宅を見上げ、そしてふと思い出したように尋ねる。
「亮さんは……タクシーで帰らないのですか?」
亮は少し困ったように笑った。
「あ……」
そして、何でもないことのように答える。
「愛菜にランニングへ行くって言っちゃったので……」
「……え?」
亮は笑顔になる。
「走って帰ります!」
「…………」
ヨリは呆気に取られたように亮を見る。
「亮さんって……本当に……」
その先の言葉が出てこない。
亮は軽く手を上げた。
「では! お休みなさい」
「……お休みなさい」
亮はヨリに背を向ける。
そして――そのまま夜道を走り始めた。
「…………」
ヨリは、その背中を見つめ続ける。
やがて小さく呟いた。
「本当に……不思議な人……」
夜の街を走っていく亮。
その背中を見つめながら――ヨリの胸には、恐怖とは違う温かな鼓動が、静かに残っていた。




