第二十八話 忍び寄る罠 ――その夜
料亭を出た二人。
夜の静寂が広がる街角を、ヨリとテジュンは並んで歩いていた。
テジュンが何気ない口調で声をかける。
「少し歩こうか」
「いえ……今日……は……」
ヨリは歩みを止めようとした。
その瞬間だった。
(……何……?)
目の前の景色が、突然ぐにゃりと歪み、ぼやけ始める。
街灯の光も、行き交う人影も、すべてが輪郭を失っていく。
(周囲が……ぼやける……)
急激な睡魔と強いめまいがヨリを襲った。
「……っ」
膝から急速に力が抜けていく。
テジュンが顔を覗き込んできた。
「大丈夫か? ヨリ……少し飲み過ぎたんじゃない?」
心配するような言葉とは裏腹に、その口元には不敵な笑みが浮かんでいた。
ヨリは必死に意識の糸をつなぎ止めようとする。
(おかしい……自分の意思で……身体が……動かなくなっていく……)
何かが決定的におかしい。
直感的に危険を察したヨリは、残された最後の力を振り絞ってポケットのスマートフォンを手探りで取り出した。
画面も見えないほどぼやける視界の中、震える指先で記憶を頼りに一つの名前を押し込む。
『亮さん』
静かな呼び出し音。
――そして。
『もしもし?』
受話器の向こうから聞こえた、聞き慣れた温かい声。
いつもの亮の声だった。
その声を聞いた瞬間、ヨリの瞳がわずかに揺れた。
(亮さん……)
通話が繋がったことだけを確認すると、ヨリはテジュンに気づかれないよう、すぐにスマートフォンをポケットへと押し戻した。
テジュンは少し離れた場所で誰かに電話をかけており、ヨリが助けを呼んだことには全く気づいていない。
「テジュン……!」
ヨリは喉の奥から絞り出すように声を張った。
「ここは……どこ?」
テジュンがゆっくりと振り返る。
「どうした、ヨリ?」
そして、何食わぬ顔で白々しく答えた。
「ここは清潭洞だよ……そんなことも分からなくなってきたのか?」
「私は……一人……で……帰るわ……」
ヨリは一歩前へ踏み出そうとした。
しかし――足にまったく力が入らず、身体が大きく傾く。
「何言ってるの?」
テジュンがヨリの腕を強引に掴んだ。
「もう足元がフラフラじゃないか」
その手に強い力が込められた。
――その頃・亮の自宅
『もしもし?』
スマートフォンからは、荒い息遣いとともにヨリと見知らぬ男の会話が漏れ聞こえていた。
亮は端末を耳に押し当てたまま、身じろぎもせずじっと耳を澄ます。
「……ヨリさん?」
呼んでも返事はない。
しかし、途切れ途切れに聞こえてくる緊迫した会話のやり取りに、亮の表情が引き締まっていく。
「……何が……どうなってるんですか……!?」
次の瞬間、亮は弾かれたように立ち上がった。
怪我をした左手を庇いながら玄関へ向かう。
「父さん、どこ行くの!?」
リビングから愛菜が驚いて声をかけた。
亮は靴に足を押し込みながら短く答える。
「ランニング!」
「ランニング!?」
愛菜の呆れた叫び声を背に受けながら――亮は弾丸のように家を飛び出した。
そして、スマートフォンに表示された位置情報と会話の内容を頼りに、全速力で清潭洞へ向かって夜の街を爆走する。
「ヨリさん……」
片時もスマートフォンを耳から離さない。
「ヨリさん……!」
普段の穏やかな姿からは想像もつかない、明らかな焦燥と怒りがその声に滲んでいた。
――清潭洞・裏路地
テジュンは動けないヨリの腕を掴んだまま、大通りから一本入った薄暗い路地へと引きずり込んでいた。
街灯の光も届きにくい暗がり。周囲から見れば、酒に酔い潰れた女性を連れ添いの男性が介抱しているようにも映る。
ヨリは遠のく意識と必死に戦っていた。
(……動けない……)
視界が黒く塗りつぶされていく。
その時――前方から、威圧的な体躯をした大柄な男が二人、ゆったりと歩いてきた。
テジュンはその二人の姿を確認すると、口元を不敵に歪めた。
「ヨリ……」
低く冷酷な声を落とす。
「お前も終わりだよ」
ヨリの身体がさらに力なく崩れ落ちそうになる。
テジュンは二人組に向かって顎をしゃくった。
「あの二人と……後は仲良くやりな……」
その瞬間だった。
――タッ、タッ、タッ……!
路地の奥から、空気を切り裂くような激しい足音が急速に接近してくる。
テジュンが驚いて振り返った。
暗闇の向こうから、一人の男が恐ろしい速度で詰めてくる。
しかし、後ろ姿と影だけではヨリだとは判別できない。ただ、倒れそうな女性を男が強引に抱き留めている異様な光景。
亮は速度を落とすことなく、その二人へ疾風のごとく駆け寄った。
「あの……すみません!」
テジュンが忌々しそうに振り返る。
「……なんだ、おっさん」
「ちょっと……すいません」
亮は女性の顔を確認しようと、一歩踏み込んだ。
その瞬間――崩れ落ちかかっていた女性の右手が、ほんの僅かに、必死に動いた。
手のひらを向け、親指を内に折り込み、残りの指でかぶせるように握りしめる――。
亮の視線がそこへ集中する。
それは――世界共通で使われている助けを求めるハンドサイン、SOSのメッセージだった。
「……!」
亮の表情が一変する。
「……ヨリさん!?」
その切迫した声に反応し、ヨリの瞳がゆっくりと動いた。
ぼやけた世界。何度も焦点が合わなくなる視界。
それでも――一瞬だけ。目の前の人物の輪郭を捉えた。
「……亮……さん……」
大声で叫びたかった。けれど――喉が引きつり、まともな声にならない。
テジュンが不快そうに亮を睨みつける。
「オッサン! 向こうにいけよ!」
そして、ヨリに伸ばされようとした亮の手を邪険に払いのけようとした――その瞬間。
「……っ!」
亮の超人的な反射神経が瞬時に作動する。
次の瞬間――。
ドンッ!!
重く鈍い音とともに、寸分の狂いもない鋭いハイキックがテジュンの顔面をまっすぐに捉えた。
「ぐ……っ!?」
テジュンの巨躯が宙を舞うように大きく吹き飛ぶ。
そのまま地面へ激しく叩きつけられ――ピクリとも動かなくなった。
前方から迫っていた二人の大柄な男たちが、目を見張ってこちらへ突進してくる。
亮は一度、足元のヨリへと視線を落とした。
「……ヨリさん」
ヨリの瞳が、ゆっくりと亮の顔を捉える。
その瞬間――ヨリの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
(亮さん……)
ただ、それだけを思った。
亮は胸を締めつけられる思いでヨリを見つめる。
「大丈夫ですか? ヨリさん……」
どこまでも優しい声。
「少しだけ、この壁にもたれて待っててください。すぐに戻ります」
亮はヨリの身体を優しく支え、壁へとそっと寄りかからせた。
そして静かに振り返り、迫る二人の男と対峙する。
「……」
亮は右手を拳に握りかけ――ふと、家を出る直前の光景が脳裏をよぎった。
(――父さん、無茶しちゃダメだからね)
亮は小さく息を吐き出す。
(怒られへんように……脚だけで倒すようにしよ……)
男の一人が、舐めきった顔つきで拳を振りかざしてきた。
「なんだ、このオッサン――」
殴りかかってくる拳。
その瞬間、亮の身体がスッと沈み込んだ。
自由な体勢から押し出す、うなるようなローキック。
男の軸足の膝裏を、容赦なく捉えた。
「ぐあっ!!」
絶叫とともに男の身体がくの字に折れ曲がり、崩れ落ちる。
亮の蹴りは、長年鍛え上げられた空手の真骨頂。その威力は角材すら一撃で粉砕するほどだ。まともに受ければ、立ち上がることすら不可能に近い。
「なっ……!?」
もう一人の男が恐怖に怯みながらも、ヤケクソで飛びかかってくる。
亮は流れるような動作で軸足を回転させた。
――しなる鞭のような鋭い回し蹴り。
バキッ!!
男の顔面を完璧に捉えた。
男は白目を剥き、そのまま力なくその場に沈んだ。
静寂。
暗い路地に残されたのは、男たちの苦悶の呻き声と亮の荒い息遣いだけだった。
三人の男たちは完全に戦意を失い、地面にうずくまっている。
亮は即座にヨリの元へ駆け戻った。
「ヨリさん……!」
崩れ落ちる身体をしっかりと支え上げ、そのまま愛おしそうにヨリを腕の中へと抱きかかえた。
「もう大丈夫です」
亮はヨリをしっかりと抱き抱えたまま、大通りへ向かって歩き出す。
ヨリの意識は朦朧とし、途切れかけていた。
視界がぼやけ、消え、また少しだけ戻る。
それでも――確かに目の前にいる。亮が。
「大丈夫」
亮の温かい声が耳元で聞こえる。
「もう大丈夫だから……安心して」
――その言葉。
その優しく力強い声。
ヨリの意識の奥深くに眠っていた、遥か遠い記憶の扉が激しく揺れ動いた。
荒れ狂う暗い海。
泣き叫ぶ幼い自分。
小さな手を必死に握りしめていた、幼い愛菜。
そして――自分たちを庇うように強く抱きしめてくれた、一人の女性。
そのまま冷たい海の中へと沈んでいく姿。
『亮!!』
――必ず守る。
あの時、私を守ろうとしてくれた叫び声と、今自分を抱きしめて歩く亮の声が――寸分の狂いもなく、一つに重なっていく。
「……大丈夫……」
ヨリの唇が、かすかに動いた。
けれど、それは音にはならなかった。
亮はそれに気づくこともなく、ただヨリの身を案じ、固く抱きしめ続けている。
「大丈夫ですよ……ヨリさん」
その温かい声と鼓動を感じながら――ヨリの意識は、深く穏やかな闇へとゆっくり遠のいていった。
亮は大通りへと躍り出ると、走ってくるタクシーに向かって大きく手を挙げた。
「すみません!」
キーッと音を立ててタクシーが停まる。
亮はヨリを腕に抱いたまま、慎重に後部座席へと乗り込んだ。
「近くの救急病院へお願いします! 大至急!」
「分かりました!」
バタンとドアが閉まり、夜の街をタクシーが猛スピードで走り出した。
亮は腕の中でぐったりと横たわるヨリの顔を愛おしそうに見つめる。
「……ヨリさん」
返事はない。
亮は祈るように、もう一度その名を優しく呟いた。
「大丈夫だから……」
二人を乗せたタクシーは、街の明かりを置き去りにしながら、夜の闇を走り続けていた――。




