第二十七話 忍び寄る罠
――ソンファグループ・代表室
ある日の代表室。
ヨリ、カン室長、チェ秘書の三人は、青雲洞のリゾートホテル建設反対派住民との『第二回意見交換会』に向けた準備について、打ち合わせを行っていた。
デスクの上には、前回の意見交換会で出された住民たちの切実な要望や、膨大な資料が整然と並べられている。
ヨリは手元の資料に視線を落としながら、静かに、けれど芯のある声で口を開いた。
「前回、住民の皆さんから出された意見を一つずつ整理しましょう。今回は、こちらから答えを押し付けるのではなく、できるだけ具体的な話し合いにしたいわ」
「承知しました。こちらの資料も、その方向でまとめております」
チェ秘書が手元のファイルを丁寧に確認しながら答える。
その時だった。
ピリリリ……と、チェ秘書のスマートフォンが静寂を破って鳴り響いた。
「少々お待ちくださいませ」
チェ秘書は画面を確認すると、すっとヨリへ視線を向けた。
「代表、カン・テジュン様よりお電話ですが、いかがいたしましょう?」
「ありがとう……」
ヨリはチェ秘書から端末を受け取り、耳に当てた。
「もしもし……はい……。わかりました。それでは今夜十九時に伺います。それでは……」
通話を終え、チェ秘書へスマートフォンを返す。
「スケジュールの変更を」
「はい」
「今夜十九時に、テジュンさんと打ち合わせをするわ」
「承知いたしました」
その横で、カン室長がどこか懸念を孕んだ表情でヨリを見つめた。
「同行いたしましょうか?」
「大丈夫よ……二人で商談がしたいそうだから」
「そうですか……分かりました」
ヨリは再び手元の資料へ視線を戻した。
しかし――。
(少し……亮さんのところに、怪我の経過を聞きに行きたかったんだけど……)
ほんの一瞬、亮の不器用で温かい顔が頭をよぎる。
ヨリは誰にも気づかれないよう、そっと自分のプライベート用のスマートフォンを手に取った。
メールアプリを開く。
そこには、亮から届いた一通のメッセージが残されていた。
『ヨリさん
いつもお忙しいのにすみません。
変わりは無いですか?
何かあれば言ってくださいね。』
ヨリの唇が、自然と柔らかな笑みを形作った。
(本当に……不器用なメール……)
画面の文字を愛おしそうになぞる。
(そこが亮さんらしいんだけどね……)
そのあまりにも穏やかな微笑みを、チェ秘書は見逃さなかった。
プライベートのスマートフォンを確認しながら、密かに微笑む代表――。
最近、明らかに個人用の端末を気にする機会が増えている。
チェ秘書は心の中で小さく呟いた。
(最近、よくプライベートのスマホを見るようになったな……代表。お相手は……誰なの??)
そんなチェ秘書の好奇の視線には気づかず、ヨリはゆっくりと指を動かして返信を打ち込んだ。
『今日19時から会食が入ったから、その時間帯はご返信ができないかもしれません。ご心配なく。』
送信ボタンを押す。
ヨリはしばらく愛おしそうに画面を見つめていた。
そして――誰も見ていない隙に、スマートフォンを胸元へそっと当てた。
(……亮さん)
じんわりと、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
――午後七時・高級料亭
チェ秘書に車で送ってもらい、ヨリは目的の会食場所へ到着した。
車を降り、店の重厚な入口を見上げる。
落ち着いた静寂と高級感が漂う佇まいだ。
ヨリは小さく息を吐き出した。
(それにしても……テジュンが仕事の話で食事に誘うなんて、珍しいわね……)
店内へ足を踏み入れると、恭しくお辞儀をしたスタッフがすぐに声をかけてきた。
「パク代表ですね。カン様がお待ちです。こちらへどうぞ」
奥の個室へ案内されると、すでにテジュンがゆったりと腰掛けていた。
ヨリが近づく。
「ごめんなさい……お待たせしたみたいで……」
ヨリの腕の時計は、十八時五十五分を指している。
テジュンは穏やかで爽やかな笑顔を浮かべた。
「少し僕が早く着いただけだよ。気にしないで」
そう言いながら、テジュンはヨリの顔をじっと見つめる。
「久しぶりだね。ヨリと食事なんて」
「ええ」
ヨリは対面の席についた。
「それで……お仕事のお話は?」
「そうだね……食事をしながら、ゆっくり話そう」
「ええ」
二人の間に、短く気まずい沈黙が流れた。
店内に静かに響く生演奏のピアノの音色だけが、弾まない会話の余白を埋めていく。
しばらくして、テジュンが滑らかに口を開いた。
「まあ、そんな感じで……リゾート分野で提携をしていきたいなって話だよ」
ヨリは運ばれてきた料理を口に運びながら、淡々と聞いていた。
(……そんな話のために、この席を設けたわけ?)
胸の奥に、少しずつ不快な苛立ちが溜まっていく。
もちろん、退屈な商談だけが理由ではない。
(……本当なら、今頃……亮さんのところへ行って、怪我の具合を聞きたかったのに……)
チラリと時計を見る。時間だけが無為に過ぎていく。
やがて食事が終わり、ヨリは静かにナプキンをテーブルに置いた。
「ごめんなさい。少し席を外すわ」
「うん」
ヨリが立ち上がり、洗面所へと向かっていく。
その背中を静かに見送ったテジュン――。
一瞬、その瞳に底知れぬ鋭い光が宿った。
周囲の様子を素早く確認する。
そして、ヨリが戻ってくるまでのわずかな隙を狙い――。
手元から取り出した小さな包みを開き、ヨリのグラスへと一気に振り落とす。
白い粉末が、琥珀色の液体の中に静かに溶けて消えていった。
テジュンはグラスを見つめ、口元だけで冷たく歪んだ笑みを浮かべる。
(さあ……どうなるか。見ものだな)
――洗面所
鏡の前で、ヨリは深く大きな息を吐き出した。
「……はぁ」
(なに……? この無駄な時間は……)
自分でも驚くほど、イライラが収まらない。
(無性に腹が立つ……)
亮のところへ行けなかったこと。
その事実が、思っていた以上に自分の心を強く占領していることに嫌でも気づかされる。
ヨリは鏡の中に映る自分をじっと見つめた。
「……平常心……平常心……」
ゆっくりと深く息を吸い、吐く。
そして、いつもの完璧な代表としての表情を作り直した。
――席
「ごめんなさい、お待たせして」
「いや、大丈夫だよ」
テジュンは優しく微笑んで迎え入れた。
ヨリは席につく。
そして――何気なく目の前のグラスへと手を伸ばした。
テジュンの視線が、ほんの一瞬だけそのグラスへ集中する。
ヨリは何の疑いもなく、その飲み物を口へ運び――一気に飲み干した。
「……」
テジュンは、満足そうに静かに微笑む。
「では……そろそろ行こうか」
ヨリはグラスをカタンとテーブルへ置いた。
「ええ……」
その瞬間――。
ヨリの身体の奥深くで、まだ本人すら気づいていない、恐ろしい変化が静かに始まり始めていた。




