第二十六話 妹のような温もり
ヨリは「ソンファ希望の家」へと向かっていた。
表向きは施設の視察という名目だったが、自分自身でも本心は分かっていた。
(本当は……愛菜さんに、会いたかった)
施設に近づくと、敷地内から子どもたちの元気な声が響いてくる。
「待ってー! 走ったら転んで怪我しちゃうよー!」
ヨリは思わず足を止めた。
愛菜が小さな子どもの後を慌てて追いかけている。その子は以前、この施設でヨリにぶつかってしまったあの子だった。
「こらー! 待ってー!」
愛菜は困ったような顔をしつつも、その表情はどこか愛おしそうに楽しんでいた。
ヨリは思わず口元を緩める。
「ふふっ……」
ようやく愛菜が子どもを捕まえ、優しく抱き上げた。
「もう、危ないでしょ? 走ったら怪我するよ」
子どもは愛菜の腕の中で無邪気に笑っている。その微笑ましい姿を見て、ヨリの胸の奥がじんわりと温かくなった。
「愛菜さん」
ヨリが声をかけると、愛菜がパッと振り向いた。
「あっ!?」
愛菜の表情が一瞬でパッと華やぐ。
「ヨリさん!」
その眩しい笑顔に、ヨリも自然と笑みを返した。
(……こんな妹がいてくれたら…)
ふと、そんな言葉が胸に浮かぶ。
ヨリには兄弟姉妹がいない。けれど愛菜と一緒にいると、不思議と本当の妹と過ごしているかのような温かな感覚になるのだった。
ヨリは手元の時計に目をやった。
「もうすぐお昼でしょう?」
「はい」
「一緒に、どう?」
愛菜の表情がさらに明るく弾けた。
「いいんですか!? ご一緒して!」
いつも以上に嬉しそうな愛菜を見て、ヨリも思わずクスッと笑ってしまった。
二人はテーブル席に並んでつき、昼食をとり始めた。
ヨリは何気ない素振りを装いながら、ふと胸の奥のざわつきを押さえて尋ねる。
「ジヨンさんは、今は……?」
「叔母は帰りました……父が『店をしばらく閉めるから大丈夫だ』って言ったので。そう言えば、ヨリさん叔母と会ったんですよね? 叔母、ストレートで思い立ったらすぐ行動するタイプだから……ヨリさんに失礼なこと言ったり、変に困らせたりしませんでしたか?」
愛菜は少し心配そうに身を乗り出して尋ねてきた。
ヨリは、昨夜の夜道でジヨンから投げかけられた「私はずっと亮ちゃんが好き」「あなたは?」という言葉を思い出し、無意識に手に持ったコップをギュッと握りしめてしまう。
「いいえ、そんな……先日偶然お会いしたけれど、とても洗練されていて……素敵な方ね」
ジヨンの洗練された気品と亮へのまっすぐな強い想い。自分にはない彼女の魅力を思い返し、知らず知らずのうちに恋のライバルとして意識してしまう自分がいた。
「そうなんですね……良かった。叔母は本当に昔から世話焼きで、自分の気持ちにもストレートだから、父もたじたじで」
愛菜はホッとしたように笑い、手元の料理に箸を伸ばした。
そんな愛菜の表情を見て少し安心したヨリは、気持ちを切り替えるように何気なく尋ねた。
「亮さんの具合は、どう?」
愛菜は呆れたように笑う。
「もうピンピンしてて、やることがないから口うるさくなって……本当、困っちゃいます」
「ふふっ、そうなのね。私の方にも時々、メールをくれるわ」
それを聞いた瞬間、愛菜の箸がぴたりと止まった。
「……えっ?」
愛菜が目を丸くしてヨリを見る。
「メール!?」
「ええ」
愛菜は目をいっそう大きく見開いた。
「お父さん、メールの使い方なんて知らなかったはずなのに……」
「えっ?」
愛菜は何かを思い出したように手をぽんと打った。
「そういえば最近、一人でスマホ触りながら『うーん』って悪戦苦闘してるなぁって思ってたら……ヨリさんにメール送ってたんですね!?」
ヨリも思わず納得したように笑う。
「なるほど……レスポンスが遅いわけね」
「ですよね!? お父さん、最近私によく聞いてくるんですよ」
「何を?」
愛菜はちょっと得意気に、亮の口調を真似してみせた。
「『ヨリさんは元気にしてるのか?』って」
ヨリは一瞬言葉を失い、照れくさそうに表情を柔らかくした。
愛菜は楽しそうに続ける。
「メールするくらいなら電話して声を聞けばいいのに。本当不器用なんですから」
「ふふっ、そうね」
その時、愛菜がふと首を傾げた。
「……あれ?」
「どうしたの?」
愛菜は不思議そうな顔でヨリを見つめた。
「お父さん、なんでヨリさんの連絡先知ってるんですか?」
「……!」
ヨリは思わず飲んでいたスープにむせた。
「ゲホッ……っ、コホッ……!」
「だ、大丈夫ですか!?」
慌てるヨリに、愛菜はじーっと疑いの目を向ける。
「……ヨリさん?」
「実は……」
ヨリは少し迷った。建設現場での襲撃事件や、亮が怪我を負った危険な経緯をそのまま愛菜に話すわけにはいかない。
「……この前、亮さんと少し話す機会があって」
「うん」
「その時に、連絡先を交換したの」
「……」
ヨリは穏やかに言葉を重ねる。
「亮さんが……愛菜さんも私のことを心配しているから、何かあった時に連絡できる方がいいって言ってくれて」
愛菜の表情が少し変化した。
「……お父さんが?」
「ええ。『理由は上手く説明できないけど、ヨリさんが心配だから』って」
愛菜はしばらく何も言わず、静かにその言葉を噛みしめていた。
そして――突然、ニヤッと不敵な笑みを浮かべた。
「……へぇ〜〜?」
「えっ?」
「そうなんですねぇ〜?」
「……何?」
ニコニコと意味深に笑う愛菜に、ヨリは戸惑う。
「別に? 何でもありませんよ?」
「……愛菜さん、何か変なこと考えてない?」
「全然! 全く! 一ミリも!」
「……絶対考えてる」
耐えきれなくなった愛菜が吹き出し、二人の楽しげな笑い声がテーブルの周りにパッと広がった。
ヨリは笑いながら、胸の中でしみじみと思った。
(愛菜さんといると、不思議……何も隠さなくていい。ただこうして、笑っていられる)
そして、またしても頭の中に亮の顔が浮かぶ。
(……メール、来てたかな?)
ヨリはふと、バッグの中のスマートフォンを気にしてしまう。
その行為が何を意味しているのか――まだヨリ自身、自分の無自覚な恋心に気づいていなかった。




