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第二十五話 言いかけの言葉

――店の外・夜の街

夜の静けさが包み込む街並みを、ヨリとジヨンが並んで歩いている。

はじめのうちは、どこかぎこちない沈黙が二人を包んでいた。

やがて、ジヨンがふっと口元を緩めた。

「……不思議な人でしょ。亮ちゃんって」

「えっ?」

ヨリが思わず隣を歩くジヨンを見る。

「そ、そうですね……」

「昔からなのよ」

ジヨンは前を向いたまま、昔を懐かしむように語り始める。

「自分のことになると、びっくりするくらい無頓着で」

「……」

「人のことばかり心配して、自分のことはいつも後回し」

ヨリは言葉を挟まず、静かに耳を傾けた。

するとジヨンが、少しだけ声音を落とす。

「……ソヨンのことは、聞きました?」

ヨリの足が、一瞬だけ止まりそうになった。

「……いえ」

ヨリは静かに、小さく答えた。

「愛菜さんから……少しだけ」

「そう……」

ジヨンは静かに頷いた。

しばらく夜道を歩いたあと――静かに言葉を紡ぐ。

「十七年前にソヨンを失ってから……」

ジヨンは立ち止まることなく、深く澄んだ夜空を見上げた。

「亮ちゃんと、この世界を唯一つなぎ止めてきたのが……愛菜なの」

ヨリは息をひそめて黙って聞いている。

「愛菜がいなかったら……」

ジヨンの声が、ほんのわずかに震えた。

「いったい、どうなっていたのか……私にも分からない」

「……」

「でも、確かに愛菜はいた」

ジヨンは優しく微笑む。

「亮ちゃんは愛菜を愛して……全力で育ててきた」

「……はい」

「自分のことなんて、ほとんど考えたことがないんじゃないかしら」

その言葉が、ヨリの胸を強く締めつけた。

脳裏に、亮の姿が次々と浮かんでくる。

店を閉めていても自分の生活より周りを優先する姿。

手を怪我しても笑って「大丈夫」と言う姿。

そして――あの時。

自分を守るために、迷いなく飛び込んできてくれた亮の姿――。

(……)

ヨリは何も言えなかった。

そんなヨリの横顔を静かに見つめながら、ジヨンは続ける。

「私はね……ずっと亮ちゃんが好き」

ドクン、とヨリの胸が激しく跳ね上がった。

けれどジヨンは、ヨリの反応を優しく包み込むように言葉を重ねる。

「ずっとよ」

「……」

「愛菜も、もう二十歳でしょう?」

「はい……」

「これからは愛菜も、自分の人生を一人で歩き始める時期よね」

ジヨンはどこか寂しそうに微笑んだ。

「だから……亮ちゃんが独りになった時のことを考えると」

一度言葉を切り、ジヨンは深く息を吐く。

「胸が痛いの」

ヨリは黙ったまま、ジヨンの横顔を見つめる。

「亮ちゃんには……幸せになってほしい」

その言葉には、十七年という長い年月を越えて育まれてきた深い想いが滲んでいた。

「幸せにしてあげたい」

ジヨンは静かに前を向く。

「私は……そう思ってる」

そして――ジヨンがぴたりと足を止めた。

ヨリも引き寄せられるように立ち止まる。

ジヨンはゆっくりと振り向き、ヨリの目をまっすぐに見つめた。

「……ヨリさん」

「はい」

「あなたは?」

「……」

そのたった一言。

ヨリの心臓が、痛いほど大きく跳ね上がった。

「私は……」

口を開く。けれど――言葉が喉の奥でつかえて出てこない。

(私は――)

亮さんに幸せになってほしい。

そう思っている。

怪我をしてほしくない。

笑っていてほしい。

独りになってほしくない。

もっと亮さんのことを知りたい。

もっと一緒にいたい。

そして――

亮が誰かに奪われるようなことを考えると、胸の奥が張り裂けそうに苦しくなる。

そこまで自分の感情が分かっているのに。

「……」

ヨリは答えることができなかった。

ヨリ自身、その理由をはっきりと言葉にできない。

いや――心の奥底には、もう引き返せない答えがあることに気づいていた。

でも、それを口に出して認めてしまうことが、どうしようもなく怖かったのだ。

ジヨンは、固まっているヨリをしばらく優しく見つめていた。

そして――ふっと柔らかく微笑んだ。

「……ごめんなさい」

「え?」

「二人の関係もまだよく知らないのに……こんな質問、困るわよね」

「……」

ヨリは何も答えられなかった。

ただ、ジヨンの言葉だけが激しく胸の奥に深く刻み込まれていた。


 二人はしばらく夜道を並んで歩き、やがてヨリが帰る方向との分かれ道に辿り着いた。

ジヨンが足を止める。

「ここまでで大丈夫ね」

「はい」

ヨリも立ち止まり、ジヨンに向き直った。

ジヨンは少し申し訳なさそうに、けれど愛らしく笑った。

「ごめんなさいね……初対面のヨリさんに、色々と話してしまって……」

「いえ……」

ヨリは静かに首を横に振った。

「ジヨンさんにお会いできて……よかったです」

その言葉を聞いて、ジヨンの表情がどこか愛おしそうに柔らかくなる。

「……嬉しいわ」

優しく微笑むジヨン。

ヨリも控えめに微笑み返した。

けれど――ヨリは少しだけ思案するように、ゆっくりと目を伏せた。

「ジヨンさん……一つ、伺ってもいいですか?」

「ええ」

ジヨンの穏やかな微笑みは変わらない。

「何故……さっき私に……」

ヨリは躊躇いながら、慎重に言葉を探す。

「『あなたはどう?』って……お聞きになったんですか?」

ジヨンは一瞬だけ口を閉ざし、静けさの中に身を置いた。

そして――。

「……亮ちゃんの、ヨリさんを見る目がね」

「……」

「ソヨンを見ていた時と……同じに感じたの」

ヨリの胸が、跳ね上がるように大きく打った。

「……私を……?」

「ええ」

ジヨンは静かに、けれど確信を込めて頷く。

「亮ちゃんって、自分の気持ちにはかなり鈍感な人なのよ」

少しだけ困ったように苦笑いを浮かべる。

「でもね……」

ジヨンは、亮のいる小料理屋の方角へと優しく視線を向けた。

「行動には、真っ直ぐ出ちゃうの」

そして、再びヨリへと視線を戻す。

「本人が気づいていなくても……側で見ている人には、分かってしまうのよ」

ヨリは息を呑み、何も言えなかった。

胸の奥底が、じわじわと熱を帯びて広がっていく。

ジヨンはそんなヨリの動揺を見透かすように、少しだけ悪戯っぽく笑った。

「だから……気になってしまって」

「……」

「ヨリさんが……ライバルだと……」

その言葉の途中で――ジヨンは、なぜかふっと言葉を止めた。

「……」

ヨリも息を止めたまま、何も言えない。

二人の間に、密やかな沈黙が流れる。

けれどジヨンは、それ以上は追及するように語ろうとはしなかった。

ただ、いつもの品格ある優しい笑顔に戻る。

「ヨリさん」

「……はい」

「またね!」

「……はい」

ジヨンは軽やかに手を振ると、くるりと背を向けた。

そして――亮の待つ店へ向かって、迷いのない足取りで歩き始める。

ヨリは、ただじっとその後ろ姿を見つめていた。

ジヨンの美しいシルエットが少しずつ遠ざかっていく。

やがて夜の街角を曲がり、その姿が完全に消えた。

「……」

静寂の中、ヨリは一人取り残された。

けれど――胸の猛烈な鼓動だけは、一向に静まる気配を見せない。

(……亮さんの、私を見る目が……ソヨンさんを見ていた時と同じ……)

ジヨンの残した言葉が、何度も、何度も頭の中を激しく駆け巡る。

そして――。

(……ヨリさんが、ライバルだと……)

最後まで紡がれなかった、けれどあまりにも重いその言葉。

ヨリは胸元にそっと手を当てた。

ドクン。

ドクン。

手のひらを突き動かすほど、自分でも驚くような速さで心臓が打ち鳴らされている。

「……私……」

小さく口を開いて呟く。

けれど、どうしてもその先の言葉を紡ぎ出すことができない。

ただ――言葉にできない胸の激しい高鳴りを、抱え込むように抑えることしか出来なかった。

そしてヨリは、自分ではまだ認めることのできない、けれど確実に熱を帯びたその感情を胸に抱えたまま、ゆっくりと夜道へ踏み出した。

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