「任せる」と言っただけなのに、女騎士が王命より俺を優先していた
第三騎士団の野営地へ戻ったエリスは、航一郎を入口から少し離れた木のそばで待たせ、そのまま隊長の天幕へ向かった。血まみれの鎧を見た兵士たちが目を見開いたが、今は自分の状態を説明している場合ではない。
「隊長。エリス・アルヴェイン、帰還しました」
「入れ」
天幕の中では、第三騎士団隊長ディルク・グランツが地図を広げていた。四十代半ばの大柄な男で、左頬には古い剣傷がある。入ってきたエリスを見るなり、ディルクは地図から手を離した。
「その血はどうした。何があった?」
「黒牙狼に襲撃されました。六頭です。私一人で遭遇しました」
ディルクの表情が変わった。エリスの鎧は左肩を中心に大きく裂け、腹部にも爪痕が残っている。乾いた血の量を見れば、普通ならこうして立っていられる状態ではない。
「六頭相手に、一人で生還したのか。治療は誰に受けた?」
「コウイチロウ様です。先ほど、野営地の外までお連れした御方です」
「あの見慣れない服の男か」
エリスは頷き、起きたことを必要な範囲だけ説明した。黒牙狼六頭に囲まれ、死を覚悟したこと。そこへ航一郎が現れ、『邪魔』と口にした直後、黒牙狼だけでなく周囲の森と大地まで消滅したこと。
さらに、航一郎が『これ、どうすんだよ』と呟くと、消えた森は何事もなかったように元へ戻った。そして自分の負傷を見て心配しただけで、裂傷も骨折も失血もすべて消え、十年以上前の古傷までなくなった。
一通り聞き終えたディルクは、しばらく何も言わなかった。血まみれの鎧と無傷のエリスを何度か見比べてから、ようやく低い声を出す。
「つまり、その男は黒牙狼六頭を森ごと消し、その森を元へ戻し、瀕死のお前まで完全に治した。しかも本人は、それを大したことだと思っていない。そういう報告で間違いないんだな?」
「はい。ただ、実際に力を行使しているのは、コウイチロウ様が会話なさっている何者かのようです。我々には、その声が聞こえません」
ディルクは額を押さえた。
「余計に分からなくなったな」
「私にも分かりません。ですが、起きたことは事実です」
ディルクはすぐには信じなかった。頭部への損傷や幻覚、黒牙狼の毒まで可能性を順に確認したが、エリスにはどれも心当たりがない。何より、傷だらけの鎧と無傷の身体という矛盾だけは目の前に残っていた。
「そのコウイチロウという男は、今どこにいる?」
「野営地の外でお待ちいただいております。目的についても確認しましたが、今のところ休める場所を求めておられるだけです」
ディルクは聞き返すように眉を上げた。
「森を消して戻せる男が、寝床を探しているのか」
「かなりお疲れのご様子ですので、まずはお休みいただくべきかと」
エリスには、そこに何の矛盾も感じられなかった。航一郎は見るからに疲れている。ならば今、最も優先すべきなのは安全な場所で休んでもらうことだ。
ディルクは深く息を吐いた。
「分かった。ひとまず本人からも事情を聞こう。正体も目的も分からない以上、周囲には念のため兵を置く」
「それは必要ありません」
エリスの返答は早かった。
「護衛という意味であれば、コウイチロウ様には不要です。黒牙狼六頭を一言で消し去れる御方を、我々が何から守るのでしょうか。もし監視という意味でしたら、それもおやめください」
穏やかな口調だったが、譲る気はなかった。航一郎は敵意を見せていない。ただ休みたいと言っているだけなのに、こちらから武装した兵を張りつかせる必要などない。
ディルクは腕を組み、しばらくエリスを見つめた。
「お前、ずいぶんその男を信用しているな」
エリスは少し考えてから、首を横へ振った。
「信用という言葉では足りません。コウイチロウ様は私の命を救い、何の見返りも求めず、さらにこの世界のことを私に任せると仰ってくださいました。でしたら私は、コウイチロウ様がこの国で不自由なさらぬよう支えるべきだと考えています」
「任せると言われたのか。具体的には?」
「『俺はこっちのことが全然分からないから、その辺はエリスに任せる』と」
ディルクの目がわずかに細くなった。
「……その一言で、そこまで背負うつもりなのか?」
エリスには、むしろ質問の意味が分からなかった。何も知らない土地で自分を頼ってくれたのだから、言われたことだけをこなすのでは足りない。必要なものを先に考え、問題が起きる前に取り除き、航一郎が困ることのないよう整える。それが『任された』ということだと思っている。
「当然です。コウイチロウ様に必要だと言わせてから動くようでは、任された意味がありません」
ディルクは黙った。その視線には、先ほどまでとは違う警戒が混じっていた。
「では確認する。その男が王国にとって危険な存在だと騎士団が判断した場合、お前はどうする?」
「まず、その判断が正しいのかを確認します。コウイチロウ様が理由もなく我々へ害をなす御方とは思えません」
「騎士団ではなく、王命だったとしてもか?」
そこでエリスは初めて言葉を止めた。
ルミナス王国の騎士にとって、王命は絶対だ。昨日までなら考える必要すらなかった問いだった。だが今は、航一郎がいる。
自分を死の淵から救い、見返りも求めず、この世界のことを自分へ任せてくれた御方。その航一郎へ、もし理不尽な刃を向ける命令が出たとしたら。
答えは、思ったより簡単に決まった。
「その王命がコウイチロウ様に害をなすものであれば、正すべきはコウイチロウ様ではなく、我々の側です」
ディルクの顔から表情が消えた。
「お前は、ルミナス王国第三騎士団の騎士だよな?」
「もちろんです。だからこそ申し上げています。コウイチロウ様を敵に回すことが、王国の利益になるとは思えません。そのような命令が出るのであれば、止めることこそ王国を守ることになるはずです」
エリスは本気だった。森と大地を一言で消せるからだけではない。航一郎へ害をなそうとする者がいるなら、自分が止めたい。その感情は、すでに損得の計算より先に出るようになっていた。
ディルクは長く黙り込み、やがて椅子へ深く腰を下ろした。
「……黒牙狼に頭をやられたと言われた方が、まだ安心できたな」
「私は正常です」
エリスが真顔で答えると、ディルクは疲れたように目元を押さえた。
「そこまで迷いなく言えるのが、一番怖いんだ」
エリスには、その意味がよく分からなかった。
しばらく考え込んだあと、ディルクは諦めたように息を吐いた。
「分かった。本人を呼べ。拘束もしないし、監視もつけない。客人として話を聞く。それなら文句はないな?」
「はい。ありがとうございます。それと、コウイチロウ様は大変お疲れですので、確認は必要最小限にしてください。できれば、そのままお休みいただける天幕の用意もお願いします」
ディルクは顔を上げた。
「……まだ注文があるのか」
「お任せいただいた以上、当然です」
エリスは深く頭を下げると、晴れやかな顔で天幕を出ていった。
一人残されたディルクは、しばらく入口を見つめていた。黒牙狼六頭。森を消し、それを元へ戻す力。瀕死の騎士を一瞬で治す不可解な術。どれも到底信じられる話ではない。
だが今、ディルクが最も気にしているのはそこではなかった。
長年知っている部下が、出会ってまだわずかな男のためなら王命すら疑うと言った。それも反抗心からではなく、『それこそが王国のためだ』と心から信じている。
ディルクはもう一度、深く息を吐いた。
「……エリス、お前はいったい何を連れてきたんだ」
天幕の外では、その当人が木にもたれながら、ただ眠そうに待っていた。




