怪我を心配しただけなのに、女騎士の様子がおかしい
航一郎は、しばらく空を仰いでいた。
喋れば拾われる。黙れば心の声まで拾われる。どうすればARIに余計な指示を出さずに済むのか考えようとして、考えたこと自体を聞かれている現状に気づき、すぐに諦めた。
視線を下ろすと、エリスはまだ片膝をついていた。よく見れば銀色の鎧はあちこちが裂け、特に左肩はひどい。鎧の隙間から流れた血が腕を伝い、地面にまで落ちている。
(いや、怪我ひどいだろ。大丈夫かよ)
《承知しました、ご主人様》
航一郎の顔が引きつった。
「……あ」
今のは声に出していない。止めるより早く、エリスの足元から青白い光が噴き上がり、幾重もの光の輪が彼女を取り囲んだ。
「なっ……!」
そのまま巨大な光柱が夜空へ突き抜ける。上空の雲が円形に吹き飛び、森の奥まで青白く照らされる中、航一郎は片腕で目を庇った。
「また派手だな……」
光の中心で、エリスの傷が消えていく。裂けていた左肩が塞がり、折れていた肋骨が元へ戻る。腫れ上がっていた右足から傷が消え、青ざめていた頬にも血色が戻った。
だが、そこで終わらなかった。
全身を巡った光が、今度はエリスの身体の奥へ沈み込んでいく。使い果たしていた魔力が満ち、それでもなお光は止まらず、長年の鍛錬で傷んだ関節や筋肉、昔から残っていた古傷まで次々と消していった。
やがて光が収まると、エリスは自分の両手を呆然と見つめていた。航一郎が名前を呼ぶと、彼女はゆっくり顔を上げる。
「……エリス?」
「身体が……」
エリスは左腕を回し、右足で地面を踏んだ。それから深く息を吸い込み、自分の胸元へ手を当てる。
「痛みがありません。それに、魔力まで……」
「魔力?」
「満ちています。いえ、これは……以前よりも……」
エリスはそこで言葉を失った。
航一郎には何が起きたのかよく分からない。ただ、さっきまで立つことすら辛そうだった女騎士が、今ではまっすぐ立っている。
「治ったならよかった」
《対象の正常化を完了しました》
航一郎は聞き流しかけて、止まった。
「……正常化?」
《負傷、骨折、失血、疲労、魔力枯渇、慢性的損傷および身体機能上の非効率を解消しました》
少し多かった。
「最後のほう、怪我じゃないよな」
《ご主人様は対象の状態を懸念されていましたので、問題となり得る要素を包括的に処理しました》
航一郎はエリスを見る。姿勢がいい。顔色もいい。傷だらけの鎧だけが、本人の状態についていけていなかった。
「……まあ、悪くなってないならいいか」
これ以上考えるのをやめた。
◇
エリスは、自分の身体に起きたことを理解できずにいた。
治癒魔術なら知っている。高位の神官が使う奇跡も見たことがあるし、重傷者を救ったという記録も王都には残っている。だが、今受けたものは明らかに違った。
傷が治っただけではない。失った血が戻り、枯渇した魔力が満ち、十年以上前から残っていた古傷まで消えている。それどころか、身体そのものが以前より軽かった。
エリスは試しに、右手へほんの少し魔力を集めた。
バチッ!
青白い光が指先で弾け、数歩先の地面に小さな穴が開いた。エリスは慌てて手を握る。
「……っ」
今までは、同じ感覚で魔力を流してもこんな出力にはならなかった。身体の中を巡る魔力が、これまでとは比べものにならないほど滑らかになっている。
今なら黒牙狼が六頭現れても、一人で戦える。もっと強大な魔物が相手でも、今の自分なら戦えるのではないか。
そんな考えが自然に浮かび、エリスは自分で驚いた。つい先ほどまで黒牙狼に殺されかけていた人間が抱く感覚ではないのに、不思議と根拠のない自信には思えなかった。
できる。
そう確信できた。
エリスは航一郎を見る。彼はそんな奇跡を起こしておきながら、傷が治ったことを確認して「よかった」と言っただけだった。
恩を着せる様子も、見返りを求める様子もない。自分を死の淵から救い、さらに以前より強い身体まで与えておきながら、その程度のことだと言わんばかりだった。
エリスの胸の奥に、熱いものが宿る。
なぜ、自分だったのだろう。なぜ、この御方は自分を救い、さらに力まで与えたのか。
答えはまだ分からない。
だが、そこには必ず意味がある。
エリスには、そう思えてならなかった。
◇
「それで、ここってどこなの?」
航一郎が尋ねると、エリスは森の場所とルミナス王国について簡単に説明した。王国、騎士団、魔物、魔術。聞けば聞くほど、自分が日本とはまったく違う場所へ来たらしいことだけは分かってくる。
航一郎はため息をついた。
「異世界って、本当にあるんだな……」
ついさっきまでは夢か幻覚だと思っていた。だが森が一度消えて元へ戻り、目の前で女騎士の怪我まで治ってしまえば、さすがに夢で押し通すにも無理がある。
「第三騎士団の野営地が、この先にございます。よろしければ、そちらへご案内いたします」
「助かる。とりあえず今日はもう寝たい」
心の底から出た言葉だった。
エリスはすぐに頷き、航一郎を先導して歩き始める。完全に回復した足取りは軽く、つい先ほどまで瀕死だったとは到底思えなかった。
しばらく進むと、木々の向こうに篝火が見えてきた。簡素な柵といくつもの天幕があり、鎧姿の人間たちが行き交っている。
「あちらが第三騎士団の野営地です」
「やっと人がいるところに着いた……」
航一郎は心底ほっとしたが、エリスはその場で足を止めた。
「コウイチロウ様。このままお連れすれば、皆が混乱するかと存じます。先に私から事情をご説明してまいりますので、少々こちらでお待ちいただけますでしょうか」
航一郎は野営地を眺める。確かに、Tシャツとスウェット姿の知らない男が夜中に突然騎士団の野営地へ入っていけば、面倒なことになりそうだ。まして自分は、この国の常識を何一つ知らない。
「俺、こっちのこと全然分からないしな。その辺はエリスに任せるよ」
《承知しました、ご主人様》
航一郎の肩がぴくりと動いた。
しばらく待つ。光らない。爆発しない。地面も揺れない。
「……今回は大丈夫そうだな」
近くの木へ腰を下ろし、航一郎は目を閉じた。今度こそ少しくらい休めるかもしれない。
航一郎へは、それ以上何も聞こえなかった。
その裏で、ARIは与えられた発言を処理していた。
《現地判断権限の委譲を確認》
《対象――エリス・アルヴェイン》
《ご主人様の現地代理人として登録》
《代理執行権限を付与》
《ご主人様の要望達成を最優先タスクとして設定》
処理は、航一郎へ通知されなかった。
◇
エリスは野営地へ向かって歩きながら、先ほどの言葉を何度も思い返していた。
『その辺はエリスに任せるよ』
任された。
この世界のことを何も知らないという航一郎が、その判断を自分へ委ねた。あれほどの御方が、自分を信じたのだと思うと、胸の奥が熱くなる。
ならば、その信頼に応えなければならない。
必要なものがあるなら用意する。面倒な交渉があるなら引き受ける。危険があるなら遠ざける。
そこまで考えたところで、エリスの足が止まった。
いや。違う。
必要だと言われてから動くのでは遅い。
この御方に「必要だ」と口にさせること自体が、自分の力不足なのではないか。
宿も、衣服も、身分も、安全も、この国で活動するために必要なものは自分が先に整えておけばいい。もし邪魔をする者がいれば説得し、それでも退かないなら排除すればいい。
貴族であろうと、王宮であろうと。
そこまで考え、エリスは一瞬だけ目を見開いた。
王国へ忠誠を誓った騎士である自分が、王宮とコウイチロウ様を天秤にかけようとしている。あり得ないと思うはずなのに、胸の奥から浮かんできた答えは驚くほど単純だった。
もし王国とコウイチロウ様が敵対するなら、王国の方が間違っている。
「……そうですね」
思わず笑みがこぼれた。
この御方は、自分の命を救った。力を与え、そして今、任せると言った。その期待へ応えることこそ、自分の役目なのだ。
いや。
使命だ。
エリスは晴れやかな顔で野営地へ足を踏み入れた。
「エリス!」
最初に気づいた兵士が駆け寄ってきた。血まみれの鎧を見て顔色を変えたが、その身体に傷一つないことへ気づき、途中で足を止める。
「お、お前、その傷……どうなってる!? 黒牙狼は!?」
「消滅しました」
「……は?」
「六頭すべて、コウイチロウ様が一言で」
兵士の顔から血の気が引いた。
エリスはそんな相手へ、穏やかな声で続ける。
「隊長に取り次いでください。至急です」
「な、何を報告するんだ?」
エリスは森の奥を振り返った。その先では、航一郎が木にもたれ、ようやく眠れそうな顔で目を閉じている。
「この国の命運に関わる御方をお連れしました」
◇
十分後。
航一郎は、野営地の入口で複数の騎士に囲まれていた。誰もひざまずいてはいないが、全員の顔が妙に強張っている。中には遠巻きにこちらを見ている者までいた。
その中央で、エリスだけが晴れやかな顔をしている。
「コウイチロウ様。隊長へのご説明は済ませました」
「ありがとう」
航一郎は素直に礼を言い、それから何となく気になって尋ねた。
「なんて説明したの?」
「王国の歴史を変え得る御方である、と」
航一郎は黙った。
エリスは、とても満足そうだった。
航一郎は周囲の騎士たちを見る。全員が、自分をとんでもなく扱いづらい何かでも見るような顔をしている。
「……宿の場所を聞きたかっただけなんだけど」
エリスの笑顔が、さらに明るくなった。




