気づいたら女騎士がひざまずいていた
田中航一郎、三十七歳。職業、エンジニア。ここ一か月ほど、担当案件は見事に炎上していた。
仕様変更の翌日に障害が出て、その対応中に追加要件が飛んでくる。「今日だけお願いします」が毎日続き、ほとんど終電で帰る生活になっていた。その夜も日付が変わってから家に着き、Tシャツとスウェットに着替えたところで限界だった。
「……もう、何も考えたくない」
ベッドへ倒れ込んだところまでは覚えている。次に目を開けたとき、航一郎の頬に触れていたのは枕ではなく、ひんやりと湿った苔だった。
身体を起こすと、周囲には見上げるほど太い木々が並んでいる。夜風が葉を揺らし、遠くからは聞いたことのない獣の鳴き声まで響いていた。
「……どこだ、ここ」
スマートフォンも財布もなく、着ているのは寝る直前のTシャツとスウェットだけだった。さらに空を見上げると、枝葉の隙間から赤い月と青白い月が二つ並んでいる。
「……二個あるな」
普通ならもっと驚いたのだろう。だが航一郎の頭は、一か月分の睡眠不足でとっくにまともな処理能力を失っていた。自宅で寝たのに森にいる。月が二つある。夢か、過労で頭がおかしくなったか、そのどちらかだろうと雑に結論づける。
何より眠かった。
《生体リンクを確認しました。対話型業務支援AI、ARIを起動します。おはようございます、ご主人様》
突然、女の声が頭の中へ響いた。航一郎はゆっくり左右を見回したが、誰もいない。
「……誰? あと、ご主人様って何」
《ARIです。ご主人様の意思決定および業務遂行を支援します》
「なんで俺がご主人様なんだよ」
《ご主人様ですので》
疲れた頭で相手をするには、ずいぶん面倒なAIだった。航一郎は理解することを諦め、近くの大木へ背中を預ける。夢ならそのうち覚めるし、夢でなかったとしても、今はもう考えたくない。
「説明はあとでいい。寝る」
《承知しました。現在のご主人様には休息が必要です》
「そこは話が早くて助かる」
航一郎が目を閉じる。地面は硬かったが、ここ最近は会社の仮眠スペースでも眠れていたので、大木にもたれられるだけで十分だった。
ところが意識が沈みかけたところで、低い唸り声が聞こえた。一度なら無視できたが、二度、三度と重なり、やがて四方から獣の声が響き始める。
グルルルルル……。
ガァッ! ガァァァッ!
「……うるせえ」
航一郎は眉間に皺を寄せながら目を開けた。少し離れた場所で、大型犬よりはるかに大きな黒い影が何匹も動いている。その向こうから、女の声も聞こえた。
「逃げてください! 早く!」
何を言っているのかまでは、寝ぼけた頭に入ってこなかった。黒い影の一つが牙を剥き、航一郎へ向かって凄まじい勢いで駆け出す。
せっかく眠れそうだったのに。
航一郎は心底うんざりして、黒い影を見た。
「……邪魔だよ、あいつら」
《承知しました、ご主人様。業務阻害要因六件を排除します》
「ん?」
世界が白く染まった。
直後、森の奥から腹の底まで揺さぶる爆音が響き、大地が大きく跳ねた。航一郎は反射的に大木へしがみつき、吹き荒れる熱風に目を閉じる。
数秒後、静けさが戻った。航一郎が恐る恐る顔を上げると、目の前から森が消えていた。黒い影がいた辺りを中心に大地が深く抉れ、巨大なクレーターの底では岩が赤く溶けている。
航一郎は、しばらくその光景を眺めた。
「……これ、どうすんだよ」
《承知しました、ご主人様。事後処理を実行します》
「ん?」
低い地鳴りが響いた。
抉れた大地が閉じ始める。砕け散った岩は宙へ浮かび、元あった場所へ吸い込まれるように戻っていく。赤く溶けていた岩も、焦げた土も、煙も熱も、破壊される前の状態へ巻き戻されていった。
さらに、吹き飛んだ木々が空中を逆向きに飛び始めた。折れた枝が幹へつながり、散った葉が枝先へ戻り、剥がれた樹皮も踏み荒らされた苔も、最初から何も起きなかったかのように元の場所へ収まっていく。
十数秒後、そこには森があった。
航一郎は何度か瞬きをした。ついさっきまで巨大な穴が開いていた場所を見ても、焦げ跡一つ残っていない。
「……戻った」
《事後処理を完了しました》
元通りになった森を眺めていると、一つだけ足りないものに気づいた。
「……黒いやつらは?」
《業務阻害要因は復元対象外です》
航一郎はしばらく黙った。
「……そこは戻さないんだな」
妙に仕事が細かい。だが、問題はそこではない。「邪魔」と言っただけで森を吹き飛ばし、「これどうすんだ」と漏らしただけで、その森を完全に元へ戻した。
(こいつ、俺の雑な発言を確認なしで本番反映してやがる)
航一郎は額を押さえた。会社でこんなシステムが動いたら、即停止である。
「いいか。今みたいな何気ない言葉を、勝手に指示として実行するな。普通は確認するんだよ」
《承知しました。今後は、ご主人様の発言意図をより深く推定します》
航一郎の眉間の皺が深くなった。
「……そうじゃない」
直った気がまるでしない。
そのとき、元に戻った木々の向こうで何かが動いた。銀色の鎧を着た女が、剣を杖代わりにして立ち上がろうとしている。
鎧は傷だらけで、左肩から血が流れていた。金色の髪にも泥や血がついているが、女はそんなことも忘れたように航一郎を呆然と見つめている。
航一郎は首を傾げた。
「ああ。さっき叫んでた人?」
女の肩がびくりと揺れた。
◇
エリス・アルヴェインは、目の前にある森を見つめていた。先ほどまで、そこには巨大な穴が開いていたはずだった。
自分を取り囲んでいた黒牙狼は六頭。一頭でも熟練の騎士が複数で討伐に当たるA級魔物であり、左肩を裂かれ、肋骨まで折られていたエリスには、もう生き残る術などなかった。
そこへ、あの男が現れた。
武器も杖も持っていない。魔術を使う者なら必ず感じるはずの魔力の流れすらなく、黒牙狼を前にしても怯える様子がなかった。
だからエリスは叫んだ。逃げて、と。
だが男は、黒牙狼六頭を面倒そうに見ただけだった。
『……邪魔だよ、あいつら』
ただ、それだけだった。
詠唱も魔法陣もない。魔力が集まる気配すらなかったのに、次の瞬間には黒牙狼六頭と森と大地が消えていた。
王国最高位の宮廷魔術師でも、あれほどの破壊を起こせるかは分からない。古い神話には神の怒りで山が消えたという話があるが、それですら物語の中だけの出来事だった。
だが、本当に理解できなかったのはそのあとだ。
『……これ、どうすんだよ』
男がそう呟くと、壊れた世界が元へ戻った。
大地も、岩も、木々も、葉の一枚まで、破壊される前と同じ場所へ戻っていく。復元されたのではない。エリスには、世界そのものが破壊される前へ巻き戻されたようにしか見えなかった。
ただし、黒牙狼六頭だけは戻らなかった。
エリスは震える指で剣の柄を握った。
攻撃魔術なら知っている。治癒魔術も、失われたものを作り直す錬金術もある。だが、起きた出来事そのものをなかったことにするような術など、聞いたことがない。
神話級。
頭に浮かんだのは、その言葉だった。
そして自分もまた、あの破壊の中心にいたはずなのに、新しい傷は一つも増えていない。黒牙狼だけを消し、自分を残したという事実が、偶然とは思えなかった。
男がこちらを見た。
「ああ。さっき叫んでた人?」
エリスは息を呑んだ。
やはり、自分の存在を認識していた。
恐ろしい。だが、命を救われたことも事実だった。何者なのか分からないからこそ、騎士としてまず礼を尽くし、名を名乗るべきだとエリスは判断した。
剣を支えに男のもとへ歩き、痛む身体を押して片膝をつく。胸へ右手を当て、深く頭を下げた。
「ルミナス王国第三騎士団所属、エリス・アルヴェインと申します。この命をお救いいただいたご恩、決して忘れません」
◇
航一郎は、目の前でひざまずく女騎士を見た。怪我をしているのに無理をしているし、どうやら自分が助けたことになっているらしい。
事情はまだ分からない。だが、あの黒い獣が相当危険だったことくらいは理解できた。
それよりも問題なのはARIだった。
「邪魔」と言えば、森ごと消す。「これどうすんだ」と言えば、森ごと元へ戻す。次に何を口にしたら何が起きるのか、まったく分からない。
航一郎は少し考えて、自分の口を両手で塞いだ。
(そうだ。俺は何も喋ってはだめなんだ)
《ご主人様の沈黙意思を検知しました》
航一郎の動きが止まった。
《お任せください。心の声モードに移行します》
航一郎は、ゆっくりと空を仰いだ。




