42◆Bradley
どうしようもなく胸騒ぎがした。
ここでルーシャを待てと言うけれど、何がどうなっているのだろう。
ブラッドが落ち着かないながらに王宮の門前にいると、護衛の騎士たちがざわめいていた。振り返ると、階段の下に真っ黒なローブを着た影がいた。
「……ジャックか?」
ブラッドも階段を降り、顔をしかめながら呼びかける。
すると、ジャックはフードを脱いだ。フードの下から出てきた予想外に整った顔に、また周囲が騒ぐ。
ジャックはひどく怒って見えた。
「ルーシャさんは?」
「中にいる」
短く答えた。ここで騒がれると、知り合いだろうと牢にぶち込まなくてはならなくなる。それに、ブラッドの心情的にも今はジャックに構っているゆとりがない。
それでも、ジャックはうるさかった。
「しばらく考えたが、やっぱりおかしい」
「……何が?」
「ルーシャさんは〈特別〉だと言っただろう? その人が――」
この時、慌ただしい足音が聞こえてブラッドとジャックはハッとした。軍靴とは違う、ヒールの甲高い音だ。
息を切らしたルーシャが、ドレスの裾を持ち上げながら走り、そして立ち止まった。
走ってきたせいで髪が乱れ、花飾りが取れそうになっていても、ルーシャは少しも気にしていなかった。
「ルーシャさん!」
ジャックが呼びかけて駆け寄ろうとしたけれど、ブラッドはジャックの薄い肩を引き戻して転がし、自分が駆け出した。
けれど、ブラッドが目の前に現れても、ルーシャは少しも嬉しそうではなかった。一層傷ついた顔をした。
「ルーシャ……」
名を呼ぶと、ルーシャは耳を塞いでかぶりを振った。
「どうしたんだ?」
ただならぬ様子にブラッドが手を伸ばすと、ルーシャはブラッドの手を音を立てて叩いた。
今のルーシャはまるで手負いの獣のようだ。自分の目に映るすべてが敵で、己を害するのだと言わんばかりに。
リスター公爵がルーシャを否定したのだろうか。この娘が血縁のわけがないとでも。
もしそうだとしても、ルーシャの価値は何も変わらない。
それを伝えたくて、さらに一歩前に足を踏み出したけれど、途端にルーシャが叫んだ。
「来ないで!」
まるで他人――それ以上の警戒心でルーシャはブラッドを拒絶する。
ルーシャはただ、とても傷ついた顔をしてポロポロと涙を零した。こんなルーシャは初めてだった。
「……き」
「えっ?」
拾えなかった言葉を問い返すと、ルーシャは泣きながらもキッとブラッドを睨みつけた。
「嘘つき」
心臓を抉られるひと言だった。
嘘はあった。
けれど、それはルーシャを傷つけるためではなくて、護るための嘘だった。
それをわかってほしいというのは勝手なことなのだろうか。
何も言えなくなったブラッドに、ルーシャはさらに声を張り上げた。
「もう誰も信じない! 皆大っ嫌い!!」
ルーシャの悲痛な声が刃のように心臓を貫く。
そこから血が溢れ出ればいいのにと思った。そうしたら、ルーシャがわかってくれるのなら。
「ルーシャ、話を――」
話をさせてほしい。話を聞いてほしい。
少しの嘘があったとしても、ブラッドがルーシャに惹かれた気持ちは本当だった。
ルーシャにしてみれば、ブラッドはロトの手先でしかないのかもしれないけれど、それでもルーシャのことを想っている。ブラッドのことが好きだと言ってくれた気持ちが残っているのなら、信じてほしい。
ここで邪魔をしたのはジャックだった。
けれど、それはブラッドを救うためのものだった。
「下がれ!」
ジャックはブラッドの制服のサッシュベルトを力いっぱい引き、二人して階段を十段ほど落ちた。
ただ、そうしなかった場合、ブラッドはこの世にいなかったかもしれない。
膝からくずおれたルーシャは両手で顔を覆い、動かない。けれど、大気が歪んで見えたほど、何かがおかしかった。
ルーシャを取り巻く何かが、世界を敵と見なしたような――。
「な、なんだ? 何が起こって――」
愕然とするばかりのブラッドに、立ち上がったジャックが自分の手のひらを見つめながらつぶやく。
「……やっぱり、駄目か。一切の魔術は使えない」
「どういうことだ?」
ドクン、ドクン、と鼓動だけがうるさい。周囲の騒がしさが他人事のように聞こえる。
ジャックは深々と嘆息し、拳を握りしめながら言った。
「すべての精霊がルーシャさんの味方だからだ」
「意味が、わからない」
正直に言うと、ジャックはブラッドを殴り倒しそうな顔をした。
「ウェズリーさんが言っていたんだ。孫は〈特別〉な子なんだって」
この間に、奥からロトとレーンが駆けつけてきた。よく見ると、王太子もそこにいる。
そして、リスター公爵が。リスター公爵の傍らにはナタリーがいた。
その姿を見た時、ブラッドの中で齟齬が埋まった気がした。
ただ、ロトとレーン、自分の身内が嘘をつき、ルーシャを囮にしたという事実を信じたくはない。けれど、そうでなければルーシャがこれほど悲しみ、絶望してブラッドを拒絶するのかが説明できない。
「一体、何が――」
息を吞んだロトにも聞こえるように、ジャックはいつものようなボソボソとした喋り方ではなく、声を張って告げる。
多分、ジャックは怒っていたのだ。
「ルーシャさんは〈女神の目〉として選ばれた人だから、ルーシャさんが絶望した時に世界がどうなるのかは知らない。精霊はいつだって女神の味方だ」
その後、ジャックは隣にいるブラッドだけが聞き取れる声で言った。
「ルーシャさんを巻き込んで、傷つけて、世界と引き換えに護らなきゃいけないものがなんだったかは知らないけど、人間の愚かしさを見せつける結果になったんだから皮肉なものだ」
パァン、と甲高い音がして、ルーシャのいる階段付近の手すりが割れた。その光景を皆が愕然と見守るしかない。
貴族でもなく精霊の姿が見えないブラッドですら、ルーシャを取り巻く大気が尋常でないことを肌で感じた。
「……精霊が応えてくれない。こんなことは初めてだ」
王太子が苦々しくつぶやいた。王族ですら精霊に見放されたというのか。
「ウェズリーさんはルーシャさんが三歳の時、ルーシャさんの口を通して女神の声を聞いたそうだ。この子を通して、今一度人というものを見つめ直すと。世界を作り直す必要があれば、そうすると。ウェズリーさんは信じた。このことは自分の胸だけにしまって墓まで持っていくつもりだったそうだが、体が弱ってきた時、不安になって僕にルーシャさんを頼むと言ったんだ」
何もない時にこんな荒唐無稽な話を聞いてもまず信じなかった。
けれど今、目の前でルーシャに起きている異変を説明するのに他の理由がつけられなかった。
「あーあ、悪いことはするもんじゃないわね。こんなに早く報いを受けるなんて」
レーンが自嘲気味に言いながら前に出る。
「あたしのことを恨んでるでしょうから、あたしに仕返しするだけで勘弁してくれないかしら」
ルーシャを利用したのはレーンだ。
レーンがうってつけの娘がいるからとロトに言ったのでなければ、ルーシャが巻き込まれることはなかった。レーンのせいだということを否定してやるつもりはない。
また、パァン、と音がして階段がクレバスのように裂けた。崩れた瓦礫が宙に浮かんでいる。
この時、騎士たちが動いた。騒ぎを聞きつけて続々とやってくる。指示を出しているのは、ロトよりも高位の騎士隊長だ。
まさかと思った。けれど、数人の騎士が弓を手にしたのだ。
皆、どこまでも勝手だ。ルーシャを利用し、傷つけ、害があるとなれば殺すのか。
「あんなもの、効かない。火に油を注ぐだけだ」
ジャックが吐き捨てた。
そうだろう。女神に〈目〉として選ばれ、精霊が味方するルーシャにただの矢なんて効かない。
けれど、ルーシャは人間だ。
ごく普通の傷つきやすい心を持っている。
そんなルーシャが矢を射かけられて、さらに傷つかないわけがない。
世界とか、女神とか、そんなものは知らない。ブラッドはただ、ルーシャがあれ以上の絶望を感じるのだけは嫌だった。
身代わりにされていたなんて、知らなかった。
知っていたら、いくらロトたちが相手でも許さなかった。
ブラッドはルーシャの味方でいたい。
その思いだけがブラッドの強張った体を衝き動かしていた。




