43◇Lucia
――可哀想に。
誰かがルーシャの頭の中でそう言った。
その途端、ルーシャの意識は奥底に閉じ込められたような気がした。
それはルーシャがこの惨い現実から逃げたいと願ったからかもしれない。
真っ白な世界にルーシャはふわりと浮いていた。
そこには何もない。ただ、目の前には小さな光が灯っているだけだった。
「可哀想なの? 私は……」
誰とも知れない声に問いかけた。
信じていた人たちに裏切られ、絶望を味わったのだ。心が壊れてしまうほどに悲しい。
けれど、自分で可哀想だと思いたくはなかった。
あたたかい光がルーシャを優しく照らしてくれている。
――人は裏切る。
今の今までそれを知らなかった。知らずに生きてきた。
ルーシャが馬鹿だったのだろうか。
こんなにも誰かを好きだと、必要だと思ったことはなかったのに。
「あなたは誰ですか?」
その問いかけに光は答えた。
――我は汝らが女神と呼ぶ存在。
「女神様、ですか?」
受け入れがたいことだけれど、今のルーシャには信じられないことなど何もなかった。平凡な日常が跡形もなく崩れて消えたのだから。
光は言った。
――汝を通し、人が愚かではないかを改めて知ることにしたが、この始末だ。
どこにでもいる娘でしかなかったルーシャだ。何故女神がルーシャを選んだのかは知らない。
もしかすると、ただの平凡な娘だったからかもしれない。豊かなものは何も持ち合わせず、ただ生きるだけの存在だったから。
ルーシャを通して、女神は人の可能性を否定することにしたらしい。
――恨めばいい。嫌えばいい。人は害悪だ。
激しい言葉だった。
ルーシャは創世神話を思い出す。
人として生まれ変わった女神は、ただの人として幸せとままならぬ悲しみとを抱えながら空に還った、と。
幸せと悲しみと、その相反するふたつのどちらを強く感じていたのかを今になって考えた。
そして、今のルーシャも女神と同じだ。
人に絶望し、諦めた。
どうだっていい。もう、世界がどうなろうと。
――人の世は終わる。だが、案ずるな。汝の魂は精霊たちが護る。
あたたかい。そう感じたと思ったら、ルーシャの周りには無数の光が集まっていた。
このひとつひとつが精霊なのだろうか。星の数ほどに感じられる。
人に見放された後だから余計に、寄り添ってくれる明かりが嬉しい。
体を離れたルーシャの意識は、このまま体には戻らないのだろうか。
そうであってほしい。もう何も感じたくない。
白い景色の中、不意に煙が払われたように矢を番える兵士たちが見えた。矢尻がルーシャに向けられている。
――創世神たる我に弓引く、身勝手で愚かな者どもよ。
光がカッと稲光のように激しく輝いた。まるで台風が到来したほどの激しい風が吹き荒れる。
それでも、兵士たちはどうにかして矢をルーシャに命中させようとしているようだった。数を打てばいくつかは当たると。
ルーシャはその矢から逃れたいとは思わなかった。
そんな気力も持てなかった。
兵士たちの矢が、ルーシャに向けて放たれる。
――矢など効かぬ。
女神の激昂がルーシャにも伝わった。世界はもう、滅ぶのだ。
罪もない人々も、罪深い人と一緒に。
人の咎は人のもの。女神の裁きは等しく訪れる。
まるですべてが他人事のようだった。
それが現実に引き戻されることになったのは――。
「ルーシャ!!」
哀切な声がした。
彼に名前を呼ばれると嬉しかった。そばにいてほしいと願っていた。
けれど、ルーシャが知っているあの顔は偽りだったのだ。それなのに、まだブラッドの声に反応してしまう。
一部始終を、ルーシャは俯瞰して見ていた。多分これは、女神が見せてくれている光景だ。
ブラッドが自我を失ったルーシャに駆け寄り、手を伸ばした瞬間を、ただ見ていた。
本当にすべてが偽りだったのなら、どうしてそんな泣き出しそうな顔をしているのだろう。
何がそんなに悲しいのだろう。ミリアムのところへ帰ればいいのに。
ドッ、ドッ、とルーシャに向かって放たれた矢が、盾となったブラッドの背に突き刺さる。内臓が傷ついたのか、ブラッドはむせるようにして血を吐いた。それなのに、まだルーシャに手を伸ばし、ルーシャに覆いかぶさろうとした。
ブラッドは一度、満足そうに目を細め、それから閉じた。
力を失い、階段を転がり落ちたブラッドを、ルーシャはそれでもただ眺めていることしかできなかった。
「ブラッド!!」
ロトの声が響いた。渦中の脅威に向かって突き進んでくる。
ルーシャの中の女神は、彼を攻撃しなかった。女神もまた、この成り行きを見ている。
追いついたロトの逞しい腕がブラッドを抱き起したが、ロトの顔は悲痛に歪んだ。ブラッドの制服の襟を開き、胸元を確かめると、目を見開いて震えているのがわかった。
その時、ルーシャにも何が起こったのかがわかった。
彼は、死んだのだ。
「こんなことが……」
ロトが声を詰まらせた。
「ブラッドは彼女を騙していなかったのに……」
「一番悪いあたしが償うべきでしょう? ねえ、あたしはどうしたらいいの?」
レーンが一歩ずつ近づいてくる。頬が涙に濡れていた。
ルーシャは、ロトの言葉の意味を考えた。
ブラッドはルーシャが囮にされていることを知らなかったというのか。
それならば、何故護ってくれようとしたのだろう。
あんなに大事にしてくれたのだろう。
ルーシャはブラッドを信じなかった。嘘つきだと言った。
だから、ブラッドは、そうではないと命がけで証明しようとしたのか。
もし、ブラッドが本当にルーシャを大切に想ってくれていたのだとしたら。
契約が終わったらルーシャの気持ちに返事をすると言った時、ブラッドはどんな気持ちでルーシャのそばにいたのだろう。
もう、それを知ることはできない。
ルーシャの意識は再び女神のもとへ飛んだ。
「私がブラッドを信じなかったから! 誰もが敵で、私の味方なんていないって嘆いたから、ブラッドが――っ」
ブラッドは、命を懸けて返事をしてくれた。
返事をするという約束を、こんな形で果たしたのだ。
どうやって詫びたらいいのだろう。
あの優しかった人に。
傷ついて、それでも信じ続けることができないほどにルーシャも弱かった。
――嘆いているのか。
女神の声がする。
「大事な人が、本当に私を想っていてくれたことに気づけませんでした。私は、傷つきながら傷つけてもいたんです」
そのことにもう少し早く気がつくべきだった。
もう、何もかもが遅い。
――悔いているのか。
「はい。人は弱くて愚かで、利己的で、不完全な生き物です。私も間違えて、喪ってからしか気づけませんでした。信じればよかったと、後悔ばかりです」
悔いたところで何も変わらない。
それでも、もしもう一度生きたブラッドに会えるのなら、二度と意地など張らない。素直な気持ちで好きだと伝えたい。
「不完全だからこその可能性があったはずなんです。幸せも悲しみも、大事な人によってもたらされるのなら、悲しみの先を知ればよかった……」
怯えて、目を瞑った途端、ルーシャは絶望の闇の中へ自ら足を踏み入れたのだ。そこにブラッドが光を当ててくれていることに気づかないまま。
――悲しみの先には何が待つ?
「わかりませんが、それが幸せだった気がします。私は判断を下すのが早すぎたのです」
女神からの返答はなかった。
女神が何を思うのか、ルーシャにはわからない。
しかし、女神の声は穏やかだった。
――ならば、その先を知れ。
「えっ?」
――我は汝を離れ、この者を〈目〉とする。その悲しみの先とやらを見せてもらおう。
それを最後に、ルーシャの意識は白い光に呑まれた。




