第216話 ジャックの影 二
落ちているのか、沈んでいるのか、浮いているのか、曖昧な世界。
様々な感覚が同居し、互いに打ち消し合い、判別不能なまま渦巻いている。
自己の外の境界は明確ながら、上下の概念が溶け、時間が意味を失っていく、無為の空間。
上下が存在しないのだから見上げる、という表現が正しいのかは分からないが、視線を上に向ければ、外の世界が見える。
色彩を丸ごと失ったかのような白黒の景色、そこには不安や心配の表情を浮かべる義賊達の姿があった。
ジャックと言う人間がどれだけ慕われているのか、信頼されているのかがよく分かる。
そんな彼ら彼女らの足元には、木の根が張るように伸びる影があった。
影の中に在って影としか言い表しようのないおぞましい漆黒、人によって深さの異なるそれの正体をヴィルは本能的に理解した。
あれは闇だ、その人の心が抱える影、或いは業そのもの。
彼はこんな景色を見ていたのか。
「……勝手に理解したような顔してんじゃねぇよ、ヴィル・マクラーレン。この、悪魔め」
ほの暗い光を瞳に宿した影の世界の住人、ジャック・エリエクタスがヴィルをそう糾弾した。
―――――
俺はごく平凡な農村で生まれ育った、ごく平凡な男だった。
村人の殆どは農業を生業に持ち回りで自警団を務めており、一家族だけでは生きられない、村全体が協力してやっとといった有様だったが、それでもみんな幸せだった。
子供だった俺と、エレナと、ネスターとノーラの兄妹とで毎日遊んで、たまに仕事を手伝ったりしたら褒められて、ご褒美にと貰った果物は酸っぱくて、それでも満ち足りていたのだ。
――けれどそんな平穏な日常は十歳の夜、理不尽にも踏み躙られた。
魔獣の進行によって、村は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄へと姿を変えた。
悲鳴、断末魔、遠吠え、破壊音、耳を塞いでも聞こえてくる死神の足音は、今でも夢に見る。
納屋で身を寄せ合って息を殺し、ただただ耐え忍ぶ。
エレナが震える手で俺の裾を掴み、ノーラは必死に嗚咽を堪えながら母親に抱き着き、ネスターは歯を食い縛って妹を抱きしめていた。
戦える者達は全員魔獣の対処に当たり、子供と親は幾つかの場所に別れて身を隠す。
その役割は俺達の父親も例外では無く、大丈夫、大丈夫と繰り返す母の声はきっと、自分に対するものでもあったのだろうと今なら分かる。
一体どれだけの時間そうしていたのか、身体の痛みもとうに忘れた頃になって、俺達はようやく納屋から出る事が出来た。
先に出た親達によって安全は確保されていたが、外の景色を見る事を親達は許さなかった、それだけ凄惨な光景が広がっていたという事だろう。
見えない分鋭敏になった鼻に不快な臭いを刻みながら、俺達は村を後にした。
他の村人と合流する事は、終ぞ無かった。
―――――
魔獣が村を襲った理由は単純で領主の怠惰、それに尽きる。
そもそも、村一つを滅ぼすような規模の魔獣の群れなど、定期的に討伐隊を派遣していればそうそう発生するものではない。
領民の安全を守り、危険の芽を摘むべき立場にある者がそれを怠った結果、それがあの惨状だった。
俺の母はこれに憤り、謝罪と賠償を求める為に抗議に行くべきだと強く主張した。
エレナの母親と、ネスターノーラ兄妹の母親は、反対こそしなかったものの消極的だった。
夫を失い、隣人を失い、家を失い、村を失った、あまりに疲弊し過ぎていたのだ。
それでも母の言う事は正しかった、村を復興するにしても別の土地に移り住むにしても、貴族の力を借りなければどうにもならない。
日頃から村人に頼りにされていた母は二人を粘り強く説得し、俺達は一帯を治める領主が住むウィンスタント邸へを目指す事となった。
何日もかけて歩き、途中で親切な馬車に拾ってもらいながら辿り着いた街。
その門をくぐった瞬間、母がその場に座り込んでしまったとして、誰が責められただろうか。
それでも母は止まらなかった、みんなの為にもここで立ち止まる事は出来ないのだと、震える足で立ち上がった。
今にして思えば、俺はここで母を止めるべきだったのだ、そうすれば何かが変わったかもしれない、悲劇を防ぐ事が出来たかもしれない。
いや……それはもしもああだったなら、あの時こうしていればと悔やむだけの益体の無い後悔でしかない。
一つ確かな事は、母はウィンスタント子爵という人物を測り切れなかったという事だ。
今でこそあの男の醜悪な裏側を知っているが、あれで世間的な評判だけは良い男だった、見誤るのも無理は無い。
――疲労で寝てしまった子供達を宿に残し、直談判に行った俺達の親は、誰一人として戻らなかった。
一体、何日母の帰りを待っただろうか。
宿代を払えなくなって追い出され、ウィンスタント邸に入ろうして門兵に殴られ、路地裏のゴミを漁って日々を凌いだ。
そんな日々も、先に路地に陣取っていた大人達に追いやられた下水道で終わりを迎えた。
そこで、俺達は見つけてしまったのだ、変わり果てた母達の姿を。
遺体は酷い有様だった、致命傷と思われる大きな斬り傷以外にも打撲痕や鼠に齧られたような跡があって、茫然自失状態でなければ直視出来ない光景。
喉の奥が引き攣り、声にならない嗚咽が漏れる。
膝が震え、立っている事すらままならない。
誰がやったのか、そんな簡単な事は子供の俺でもすぐに分かった。
エレナ達の慟哭を聞きながら、はっきりと思った――この世界は、あまりに汚れ過ぎていると。
―――――
それから俺達は別の領地に移り、協会付きの孤児院に拾われ、幼少期を過ごした。
最初は心を閉ざしていたエレナとノーラも、シスターや神父や孤児院出身の冒険者、似た境遇の孤児達と暮らす内に心の氷を溶かして普通を取り戻していった。
復讐を誓っていたネスターも、村に居た頃と同じような笑顔を浮かべるようになった妹を見て、毒気が抜かれたように優先順位を入れ替えた。
それでも俺だけは、忘れる事なんて出来なかった。
――あの日からだ、俺が影の世界に潜れるようになったのは。
元々闇属性魔術に適性があるのは知っていたが、『潜翠』と名付けたこの魔術は闇属性どころか魔術の枠組みからも逸脱していた。
この世ならざる次元を移動する、常識外れの効果と少ない魔力消費量、まさに規格外の魔術だ。
だが、そんな力を手に入れても俺は世界への絶望を深くするだけだった。
影越しに見える人の足元から伸びる黒々とした木のようなモノ、『影の木』。
裏からしか見えない影の木は、普段見えている景色より余程醜いものだったのだ。
最初はそれがどういった意味を持つのか分からなかったが、何十何百という人を見比べる事で理解した。
あれはその人間の抱える闇であり、暗く差した影であり、積み重ねられた嘘であり、過去に犯した罪であり、拭いようの無い業だった。
清廉に見えたシスターは捨てて逃げてきた過去と孤児を重ねる偽善者で、老いた神父は孤児院の運営費を横領し息子夫婦に流してた罪人で、冒険者は作り上げた冒険談で子供を騙す嘘吐きで。
どれも影の中から盗聴するしか知り得る手段がない情報で、エレナ達は真実を知らない。
ただ一人俺だけが思い知る、醜悪を煮詰めた影の木、そのおぞましい漆黒は、人間という名の闇そのものだ。
失望した、絶望した、人間というものを見限りたくなったし、見捨てたくなったし、俺もまたその人間なのだという事実は耐え難かった。
それでも、エレナが、ネスターが、ノーラが居た、虐げられる弱者が居た。
罪の無い人々が悪意ある人間の闇に押し潰される、そんな世界を少しでもマシなものにしたかった。
あの悲劇を味わったエレナ達も同じ気持ちだった、だから義賊として活動を始めた。
最初は四人で、助けた中から賛同する者が現れてからは徐々に数を増やし、気付けば数十人規模の大所帯になってしまっていた。
出来る事は増えたが、騎士団や悪徳貴族の警戒が高まるにつれて限界も近付いていた。
浅い闇は取り除けるが、深く潜った闇を取り除くには情報があまりにも不足していた。
王立アルケミア学園の入学試験応募を決めたのは、貴族の情報を得る為だった。
仲間達は自分の人生の為にもどこでもいいから学園に行けとしつこかったし、情報収集という実益もあっての選択だった。
Sクラスに配置されたのは誤算だったがちょっとした誤差、学園生活の中で悪徳貴族の子女から情報を集めつつ義賊として活動する、そんな生活にも慣れた頃――俺は悪魔に出会った。
―――――
突如帝国の生徒達を襲った吸血鬼達は、ドラウゼンを混乱の渦に沈めた。
中でも街の中央にある闘技場では苛烈な戦闘が勃発しており、立ち昇る爆煙や土煙がその激しさを物語っている。
だがそれも、長くは続かなかった。
「オラオラどうしたァ、レオノーラ!テメェの力はそんなもんかよぉ!!」
『貴様こそ仕留め損なっているぞ。敵は骨まで焼き尽くせ!』
「……これじゃどっちが賊か分かったものじゃないわね」
ヴァルフォイルとレオノーラがどちらがより多くの賊を倒せるかという勝負を行った結果、獰猛な笑みを浮かべて襲い掛かる学生と逃げ惑う賊という、完全に役割が逆の構図が出来上がってしまったのだ。
これには襲われた女生徒達も困惑の表情を隠せないでいる。
バレンシアは一歩引いた位置で、二人が逃した賊を仕留めようと考えていたのだが、どうやら出る幕は無かったらしい。
今しがた最後の賊が倒れ、闘技場の吸血鬼は一掃された。
「ひとまずここは終わったみたいね」
「だな。同点で終わっちまった」
「私は勝負の事を言ったつもりではないのだけれど」
『どうやら怪我人だけのようだ、こちら側に死者が出なかったのは僥倖だ。勝負が引き分けたのは残念だったが』
『そうね、怪我人だけで済んだのは良い事ね』
半ば投げやりに返答しつつ、バレンシアは辺りを見回す。
壁に囲まれた闘技場からでも見える、街のあちこちで起こる戦闘の痕跡。
ここの戦いは幸運にも収束したが、それはヴァルフォイル達が強かったからだ。
場所と人によっては死人が出る事も予想される。
賊の狙いが帝国の人間である以上、そんな事になれば待っているのは二国間和平の破綻、行き着く先は帝国との戦争だ。
「賊の狙いは王国と帝国の和平阻止という事。王国か帝国、どちらの企みかは……今考えても意味は無いわね」
いずれにせよ計画の阻止は絶対条件、最悪でも来賓の帝国貴族と皇族であるアステローゼだけは守らなければ。
バレンシアがそう考えていた時だった。
「闘技場の者達、聞こえますか?」
「その声……アステローゼ様?」
突如として闘技場内に響くアステローゼの声。
姿が見えないにも拘らず聞こえる声、その正体は交流戦で矛を交えていれば自ずと理解出来る。
「音魔術ね」
「理解が早くて助かりますわ、バレンシア様。さて、時間も限られている事ですし手短に。現在ドラウゼンで帝国人を狙う賊との交戦が発生しています。そちらは無事凌げた様子ですが、他はまだ危険な状況です。そこで闘技場にて生徒達の受け入れを行って欲しいのです」
「非力な生徒を守り、集団で迎撃するという事でしょうか?」
「その通りですわ。市民への被害を防ぐ為にもこれが最善の手です。それから、襲われている生徒達の救援に手を貸して頂きたいのです。王国の皆様の手を借りられれば、被害は最小限に抑えられるはずですの」
「分かりました。ではアステローゼ様もすぐに闘技場へいらして下さい。なるべく一人にならないように」
「ええ。他の生徒達への情報伝達は私がしておきますわ。それでは闘技場で」
音声が途絶え、闘技場には一瞬の静寂が落ちた。
しかしすぐに遠くの爆発音が聞こえ、皆の意識は再び戦場へと戻る。
バレンシアは短く息を吐き、表情を引き締めた。
「すぐに動きましょう」
「ああ。オレはいつでも動けんぜ」
「いえ、ヴァルフォイルは闘技場に待機していて」
「なんでだよ、シア」
「ここに避難してくる人が増えれば、敵の狙いも闘技場へ移るでしょう。そうなった時、守れる人が必要よ。あなたならやれるでしょう、ヴァルフォイル」
「……しゃあねぇな。ここにいる奴は全員オレが守り通す。傷一つ付けさせやしねぇよ!」
ヴァルフォイルが勢い良く啖呵を切り、それを見たバレンシアが小さく笑みを浮かべる。
少し前であればその精神的な危うさからヴァルフォイルに何かを任せるという事に躊躇いのあったバレンシアだが、学園生活を経て彼は大きく成長した。
今のヴァルフォイルになら任せられる、そう即決可能な位には。
『レオノーラ、あなたはどうするの?アステローゼ様の声、隣の子に通訳してもらっていたんでしょう?』
『ああ。当方は貴殿の采配に従おう』
『それで良いのね?』
『アステローゼ皇女殿下が話されたのは貴殿だ。従う事に異論は無い』
『分かった。それじゃあ私とは別の場所に向かってもらえるかしら。手分けして闘技場へ誘導しましょう』
『心得た』
数名の生徒を引き連れて、レオノーラが闘技場を出発する。
戦えない生徒は怪我人の治療をしつつ、協力して警戒を継続する構えだ。
「それじゃあ私も行くわ。後の事はよろしくね」
「おう!無事で戻って来いよ、シア」
「当然よ」
バレンシアはそう言い残すと、高く跳び上がり、闘技場の観客席から観客席へと跳び移りながらドラウゼンの街へと繰り出した。
闘技場の外は、バレンシアが想定していたよりも日常の原形を保っていた。
破壊の限りを尽くされている、血痕や死体が視界内に幾つも映る、そんな光景があるとばかり思っていたのだが。
だが今も確かに交戦は継続されている、急ぎ救援に駆け付けなければならない。
建物の屋根を駆け、最短経路で交戦地点へと移動するバレンシア。
彼女の健脚はものの数十秒で闘技場から街の端へと舞台を移し、賊に襲われているローゼン・クレーネの生徒達の下へと到着した。
「それ以上はやらせない――」
警告と共に抜き放つ剣が紅蓮を纏い、凄まじい熱量が周囲の空気を焼く。
しかし乾いた空気を感じ取ったか、女生徒の一人に止めを刺そうとしていた女は振り向きすらせずに跳び退り、バレンシアの奇襲を躱して見せた。
初手の一撃で仕留めるつもりだっただけにバレンシアの驚きは大きい、ひとまず女生徒達を庇える位置に立ちつつ警戒度を引き上げる。
紫の髪をした女はゆっくりを顔を上げてその素顔を露わにして――
「あなた、武具店に居た……」
「奇遇ね。あなたまでわたしの邪魔をするだなんて。あの武具店、除霊の一つでもした方が良いんじゃないかしら?」
貿易都市ドラウゼンを襲う吸血鬼達の首魁、フランチェスカはそう呆れ交じりに微笑んだのだった。
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