覇王への王手
東の超大国『中華国』の心臓部、巨大な煤煙が空を覆う帝都最大の重工業地帯。
覇王マオ・キンが強行する「インフラの近代化」を根底で支えているのは、一日18時間労働、劣悪な環境、そして低賃金で酷使される数万人の名もなき労働者たちだった。
「……咳っ、ゲホッ。今日もまた、鉄と火薬の粉で肺が痛む」
「休めばクビだ、手を動かせ。大砲を作らなければ、俺たちに明日のパンはないんだ……」
絶望に支配された工場地帯の薄暗い路地裏。
そこに、作業着に身を包んだ一人の男――辺境伯家の裏の顔役にして稀代の密偵、キースが音もなく影から現れた。
「休めばクビ……なるほど。だが、『全員で休めば』どうなると思う?」
キースは驚く労働者たちに、一枚のビラを配った。
そこに書かれていたのは、辺境伯領を含む王国の驚くべき『労働基準』の数々であった。
「な、なんだこれは!? 『一日8時間労働』!? 『深夜割増賃金』に『有給休暇』だと!?」
「馬鹿な、こんな天国みたいな条件で工場が回るわけがない!」
「回っているのさ。人権を得た労働者は生産性を爆発的に引き上げるからな」
キースはニヤリと笑った。
「お前たちが作っている大砲は、自分たちの首を絞めるためのものだ。……ストライキを起こせ。工場を止めろ。お前たちには『正当な対価』を要求する権利がある」
「だが、働かなければ家族が飢える! 治安部隊に殺される!」
「生活の心配は無用だ」
路地裏のさらに奥から、上質なスーツを着た次男・クロードが姿を現した。
彼は分厚い札束の詰まったトランクを開け、冷徹な参謀の顔で告げた。
「ストライキ期間中の全労働者の生活費は、我が商会が『無利子・無担保』で全額融資する。君たちはただ、ハンマーを置いて家に帰り、温かいスープを飲んで寝ていればいい。……これは反逆ではない。合法的な『労働条件の交渉』だ」
魔法のない近代化社会において、最も恐ろしいのは労働力の喪失である。
背後の兵糧や資金不安が消えた数万人の労働者たちは、その日を境に一斉に工場から姿を消した。
「なんだと!? 帝都の全兵器工場がストライキで停止しただと!?」
宮殿で報告を受けた帝国の将軍は、怒りで顔を真っ赤にした。
「はい! 労働者どもは工場にバリケードを築き、立て籠もっています! 背後に西の王国の資金援助があるようで、兵糧攻めも通じません!」
「ええい、下民どもが権利などとほざきおって! 治安部隊を出せ! 逆らう者は全員射殺し、見せしめとして工場の機械の油にしてくれるわ!」
数千の武装した帝国治安部隊が、一斉に工業地帯へと進軍した。
最新鋭のマスケット銃を構え、労働者たちのバリケードを強行突破しようとしたその時。
「……そこまでよ。労働組合の『正当な交渉権』を、暴力で弾圧する気?」
工場の正門。バリケードの真上に、大剣を肩に担いだミラが立っていた。
その隣には、愛用の槍を構えた長男ジークが、楽しそうに首の骨を鳴らしている。
二人の腕には『王国・労働組合公認用心棒』という、急造の腕章が巻かれていた。
「西の蛮族どもめ! ちょうどいい、工場ごと大砲で吹き飛ばせ!」
将軍が叫ぶが、砲兵たちは青ざめて首を振る。
「む、無理です! ここは帝都の心臓部。大砲を撃ち込めば、労働者だけでなく『最新鋭の兵器工場そのもの』が灰燼に帰してしまいます!」
「ちぃっ! ならば一斉射撃だ! 撃てェェ!!」
数千の銃口が火を噴く。
しかし、入り組んだ市街地と工場の敷地内という『極端な接近戦』の環境下において、火縄銃や初期のマスケット銃の「装填の遅さ」と「取り回しの悪さ」は致命的だった。
「遅いわね!」
ミラが地を蹴り、無音の歩法で瞬時に銃兵の懐へと潜り込む。
一閃。
人を斬るのではない。ミラの規格外の剣圧は、構えられた数百丁の『銃身だけ』を、まるで大根でも切るかのようにまとめて叩き斬った。
「なっ……鋼鉄の銃身が、一振りで!?」
「よそ見してる暇はないぞ!」
逆サイドからは、ジークの槍が竜巻のように荒れ狂う。
殺さない程度に手加減してはいるが、その凄まじい衝撃波だけで治安部隊の隊列は紙屑のように吹き飛ばされ、次々と空を舞って工場の煙突に突き刺さっていく。
大砲という長距離火力を封じられた狭い市街地で、規格外の身体能力を持つ武人に対抗する術など、帝国軍には存在しなかった。
「ひ、ひぃぃっ! 化け物だァ!」
治安部隊は完全に戦意を喪失し、武器を捨てて逃げ惑う。
「……見事な制圧です。これで帝国の兵器生産ラインは、完全に沈黙しましたね」
工場の屋上から惨状を見下ろしながら、クロードは手元の懐中時計をパチンと閉じた。
彼の傍らには、労働者たちの代表が涙を流して深々とお辞儀をしていた。
「ありがとうございます、クロード様……! 我々も、人間として生きていいのですね!」
「ええ。君たちの権利は、法律と経済が守ります。安心して休んでください」
クロードが優しく微笑みかけると、下で大暴れしていたミラが、屋上へと跳躍して戻ってきた。
「終わったわよ、クロード! 治安部隊は全員縛り上げておいたわ!」
「ご苦労だった、ミラ。君の完璧な護衛のおかげで、帝国の近代化の息の根を止めることができた」
クロードは、汗をかいたミラの額にそっと労いのキスを落とした。
「大砲の弾も、装甲列車の鋼鉄も、それを作る『人間の手』が止まればただの鉄屑だ。……これこそが、資本主義社会における合法で、致命的な内部崩壊だよ」
帝都の空を覆っていた黒い煤煙が、徐々に晴れていく。
それは皮肉にも、帝国の近代化の象徴である工場が、完全に機能を停止した証であった。
兵器を作れず、莫大なインフラ投資の借金だけが残された東の覇王。
辺境伯一家の、知略と武力の完璧な二重奏は、帝国を文字通り「自己破産」の淵へと追い詰めたのである。
「さあ、総仕上げに行こうか、ミラ。……新婚旅行の最高の思い出に、覇王の玉座を差し押さえしてみせよう」
冷徹な天才参謀と、最強の戦士となった愛妻。
二人は手を取り合い、完全に沈黙した帝都の奥深く――マオ・キンが震えて待つ皇居へと、悠然と歩みを進めるのであった。
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