忘れ去られた大憲章
スラムの買春窟は、異様な静寂に包まれていた。
床には、王属特務兵と呼ばれた凄腕の暗殺者たちが、文字通り「手も足も出ない」状態にされて転がっている。
「アーサー様。お怪我はございませんか?」
「ああ、ありがとうエレノア。……相変わらず、鮮やかな手並みだね」
エレノアはスカートの裾を軽く払い、何事もなかったかのように僕の背後に控えた。
僕は呆然としている老婆――先代王妃が産んだ真の王位継承者へ手を差し伸べる。
「行きましょう。ここはもう安全ではありません。僕の拠点であるギルド本部へお連れします」
「……本気なのかい、お坊ちゃん。相手はこの国の頂点、国王だ。法で裁くなんて、できるはずが……」
「やってみせますよ。僕の『辞書』に、泣き寝入りという言葉はありませんから」
数時間後。商業ギルド本部、最上階のVIPルーム。
事の顛末を聞いたギルド長ウィンストンは、咥えていた太い葉巻をポロリと床に落とした。
「……お前さん、とうとう頭がおかしくなっちまったのか!? 国王を法廷で告発するだと!?」
「至って正気ですよ、ウィンストンさん」
「正気で一国の王に喧嘩を売る奴がいるか! 裁判所は『王の名の下に』開かれるんだぞ。王自身を裁ける法律なんか、この世に存在しねえ!」
頭を抱えるウィンストンの横で、「ふふっ」と好戦的な笑い声が響いた。
受付嬢の制服を着たリリーだ。彼女は手にしたバインダーを叩き、目を輝かせている。
「最高じゃない。あんたとなら、いつか国ごとひっくり返すと思ってたわ。……で? 王宮の裏事情なら、元暗部の私の情報網が役に立つわよ。どうやってあの偉そうな王様を法廷に引きずり出すの?」
「通常の裁判所が駄目なら、『王すらも従わねばならない法廷』を作ればいいだけのことさ」
僕は山積みの本棚から、一冊の極めて古く、埃を被った分厚い本を抜き出した。
表紙には『王歴元年・獅子王の大憲章』と金箔で記されている。
「建国当初に定められ、今では誰もが形骸化したと思っている絶対法です。その第12条……『いかなる王権も、法の天秤と貴族院の総意の上には立てず』。つまり、高位貴族の過半数の賛同と、宰相の署名があれば、王の不正を裁く『特別貴族院法廷』を開くことができる」
僕が静かに告げると、部屋の空気がピンと張り詰めた。
スラムで老婆を襲わせた証拠と、暗殺者たちの身柄はこちらにある。あとは、王を弾劾するための「貴族たちの賛同」という巨大な壁を越えるだけだ。
「だがよ、アーサー。お前さんは実家のアッシュクロフト家とも縁を切ったただの平民同然だ。誰が、一歩間違えれば反逆罪になるような法廷の開催に賛同してくれるんだ?」
ウィンストンが的を射た懸念を口にする。
「ええ。だからこそ、彼女を呼んだんです」
その時、タイミング良くVIPルームの分厚い扉がノックされた。
エレノアが扉を開けると、そこには夜中だというのに完璧なドレスに身を包んだ、気品あふれる美しい公爵令嬢が立っていた。
第1部で僕と司法取引を結び、バカな王太子を破滅させる手助けをしてくれた宰相の娘――ヴィクトリアだ。
「……夜分遅くに失礼いたしますわ、アーサー様。貴方からの緊急の書簡、拝見いたしました」
「来てくれてありがとう、ヴィクトリア様」
ヴィクトリアは優雅にカーテシー(挨拶)をすると、毅然とした瞳で僕を見つめた。
「『現国王の血統の偽りと、暗殺未遂の告発』……あまりに荒唐無稽で、本来なら正気を疑う内容です。ですが……あのエドワード殿下から私を救い出してくれた、貴方の『法廷での力』を、私は誰よりも知っています」
彼女は扇子を閉じ、ふっと口角を上げた。
「私の父である宰相閣下も、現在の国王の暴政と腐敗には頭を悩ませておりました。……アーサー様。貴方が法廷で確実に王を論破し、勝てるという確証があるのなら。宰相派閥の全貴族を動かし、特別貴族院法廷を開催することをお約束いたします」
「ええ、必ず勝ちます」
僕は氷のように冷徹な、ディベーターの顔で頷いた。
「あら、宰相の娘さんが直々にご協力? 随分と顔が広いのね」
リリーが腕を組み、少しだけヴィクトリアを値踏みするように睨む。
「ええ。アーサー様には恩がございますから。貴女のような元犯罪者の受付嬢とは違いますのよ」
「なっ……なんだとコラ!」
「……お静かに。アーサー様のお耳が穢れますわ」
リリーとヴィクトリアの間に火花が散り、その背後でエレノアが目の笑ってない微笑みを浮かべながら楚々と立っている。
なぜかまた僕の周囲の女性陣が不穏な空気になりつつあったが、今はそれどころではない。
かつて法廷で共闘した宰相の娘。
情報と裏の動きを制する元暗部の受付嬢。
莫大な資金力で経済を支えるギルド長。
そして、いかなる物理的暴力も粉砕する絶対最強のメイド。
「……さあ、役者は揃いました」
僕は『獅子王の大憲章』を机に叩きつけ、静かに宣言した。
「一国の王が犯した大罪。法と証拠をもって、徹底的に精算していただきましょう」
王都を揺るがす前代未聞の裁判、その開廷の槌音が、今まさに響こうとしていた。
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