心の奪い合い
非武装・無税の巨大娯楽都市『ゴールド・フォール』の中央行政塔。
西の王国から派遣された「国際監査団」を名乗る一団が、分厚い帳簿を会議テーブルに叩きつけた。
「見逃すとでも思ったか、辺境伯家の非道なマネーロンダリングを!」
監査団のトップである王国の貴族・ゼス伯爵が、勝ち誇ったように下品な笑い声を上げる。
「この『裏帳簿』には、お前たちが神聖国の残党と結託し、違法な武器取引の利益をこのカジノで洗浄している記録が克明に記されている。日付は三年前から……言い逃れはできんぞ!」
彼らの目的は明白だった。辺境伯家の莫大な富を妬む王国内の腐敗派閥が、難癖をつけて資産を凍結し、この黄金の都市を合法的に乗っ取ろうという計画である。
「なるほど、裏帳簿ですか」
次男・クロードは、冷ややかな視線でテーブルの上の古びた帳簿を見下ろした。
「強がりはそこまでだ。おい、そこの娘!」
ゼス伯爵は、クロードの背後に控えていたミラを指差した。
「お前はあの元・撃滅隊のキースの娘だな! 裏社会とのパイプ役である証拠だ、重要参考人としてただちに身柄を拘束しろ!」
数人の屈強な私兵たちが、下劣な笑みを浮かべながらミラへと歩み寄る。
ミラが大剣の柄に手をかけた、その瞬間だった。
ドンッ!!
凄まじい踏み込みの衝撃波と共に、長男ジークがミラの前に立ち塞がった。
彼の切っ先のない訓練用の槍が、私兵たちの喉元わずか数ミリの距離でピタリと止まっている。
「……俺の妹分にその薄汚い手を伸ばせば、お前ら皆殺しだ」
圧倒的な武力と殺気。純粋な「物理的な盾」として自分を背中で庇うジークの姿に、ミラの心臓がトクン、と大きく跳ねる。
「ひっ……! 監査団への暴力は国際法違反だぞ! 我が王国への宣戦布告とみなす!」
ゼス伯爵が青ざめながら叫ぶ。
「兄上、槍を下ろしてください。法の手続きに、暴力は不要です」
静かな声と共に、今度はクロードがジークと私兵たちの間に歩み出た。
彼冷酷な知略のオーラだけで私兵たちを威圧し、ミラの前に「知的な盾」として立ち塞がった。
「王国通商条約・第12条。明確な物証なき不当な身柄拘束は、対象者の全尊厳に対する侵害とみなされます。……ミラを連行したいのなら、まずはその『三年前からの裏帳簿』とやらが本物であると証明していただきましょうか」
「本物に決まっているだろうが! 見ろ、この紙の古さとインクの染み込み具合を!」
「ええ。そこまでおっしゃるなら科学的に証明しましょう。セリア姉上」
クロードの合図で、白衣を着た長女セリアがおっとりとした足取りで進み出た。彼女の手には、怪しげな液体が入ったガラス瓶が握られている。
「はいはい、お待たせしましたわ」
セリアは裏帳簿のページを開くと、その文字の上に無造作にスポイトで液体を垂らした。
「な、何をする気だ!」
「ふふっ。ただの『シュウ酸』の希釈液よ。……ゼス伯爵、あなたが使ったのは『没食子インク』ね。このインクは、書かれてから数ヶ月かけて空気中の酸素と反応し、黒く定着して耐水性を持つという化学的性質があるの」
セリアが液体を拭き取ると、三年前の記録だという文字は、無惨にもドロドロに溶け出し、紙から完全に消え去っていた。
「あらら。完全に溶けちゃったわね」
セリアはニコニコと微笑みながら、決定的な事実を突きつける。
「三年前のインクなら、完全に酸化して定着しているはず。酸性の液体でこんなに簡単に溶け出すということは……この帳簿、長く見積もっても『三日前』に書かれた真新しい偽造品ね」
「なっ……! ま、魔法か! 貴様ら、魔法で証拠を隠滅したな!」
「魔法などというオカルトと一緒にしないで頂きたいわ。これは純粋な化学。ついでに言うと、この紙の繊維を漂白するのに使われている塩素化合物も、ここ半年で我が辺境伯領の工場が開発したものよ。三年前の帳簿に、半年前の紙が使われているなんて、時空でも超えたのかしら?」
「あ……あ……っ」
ゼス伯爵は腰から崩れ落ちた。
物理法則と化学反応は、いかなる言い逃れも許さない「最強の証拠」となるのだ。
「さて、監査団の皆様」
クロードが、冷酷な死神のような笑みを浮かべて帳簿を見下ろした。
「我がカジノの『ハウスルール』並びに『国際監査協定・特別条項』にはこう記されています。意図的な偽造証拠による不当な監査が行われた場合、監査側は『被監査側の提示する違約金』を全額支払う義務がある、と」
「い、違約金だと……? いくらだ……」
「そうですね。王国のオズワルド陛下と事前に協議した結果、あなたの領地、爵位、そして全財産の『完全譲渡』ということで合意を得ています」
オズワルド王の印章が押された没収令状が突きつけられ、ゼス伯爵は完全に白目を剥いて気絶した。
「き、貴様らァ! こうなったら皆殺しにして証拠を奪え!!」
追い詰められた監査団の私兵たちが、狂乱して一斉に武器を抜く。
ドゴォォォォォォンッ!!!
だが次の瞬間、会議室の分厚い壁が外側から爆発したように粉砕された。
瓦礫の山の中から、タキシード姿のレオンハルトと、イブニングドレス姿のルイーザが、満面の笑みで巨大な大剣を構えて現れた。
「ガッハッハ! 監査は無事終わったようだな!」
「さあ、悪いお客様にはお引き取り願いましょうか!」
「ヒィィィィッ!!」
もはや悲鳴を上げる間もなかった。二人の大剣が放つ凄まじい風圧だけで、私兵たちは会議室の窓から数百メートル先の噴水まで、ゴミ屑のようにまとめて吹き飛ばされていった。
騒動が完全に鎮圧された後。
ミラはバルコニーで、少し冷たい夜風に当たっていた。
「怪我はないか、ミラ」
背後から声がし、ジークが温かいコートをミラの肩にバサリと羽織らせた。
「お前が前に出ようとするからヒヤッとしたぜ。ああいう時は、俺の背中に隠れていればいいんだ」
相変わらずの無神経な距離感と、絶対的な安心感。
ミラの心臓が再び警鐘を鳴らしかけた、その時。
「兄上の言う通りだ。だが、物理的な盾が必要になる前に、状況を制圧しておくのが俺の役目だ」
もう一つの影――クロードが、冷たいジンジャーエールを二つのグラスに入れて歩み寄ってきた。
「君の誇り高き大剣を、あんな小悪党の血で汚す必要はない。……君は、俺が法と知略ですべて守り抜く」
ジークの真っ直ぐで力強い熱。
クロードの冷徹で完璧な庇護。
自分を挟んで立つ対照的な二人の兄弟の存在感に、ミラの心は激しくかき乱されていた。
(私……一体どうすればいいのよ……!)
「クロード、お前なんか狡くないか? 俺が助けたのに」
「事実を言ったまでです、兄上。……監査の事後処理が残っていますので、俺はこれで」
グラスを一つミラに手渡し、クロードは静かに踵を返した。
すれ違いざま、誰にも見えない角度で、クロードの唇が僅かに吊り上がる。
(焦る必要はない。兄上が君の心を物理で囲いに来るのなら、俺は君の心を心で包囲するまでだ)
偽造スキャンダルを科学と法律で完璧に粉砕した辺境伯家。
しかし、その水面下でいよいよ本格的な奪い合いへと移りつつあった。
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