春の嵐
早春の風が心地よく吹き抜ける、辺境伯領の城下町。
視察と買い出しに出かけていたミラは、路地裏に立ち込める「微かな血の匂い」と「殺気」に足を止めた。
父から受け継いだ暗殺者の勘が、最大級の警鐘を鳴らしている。
彼女は背負っていた大剣の柄に手をかけ、影のない路地を鋭く睨みつけた。
「……出てきなさい。ただのコソ泥じゃないわね?」
「ヒヒッ……さすがあの『撃滅隊』のトップ夫婦の娘だ。気配の察知は親父譲りか」
石畳の影からヌラリと現れたのは、黒ずくめの武装集団だった。その数、およそ五十。全員がプロの暗殺者や傭兵の身のこなしをしている。
彼らの首領である男の顔には、かつて王都でルイーザとキースに付けられたであろう、醜い十字の傷跡があった。
「王都の裏社会を牛耳っていた俺たちをぶっ潰し、平和になったからと、とっとと引退した身勝手な夫婦……。その恨みを晴らすため、スポンサー様からたんまりと軍資金をもらって辺境まで出向いてやったのさ」
男の言葉に、ミラはふんと鼻を鳴らし、笑顔で大剣を抜いた。
「東の『中華国』の覇王ね。懲りないオジサン。……で? お父様とお母様を狙う度胸はないから、娘の私を人質にして辺境伯家を脅すつもり?」
「ご名答! 攫えぇ!!」
路地裏で激しい死闘が始まった。
ミラの規格外の大剣が唸りを上げ、次々と暗殺者たちを吹き飛ばしていく。しかし、敵もさるもの。彼らはミラの戦闘力を計算に入れた上で、卑劣極まりない罠を用意していた。
「動くなよ、お嬢ちゃん!」
「あっ……!」
暗殺者の一人が、逃げ遅れた町娘を盾にとり、その首筋に刃を当てたのだ。
ミラの動きが一瞬止まる。王都の平和を守った両親の誇りを継ぐ彼女に、無関係な領民を見捨てるという選択肢はなかった。
背後から放たれたスタンガンがミラの首筋に直撃し、彼女は意識を刈り取られ、石畳に崩れ落ちた。
「……ミラが攫われた、だと?」
辺境伯邸の執務室。
キースからの緊急報告を受けた長男ジークは、手にしていたティーカップを握り潰した。
その全身から、山をも割る辺境最強の武人としての凄まじい闘気が立ち昇る。
「敵は王都の裏組織の残党。拠点は領境の廃城だ。おそらく俺とルイーザに対する復讐と、辺境伯家への脅迫が目的だろう」
キースが冷徹に状況を分析するが、その手にはすでに無数の暗器が握られ、殺意で空気が凍りついている。
「親父殿やルイーザ殿の出番じゃねえ。……俺が行く」
ジークは壁に立てかけてあった愛用の槍を掴み取った。
「あいつに……俺の可愛い妹分に指一本でも触れた奴は、俺がこの手で一人残らずミンチにしてやる!!」
怒りのままに窓から飛び出そうとするジーク。
その背中に、これまで沈黙を保っていた次男・クロードが、氷点下の声で告げた。
「行け、兄上。ミラの身の安全は、すべて貴方に任せる」
「ああ! 瞬きする間に終わらせてやる!」
ジークが嵐のように飛び去った後、クロードは静かに眼鏡を押し上げた。
その瞳には、かつて神聖国の筆頭財務卿を破滅に追いやった時よりも、さらに深く、暗く、底知れぬ「漆黒の怒り」が渦巻いていた。
「……中華国の覇王マオ・キン。我が領の防衛網の隙を突き、ダミー会社を経由して裏組織に資金提供をしたルートは特定済みだ」
クロードの手元には、すでに大陸全土の金融ネットワークを掌握した分厚い帳簿が開かれている。
「兄上は物理的に彼らを破壊するだろう。だが、それだけでは生温い。俺の『未来の妻』に傷をつけようとした対価……彼らの組織、資金、そして未来永劫の信用を、この世から完全に抹消する」
天才参謀の、一途な戦術が発動した。
領境の廃城。
首領の男は、縛り上げられたミラを見下ろして下品に笑っていた。
「ヒヒッ! この娘の命が惜しければ、辺境伯家の全財産と領地を差し出せと要求してやる。バックには中華国がついているんだ、俺たちの勝ちだ!」
その時である。
廃城の分厚い城門が、爆発したかのように木端微塵に吹き飛んだ。
「な、なんだァ!?」
土煙を切り裂いて現れたのは、全身から怒りのオーラを立ち昇らせたジークだった。
「よくも……よくも俺のミラに手を出したなァァ!!」
「ひっ!? 撃て、殺せェ!」
首領の命令で、数百人の傭兵たちが一斉にジークに襲いかかる。
しかし、激怒したジークの前では、いかなる武装も紙切れと同義だった。放たれた槍の衝撃波だけで数十人が宙を舞い、廃城の壁が次々と崩落していく。
「ミラ、怪我はないか!!」
ジークは瞬時にミラの元へ到達し、彼女を庇うように立ち塞がった。敵の刃を易々と弾き返し、圧倒的な力で守り抜くその広い背中に、ミラの心臓が大きく跳ねる。
「ジーク……っ!」
(やっぱり、この人は強くて、かっこいい……!)
ミラの胸に、あの「春雷」のような感情が再び蘇りかけた、その時だった。
「ひ、ひぃぃ! ま、待て! お前ら傭兵だろう、契約通り俺を守れ!!」
首領が慌てて叫ぶが、傭兵たちは武器を構えたまま、なぜかピタリと動きを止めていた。彼らの元にギルドからの緊急通知が届いたのだ。
『緊急通達。雇用主である組織【毒蛇の牙】の全口座が、王国の法に基づき凍結されました。彼らの抱える天文学的な負債は辺境伯家がすべて買い取り、同組織はたった今、自己破産に陥りました。……よって、傭兵契約はすべて無効。即時撤退せよ』
「……は?」
首領が間抜けな声を漏らす。
「口座が凍結……? 自己破産……? ま、待て、俺たちの資金は中華国から……」
「その中華国からの隠し資金ルートも、すべて我が辺境伯家が『合法的に差し押さえ』ました」
崩れた壁の向こうから、冷徹な声が響いた。
キースと共に馬車で到着したクロードが、書類の束を片手に悠然と歩み寄ってくる。
「お前たちが裏社会で築き上げた財産、隠し砦の権利、さらには明日のパンを買う金すら、もうこの世のどこにも存在しない。……お前たちは武力で制圧される以前に、すでに社会的に死んでいるんだよ」
クロードの宣告に、傭兵たちは「タダ働きはごめんだ」とばかりに武器を捨て、蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまった。
傭兵をカネで剥ぎ取られ、丸裸にされた首領は、絶望と恐怖でその場にへたり込んだ。
そこに、怒り心頭のジークの槍が容赦なく叩き込まれる。
「これで、終わりだァァ!!」
圧倒的な暴力と、逃げ道をすべて塞ぐ完全なる経済支配。
過去からの刺客は、辺境伯兄弟の「一切の容赦のない二重攻撃」の前に、文字通りチリ一つ残さず壊滅したのである。
数時間後、辺境伯邸の医務室。
かすり傷の手当てを受けたミラは、ふとベッドから抜け出し、執務室へと足を運んでいた。
彼女の頭の中には、敵陣に単騎で乗り込み、自分を真っ先に庇ってくれたジークの熱い背中が焼き付いている。
(やっぱり、私は彼に……)
しかし、執務室のドアの隙間から見えた光景に、ミラの足は止まった。
クロードが一人、山のような書類と格闘していた。
その指先には、いくつもの小さな絆創膏が貼られている。急遽、大陸中の金融機関に莫大な書類を送り、強引に資金凍結の法的手続きを進めるため、休む間もなくペンを走らせていた証拠だった。
「……クロード」
ミラが声をかけると、クロードはいつものように完璧なポーカーフェイスで振り返った。
「怪我はないようだな、ミラ。……安心しろ、あの組織の残党は、王国の採石場へ売り飛ばしておいた。もう二度と、君の日常を脅かすことはない」
「あなた……私のために、そこまで」
「勘違いするな。我が領の治安維持と、リスクマネジメントの一環だ」
クロードは冷たく言い放ち、手元の書類に目を落とした。
「物理的な救出は兄上にしかできない。俺はただ、俺にできる方法で動いただけだ。……君が無事なら、それでいい」
突き放すような言葉。しかし、その瞳の奥に隠された、自分を失いたくないという執着と、不器用すぎる優しさに、ミラはハッとした。
敵を正面から打ち砕く、太陽のようなジークの「強さ」。
敵の存在そのものを盤面から消し去り、絶対に傷つけさせない、深淵のようなクロードの「強さ」。
全く異なる二つの絶対的な庇護を前に、ミラの心臓は、これまで経験したことのない複雑な音を立てて高鳴っていた。
(私……どうなっちゃうの……?)
真っ赤になった顔を隠すように、ミラは逃げるように執務室を去った。
残されたクロードは、折れかけた羽ペンを静かに置き、ドアの向こうへ消えたミラの気配を感じながら、薄く笑みをこぼした。
「……物理的なヒーローにはなれなくとも、君の心を独占する手段はいくらでも存在する。覚悟しておくんだな、兄上。俺は絶対に、撤退などしない」
辺境伯家の過酷な戦記は、やがて来る春の嵐と共に、全く予測不能な「恋愛戦線」へと突入していくのであった。
お読みいただきありがとうございました。
もし「面白かった!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマークに追加】や、【☆☆☆☆☆】の評価を押して応援していただけると、今後の執筆の何よりの励みになります!
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




