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完璧令嬢の辺境開拓記〜私を捨てた王太子が国を傾けている間、私は辺境を世界一豊かな地にし、私は運命の人と世界一幸せになります〜  作者: 虹の箸
辺境伯流スローライフ

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辺境の春

長く過酷だった冬の包囲網を打ち破り、辺境伯領にようやく雪解けの季節が訪れた。

吹き抜ける早春の風が心地よい辺境伯邸の広大な訓練場で、二つの影が激しく交錯していた。

「……シッ!」

従妹分であり、家族同然に育ったミラが、身の丈を超える大剣を滑らかに振り抜く。さらに、無音の歩法で死角へと潜り込み、鋭い刺突を放つ。血の繋がりはないとはいえ、彼女もまた辺境の厳しさを生き抜いてきた戦士の一人だ。

だが、その洗練された一撃は、長男ジークの無造作な槍の柄によってピタリと止められた。

「動きは悪くない。だが、ルイーザ殿の剣圧に比べると、まだ踏み込みに迷いがあるぞ」

「……っ、もう一本!」

ミラはこれまで、どれほど修練を積んでもこの「辺境最強の槍使い」であるジークに勝てた試しがなかった。危機が去って少し余裕ができた今、彼女は己の限界を超えるため、幾度となく彼に勝負を挑んでいた。

今日も、いつものように力負けして泥を舐める――はずだった。

「――そこだ」

「えっ」

ジークの槍が、ミラの視界からフッと消えた。

次の瞬間、見事な足払いを食らったミラは天地が逆転する感覚を味わい、背中から雪解けの柔らかい土に叩きつけられていた。

ドスッ。

鈍い音と共に息が詰まる。

見上げた先には、馬乗りになる形で彼女を完全に組み伏せ、喉元に訓練用の刃をピタリと寸止めしたジークの姿があった。

「俺の勝ちだな。今日は随分と力みすぎだぞ、ミラ」

春の淡い陽光の中、激しい訓練で流した汗がジークの精悍な顎を伝い、ポタりとミラの頬に落ちる。

すぐ目の前にある、彼の深く静かな呼吸。これまでただの「越えるべき壁」としか認識していなかった男の、圧倒的な熱量と、自分を容易く制圧する筋肉の重み。

「…………」

その瞬間、ミラの全身を、強烈な春雷に打たれたような未曾有の痺れが駆け抜けた。

心臓が警鐘のように早鐘を打ち、視界の輪郭が曖昧に滲む。春先の風はまだ冷たいはずなのに、首筋から頬にかけて火が点いたように熱い。ジークの真っ直ぐな瞳を、なぜか直視することができなかった。

「おい、ミラ? どうした、顔が赤いぞ。どこか打ったか?」

心配そうに顔を覗き込んでくるジーク。

その無防備な優しさに触れた瞬間、ミラは弾かれたように彼を突き飛ばした。

「な、なんでもない……っ! 今日は、ここまで!」

震える声でそれだけを言い残し、彼女は逃げるように訓練場を後にした。背中に向けられたジークの戸惑う声には、どうしても応えることができなかった。


「セリア……少し、いいかしら」

ミラが静かに扉を叩いたのは、長女セリアの調薬室だった。

薬草の穏やかな香りが漂う室内で、セリアは乳鉢で粉薬を挽く手を止め、戸惑うミラの顔を優しく見つめた。

「どうしたの、ミラちゃん。ひどく顔色が悪いけれど」

「……自分の体が、おかしいの」

ミラは胸元をきつく握りしめながら、ポツリポツリと語り始めた。

「ジークに組み伏せられた瞬間……急に心臓が痛いほど脈打って、息がうまくできなくなった。今も、彼の顔を思い出すだけで胸の奥が締め付けられるみたいに苦しいの。……私、どこか悪い病気にでもかかったのかしら」

戦いの中でしか己の価値を見出してこなかったミラにとって、この制御不能な身体的反応は「恐怖」に近かった。

ミラの話を静かに聞き終えたセリアは、クスリと小さく微笑み、彼女の震える手をそっと包み込んだ。

「ミラちゃん。それはね、病気でも怪我でもないわ」

「え……?」

「視覚から入った情報が、大脳辺縁系を強く刺激して、特別なホルモンを分泌させているの。心拍数の増加も、体温の上昇も、すべてその正常な反応よ」

セリアは、まるで傷ついた小鳥を撫でるように、ミラの頬を撫でた。

「人はそれを、『恋』と呼ぶのよ」

「……こい」

その言葉がストンと胸に落ちた瞬間、ミラは自分がなぜあんなにも彼から逃げ出したかったのかを理解した。

勝てない悔しさではない。ただの身内としての甘えでもない。一人の女として、彼という絶対的な存在に「惹かれている」のだという、取り返しのつかない事実。

「私……どうしたらいいの。こんな不確かな感情を抱えたままじゃ、もう彼の隣に立てない」

迷子のように呟くミラに、セリアは穏やかに告げた。

「クロードに相談してみたらどうかしら。あの子ならきっと、この感情とどう向き合うべきか、道筋を示してくれるはずよ」


執務室。

山積みの春季予算案と戦後復興の報告書に目を通していた次男・クロードは、ノックの音と共に現れたミラの表情を見て、羽ペンを走らせる手をピタリと止めた。

「……姉上から『恋』という診断を受けたから、俺にこの感情の対処法を教えろと」

「……ええ」

ミラは俯いたまま、絞り出すように答えた。

「このままじゃ、私は彼をまともに見ることすらできない。クロード、あなたはいつだって正しい答えを知っているでしょう? どうすれば、この苦しさを消せるの」

彼女の瞳は、未知の感情に対する純粋な戸惑いと切実な痛みに揺れていた。

クロードは、ゆっくりと眼鏡の位置を押し上げた。

完璧なポーカーフェイス。その表情には微塵の動揺も浮かんでいない。

(……そうか。ついに、この時が来てしまったか)

彼の脳内で、冷徹に構築されていた「未来の予測図」が、音を立てて崩れ去っていく。

血の繋がりはないとはいえ、圧倒的な武力を尊び、戦いの中に生きる彼女が、最終的に「辺境最強の男ジーク」に惹かれるであろうことは、計算上の『最も起こり得るリスク』として常に存在していた。

それが今、最悪の形で現実になった。

クロードは、物心ついた頃からミラのことが好きだった。

知略と陰謀が渦巻く世界に生きる自分にとって、真っ直ぐに剣を振り、屈託なく笑う彼女の存在は、唯一の救いであり、光だった。

だが、彼には圧倒的な武力がない。彼女の隣に立ち、彼女の背中を預かる資格が、自分には決定的に欠けているのだと、この瞬間、冷酷なまでに突きつけられた。

クロードの心臓は、致命的な痛みを伴ってひび割れていた。だが、天才的な自制心によって、表面上はただ冷徹な参謀としての顔を保ち続けた。

「……簡単なことだ、ミラ」

クロードは、ひどく静かな声で告げた。

「感情とは、目的の遂行を阻害するノイズに過ぎない。このノイズを処理するには、二つの手段しかない」

「二つ……?」

「一つは、対象との接触を完全に断ち、時間が解決するのを待つことだ。言わば『損切り』だな。……そしてもう一つは」

クロードは、わずかに目を伏せた。

「その感情から逃げず、対象を完全に『獲得』するために、あらゆる手段を講じて踏み込むことだ」

ミラはハッとして顔を上げた。

「逃げずに、踏み込む……」

「そうだ。君はこれまで、強大な敵から逃げたことがあったか? この感情も同じだ。恐れるなら、正面から向き合って越えていくしかない。彼に勝てないのなら、せめて彼の横に並び立てるだけの『理由』を、君自身で掴み取れ」

その言葉に、ミラの瞳に宿っていた迷いの霧が、スッと晴れていくのがわかった。

戦士としての本能と、一人の女性としての新たな決意が、彼女の顔に凛とした美しさを与えていた。

「……ありがとう、クロード。私、逃げない。もう一度、彼に向き合ってみる」

深く頭を下げ、ミラは今度こそ迷いのない足取りで執務室を後にした。

重厚な扉が、静かに閉まる。

執務室に、完全な静寂が訪れた。

「…………」

クロードは、数秒間そのまま虚空を見つめていた。

やがて、彼の手の中で「パキッ」と微かな音が鳴り、握りしめていた最高級の羽ペンが真っ二つになった。

「……全く。俺の立てる戦略は、いつも他人の利益ばかりを生むな」

誰にも聞こえない独り言が、春のぬるい空気の中に溶けて消える。

折れた羽ペンをゴミ箱へ静かに落とすと、クロードは机の上から新しい羽ペンを取り出し、インクを浸した。

しかし、その目から先ほどまでの諦念めいた影は完全に消えていた。

残っていたのは、神聖国の財政を崩壊させ、東の覇王にすらトラウマを植え付けた、あの冷酷無比な知略の光だけだった。

「……撤退だと? 冗談ではない」

クロードは静かに眼鏡の位置を直し、手元の白紙にさらさらと複雑な相関図を書き始めた。

「感情は不確定要素だが、行動は予測可能だ。ミラは直情型で、兄上は筋金入りの鈍感。……あの脳筋のジーク兄上が、ミラのあからさまな態度変化に対してまともな『恋愛的な答え』を出せる確率など、理論的にゼロに等しい」

彼の脳内で、冷徹な計算が超高速で再構築されていく。

ジークは戦場と訓練場では天才だが、こと男女の機微にかけては壊滅的だ。ミラがどれほど覚悟を決めて正面突破を仕掛けようと、ジークはそれを「戦士としての執着」か「妹分の反抗期」としか受け取らないだろう。

そして、すれ違いを繰り返し、ミラが壁にぶつかった時――そこに差しのべられる手が誰のものであるべきか。

「正面突破で勝てないのなら、盤外戦術で外堀を埋めるまで。兄上の死角から、合法的に彼女の心を独占してみせる」

ふと、執務室のドアがわずかに開き、優雅な紅茶の香りが漂ってきた。

そこに立っていたのは、母・セレスティアだった。

「あら、クロード。随分と恐ろしい顔をしてますわね」

セレスティアは慈愛に満ちた聖母の微笑みをたたえたまま、息子の手元にある複雑な「恋愛戦術図」に視線を落とした。

「……母上。見ておられたのですか」

クロードは警戒するように目を細めた。

「俺の不穏な企みを止めに来たのですか。それとも、愚かな次男に知恵を貸しに?」

「まさか」

セレスティアはふふっと笑い、扇で口元を隠した。

「私は母親ですもの。真っ直ぐな長男も、狡猾なあなたも、等しく愛しておりますわ。だから――この恋愛戦線において、私はどちらの味方でもないわよ」

「……中立、ですか」

「ええ。盤外戦術で兄から想い人を奪い取るのも、あの不器用な長男が奇跡的に恋を知るのも、どちらも等しく見応えがありますもの」

セレスティアの微笑みは、どこまでも温かった。

「欲しいものがあるのなら、ご自身の知略で運命を書き換えてみせなさいな。参謀殿?」

「……ええ。そういたします」

母が静かに部屋を去った後、クロードは窓から階下を眺める。

窓の外では、春の陽光の下、大剣を握りしめてジークへと向かっていくミラの姿が見える。

その背中を見つめながら、クロードは誰にも見せない薄い笑みを唇に浮かべた。

「行くといい、ミラ。何度でもぶつかり、あの鈍感な男に呆れ果てるといい。……君がどれほど傷つき、迷おうとも、その最後に振り返る場所には、常に俺が立っている」

初恋は敗北で終わったのではない。

たった一人で兄という巨大な壁に挑み、彼女の心を完全掌握する――天才参謀による「最も極悪で、最も一途な敵対的買収(TOB)」の火蓋が、今、静かに切って落とされたのである。

お読みいただきありがとうございました。

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次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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