ソーシャルダンピング
春の陽光が降り注ぐ辺境伯領の城下町は、かつてないほどの混乱と熱狂に包まれていた。
「見ろ、東の超大国『中華国』からの交易船団だ! なんだあの絹織物と茶葉の量は!」
「しかも価格が、市場の百分の一だと!? こんな捨て値で売られたら、うちの商会は三日で潰れちまう!」
東の覇王マオ・キンが送り込んできた「友好と謝罪の特使団」。
彼らが持ち込んだのは、平和の証などではなかった。国家の莫大な補助金を背景に、赤字覚悟の超・低価格商品を大量に市場へ放出し、辺境伯領の地元産業を根絶やしにする極悪な経済戦術――『不当廉売』である。
「……なるほど。前回の暗殺部隊の失敗を隠れ蓑に、今度は合法的な経済侵略ですか。マオ・キンめ、小賢しい知恵を絞りましたね」
執務室の窓から城下町を見下ろし、次男・クロードは冷ややかに眼鏡を押し上げた。
一方、特使団の真の狙いはもう一つあった。
辺境伯邸の広大な庭園。そこで槍の素振りをしていた長男ジークに、特使団の代表である中華国の絶世の美女・リンファが、艶やかな絹のドレスを揺らしてすり寄っていた。
「ああっ……石につまずいてしまいましたわ。ジーク様、お助けを……」
リンファがわざとらしくバランスを崩し、ジークの逞しい胸板へと倒れ込む。
彼女は中華国が誇る最高峰の工作員。類まれなる美貌と色仕掛けで標的を骨抜きにし、辺境伯家の内情や軍事機密を丸裸にするのが彼女の真の任務だった。
「おお、危ないな」
ジークは片手でリンファを軽々と受け止めた。リンファは上目遣いで、甘い吐息を漏らす。
「ふふっ、ジーク様はとても力強くていらっしゃるのね。私、こんなに胸が高鳴ったのは初めて……」
ギリリリリリリッ……!!
少し離れた柱の陰。
その光景を見ていたミラの奥歯が、粉々に砕けそうなほどの音を立てていた。
彼女の背中にある大剣からは、今にも山を真っ二つに割りかねない凄まじい殺気が漏れ出している。
「あんな……あんな香水の匂いをプンプンさせたキツネ女! ジークに触るんじゃないわよ!!」
嫉妬と焦燥感で顔を真っ赤にし、大剣を引き抜こうとしたミラ。
その肩を、背後から冷たい手がスッと押さえた。
「落ち着け、ミラ。ここで君が暴れれば、国際問題として相手の思う壺だ」
「クロード! でも、あいつジークに……!」
「ええ。腹立たしいですね」
クロードは完璧なポーカーフェイスのまま、ミラの耳元で囁いた。
「俺も、我が領土を荒らすあの特使団には我慢ならない。……どうだ、ミラ。俺と組まないか? 君の力と俺の知略で、あの女の目論見を完璧に叩き潰し、兄上の隣から排除してやろう」
「……やる。絶対にやるわ!!」
ミラの瞳に、クロードへの強い信頼の光が宿る。
(計画通りだ)
クロードは心の中で密かにガッツポーズをした。敵のハニートラップを逆利用し、ミラの「共犯者」としての絶対的ポジションを確立する。天才参謀による恋愛敵対的買収の第一歩である。
数日後。
リンファは特使団の執務室で、勝利の美酒に酔いしれていた。
「ふふっ、辺境の商人たちはすでに青息吐息。そしてあの単細胞なジーク様も、すっかり私の虜。これで辺境伯家は中華国の属国も同然ね」
そこへ、部下が血相を変えて飛び込んできた。
「ほ、報告します! 我々が赤字覚悟で市場に流していた超激安の絹織物を……『辺境伯一家のダミー商会』が、借金をしてまで市場の在庫をすべて(数千万トン)買い占めました!」
「なんだって!?」
リンファは目を丸くした。
「馬鹿な……いくら安くても、あんな膨大な量の布地、使い道がないはずよ! まさか、防寒具にでもするつもり!?」
「それが……!」
同時刻。辺境伯家の広大な工場地帯。
そこでは、長女セリアが白衣を翻し、巨大な化学プラントの前で微笑んでいた。
「ふふっ。お母様の知恵と、私の科学力の結晶ね」
セリアが中華国の激安絹織物を放り込んだのは、彼女が調合した薬品で、特殊な酸と鉱物成分を配合したもののプールだった。絹のタンパク質繊維に特殊な化学反応を起こし、分子の結合を物理的に数万倍に強化する。
引き上げられた絹織物は、しなやかさを保ったまま、『鋼鉄の十倍の強度を誇る、超軽量の防弾・防刃繊維』へと生まれ変わっていた。
「クロードの指示通りよ! これを王国の騎士団と、大陸中の傭兵ギルドに『超高級・新型装甲服』として、元の価格の一万倍で売りさばきなさい!」
「な、なんだこりゃぁぁ!!」
城下町の広場。
買い占められた自国の布地が、とんでもない高値の軍事物資として世界中に飛ぶように売れていく光景を前に、リンファは絶望の叫びを上げていた。
不当廉売を利用され、逆に辺境伯家に莫大な利益をもたらすための「原材料のタダ提供」をさせられていたのだ。中華国の国家予算レベルの大赤字である。
「おのれ……こうなったら、ジーク様を人質に……!」
リンファは短剣を隠し持ち、再びジークの元へと向かった。
「ジーク様ぁ! 私、実は恐ろしい人たちに追われていて……!」
涙ぐみながらジークに抱きつこうとするリンファ。
だが、ジークの態度は数日前とは全く違っていた。彼はリンファを冷たく引き剥がし、厳しい武人の顔で告げた。
「……お前、俺の筋肉を触って『力強い』と言ったな」
「え……? は、はい。とても逞しくて……」
「だが、お前自身の体幹はどうだ。先日からわざと転んで見せたが、あの足の運び、重心のブレ、筋肉の弛緩……お前、これまで一度も真面目にスクワットをしたことがないだろう!!」
「……は?」
リンファが呆然とする中、ジークは熱く語り始めた。
「俺はてっきり、お前が俺の槍術の基礎を学びに来た熱心な武芸者だと思っていた! だが失望したぞ! 下半身の筋力がない女になど、俺は1ミリの興味もない!!」
ジークは筋金入りの武力至上主義だったのだ。色仕掛けなど、最初から1ミリも通じていなかったのである。
「す、スクワットぉ!?」
リンファが卒倒しかけたところへ、完全武装したミラとクロードが歩み寄ってきた。
「ハウスルール違反並びに、不正競争防止法違反だ」
クロードが冷ややかに拘束命令書を突きつける。
「特使殿。あなたの莫大な赤字と罪状を、マオ・キン皇帝がどう評価するか……今から楽しみですね」
「いやぁぁぁぁぁ!!」
特使団は完全に崩壊し、身ぐるみ剥がされて強制送還された。
「……やっぱり、ジークはジークね」
ミラは呆れたように笑いながらも、ハニートラップが全く通じなかった従兄の姿に、胸の奥でほっと安堵の息をついていた。
「これで厄介払いは終わったな、ミラ」
クロードが、自然な動作でミラに温かいお茶を手渡す。
「君の協力がなければ、あそこまで完璧に敵を欺くことはできなかった。……俺の隣には、やはり君が必要だ」
「もう、大袈裟ね。でも……ありがとう、クロード。あなたが一緒にいてくれて、本当に心強かったわ」
ミラが無邪気な笑顔を向ける。
脳筋ヒーロー、ジークが斜め上の理由で自爆していく中、クロードの「冷徹で頼れるパートナー」としての包囲網は、確実にミラの心を侵食し始めていた。
一方その頃。東の超大国では。
「……朕の国家予算が……また辺境の悪魔どもに吸い取られたアル……っ!! ぬうう、このままにはしてあかんぞ!!」
覇王マオ・キンの叫びが、虚しく宮殿に響き渡った。
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