難民の来襲
雪は止む気配を見せず、辺境伯領の国境地帯は死の静寂と白一色に閉ざされていた。
前線の砦で警戒にあたっていた長男ジークが、顔面を蒼白にして本陣の天幕に飛び込んできた。その手は、槍ではなく激しい動揺によって震えていた。
「親父殿、クロード……! 敵だ、いや、あれは軍隊じゃねえ……ッ!」
分厚い毛皮のコートを纏った次男クロードは、嫌な予感と共に天幕の外へ出た。
猛吹雪の向こう、国境線の彼方から蠢く無数の黒い影。それは武装した兵士ではない。ボロボロの衣服を纏い、やせ細り、凍えながらも亡者のように歩みを進める「民衆」の群れだった。
女、子供、老人が、雪原に次々と倒れ伏しながらも、辺境伯領を目指して押し寄せてくる。その数、数万。
「……やりやがった。神聖国の奴らめ」
当主レオンハルトが大剣を雪に突き立て、ギリッと歯を鳴らした。物理的な暴力には決して屈しない最強の武人も、非武装の赤子を抱いた母親を斬ることなどできるはずがない。
「『難民の武器化……現代における最も卑劣な戦術です」
クロードは氷のように冷たい声で、絶望的な状況を分析した。
「前回の経済戦で破綻した神聖国は、自国民を食わせることを放棄しました。そして、意図的に飢えた民衆を我が領地へと追い立てているのです。背後には神聖国の残党兵が督戦隊として控え、彼らの退路を絶っているのでしょう」
これは究極のジレンマだった。
難民を受け入れれば、中華国から命懸けで買い付けた貴重な小麦は、春を待たずに食いつくされ、辺境伯領の民ごと「共倒れ」となる。
かといって、国境を封鎖し、助けを求める彼らを雪原で見殺しにすれば、あるいは武力で排除すればどうなるか。
「我々は『非道な虐殺者』として国際的な非難を浴びる。同盟国である王国のオズワルド陛下でさえ、法と世論の盾を失い、我々を見捨てざるを得なくなる……」
クロードの言葉に、ジークが頭を抱えた。
「じゃあどうすんだよ! 斬ることもできねえ、食わせることもできねえ! このままじゃ全員雪の中で死ぬぞ!」
その時、猛吹雪の音を遮るように、静かで凛とした声が響いた。
「ええ、その通りですわ。ただ無償で施しを与えれば、我々が飢え死にするだけです」
防寒具の上に厚手の外套を羽織った母・セレスティアが、吹雪を恐れる様子もなく歩み寄ってきた。その慈愛に満ちた聖母の微笑みの奥には、冷酷無比な知略の炎が静かに燃えている。
「クロード、視点を変えなさい。彼らは『消費するだけの荷物』ではありません。神聖国という国家に属し、あちらに家屋や農地、財産を持つ『主権者』です。それを国家が一方的に放棄した。ならば――」
セレスティアは、倒れかけた難民の少女を優しく抱きとめながら、決定的な一手を口にした。
「彼らの命と引き換えに、神聖国内にある彼らの『土地の権利』をすべて我が辺境伯家が買い取ります。」
「な……母上、それは……!」
クロードの頭脳が、母の恐るべき意図を瞬時に理解し、戦慄した。
難民たちに「救済の借用書」にサインさせるのだ。
食糧と引き換えに、彼らが神聖国に置いてきた土地や家屋の所有権を辺境伯家に譲渡する。国際法上、これは正当な「私有財産の取引」となる。神聖国が国として民を見捨てた以上、民が自身の財産をどう処分しようと自由だ。
「キース」
セレスティアが虚空に声をかけると、雪と同化していた元暗殺者キースが音もなく現れた。
「神聖国の督戦隊が陣取っている後方の砦。あそこの指揮系統を全滅させなさい。時間は今夜の三時間だけ与えます」
「了解。血の凍るような夜になりそうだな」
キースは薄く笑い、再び猛吹雪の中へ消えた。
「セリア、食糧の調達は?」
「はい、お母様」
妹のセリアが、巨大な樽を引きずりながら現れた。
「小麦に、魔物の骨粉と特殊な松の樹皮を混ぜて錬金術で発酵させた生存用圧縮ビスケットです。味は濡れた泥のようですが、一本で三日は死にません。これなら備蓄の消費を十分の一に抑えられます」
「上出来です。さあ、あなたたち」
セレスティアは夫と息子たちを振り返った。
「難民たちに生存用圧縮ビスケットを配りなさい。そして、動ける者たちを編成し、『彼ら自身の領土である故郷』を取り戻すために進軍させます」
夜半。
神聖国の国境砦では、難民を追い立てていた指揮官たちがキースによる暗殺で突如として次々と謎の死を遂げ、大混乱に陥っていた。
そこへ、暗闇と猛吹雪を切り裂いて、地響きのような足音が迫ってきた。
「な、なんだ!? 難民どもが戻ってきたのか!?」
見張りの兵士が松明を掲げて絶叫する。
先頭を歩くのは、血と雪にまみれたレオンハルトとジーク。
だが、その後ろに続くのは「ただの難民」ではなかった。生存用圧縮ビスケットを胃に押し込み、辺境伯家の「借金取り」として生きる意志を取り戻した、数千の屈強な男たちである。手には農具や薪割りの斧が握られている。
「道を開けろォォ!!」
ジークの槍が砦の門を凄まじい衝撃と共に粉砕する。
本来なら兵の体力も限界に達する極寒の中、辺境で生き抜いてきた彼らの泥臭い生命力が、神聖国の残党兵を圧倒していく。
「おのれ、辺境伯め……! 難民を武装させて侵略してくるとは、国際社会が許さんぞ!」
生き残った神聖国の将校が叫ぶ。
そこに、書類の束を手にしたクロードが冷ややかに歩み寄った。
「侵略? 勘違いをしないでいただきたい。我々は『自国の領土』を視察に来ただけです」
クロードは書類を将校の顔に叩きつけた。
「この砦が建っている土地を含め、この一帯の農地・村落はすべて、今朝をもって難民たちから我が辺境伯家が債務担保として正当に買い取った私有地です。他人の土地に無断で砦を建て、居座っているのは貴様らの方だ」
「なっ……! そんな理屈が通るか!」
「王国のオズワルド陛下を頂点とする国際法廷では、通るのですよ」
その瞬間、将校の首筋に冷たい刃が突きつけられた。背後に回っていたキースだ。
「立ち退きに応じない不法占拠者は、法に従って『強制排除』だ。……大人しく荷物をまとめて出ていくんだな」
夜が明け、吹雪がわずかに弱まった。
神聖国の前線砦には、辺境伯家の旗が翻っていた。難民たちを武器として使おうとした神聖国の目論見は、逆に自国の領土を「合法的に」切り取られるという最悪の形で失敗に終わった。
砦の屋上で、クロードは凍える息を吐きながら、新たに塗り替えられた地図を見つめていた。
領土は広がった。しかし、抱え込んだ数万の領民を冬の間食わせ続けるという綱渡りの状況は、依然として変わらない。
「お疲れ様、クロード」
セリアが、熱いお茶の入った水筒を差し出す。
「親父殿とジーク兄様は、新しい領民たちと一緒に、凍った土を掘り起こして仮設の居住区を作ってるわ。叔母様たちも、魔物狩りをして少しでも肉を調達するって」
「……ギリギリの綱渡りだ」
クロードはお茶を飲み込み、冷えた胃を温めた。
敵の卑劣な罠を、冷酷な法解釈と前線の死闘で強引に食い破った。
だが、神聖国の報復はまだ終わらないだろう。彼らがこのまま黙って領土を奪われるはずがない。次はどんな手で辺境を削り合いにくるか。
極寒の空の下、辺境伯一家の過酷な冬の戦いは、まだこれからだった。
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