もういっちょ行く?
遥か東方。中華国の首都、巨大な紫禁宮の奥深く。
数万の精鋭近衛兵が幾重にも警護し、最新の防犯システムが張り巡らされた、絶対に安全なはずの皇帝の寝室。
休戦協定を結ばされた屈辱を噛み締めながらも、マオ・キンは燃えたぎる野心を胸に眠りについていた。
(今は退いてやる。だが、国内の薬を一掃し、軍を立て直せば……いずれ必ず、あの休戦ラインを越えて辺境伯の首を獲る!)
そんな覇王が微睡む、静かな夜明け前。
マオ・キンは、ふと嫌な感触で目を覚ました。
「……ん……?」
高級な絹のシーツが、ひどく冷たく、そして生温かい。何より、むせ返るような強烈な鉄の匂いが、寝室に充満していた。
隣で眠る美しい愛妾が、寝返りを打ってその「生温かいもの」に触れ、ピチャリと音を立てた。
マオ・キンは嫌な汗を掻きながら、ゆっくりと上体を起こし――己の体が、シーツを染め上げる「真っ赤な血の海」の中に浸かっていることに気付いた。
「な……ッ!?」
どこから血が? 自分は襲われたのか?
パニックに陥りそうになる思考を必死に抑え込み、彼は震える手で、血溜まりの中心にある『大きく膨らんだ布団』をめくった。
「――――――――ッ!!??」
マオ・キンの喉から、覇王としての威厳も何もない、ただの無力な一人の人間としての、悲鳴すら声にならない絶叫が漏れた。
布団の中に転がっていたのは。
彼が誰よりも愛し、大金を注ぎ込み、昨日の夕方まで厩舎で撫でていたはずの『最高級の愛馬の生首』だった。
大きく見開かれた馬の瞳が、恐怖に顔を引き攣らせたマオ・キンをじっと見つめている。
「ひ、あ、あ、あああああああああァァァッ!!!」
隣で目を覚ました愛妾が、血まみれの自分と馬の首を見て発狂したように叫び声を上げる。
外から慌てて近衛兵たちが雪崩れ込んでくるが、マオ・キンはシーツの隅に這いつくばり、ガタガタと全身を震わせることしかできなかった。
数万の近衛兵。厳重な警護。
それらをすべて音もなくすり抜け、彼が眠るベッドの中まで入り込んだ「死神」がいる。
マオ・キンの震える視線の先。
切り落とされた馬の首の断面は、ノコギリや斧で切られたものではない。まるで巨大な断頭台の刃を落としたかのような、滑らかな切り口だった。
(暗殺技術だけではない……あの『化け物の一家』が、直接ここへ来たというのか?
マオ・キンの心の中で、野心という名の炎が、バキリと音を立てて完全に折れ曲がった。
どれほど広大な領土を持とうが。どれほど強大な軍隊とシステムで国を武装しようが。
彼ら(辺境伯一家)の規格外の暴力と知略の前では、自分の命など、文字通り「相手の気分次第」でいつでも刈り取れるのだという、絶対的な現実。
(リスキーすぎる……あの一家には、絶対に手を出してはならない……ッ!)
シーツの血に塗れながら、歴史に名を残すはずだった中華国の覇王は、ただ子供のように歯の根を合わさず震え続けることしかできなかった。
◆
「……キースおじ様も、ルイーザ叔母様たちも、趣味が悪いですわ」
辺境伯領の緑豊かな中庭。
穏やかな日差しの中、ティーカップを傾けながらセリアがクスクスと笑う。
「俺は案内しただけだ。あのバカでかい軍馬の首を、音も立てずに一太刀で切り落として、寝室まで運んだのはあの母娘だからな」
キースが呆れたように、大盛りのお茶菓子を平らげているルイーザとミラを指差す。
「あら、皇帝陛下へのちょっとした『ご挨拶』ですわよ」
「うんっ! 馬のお肉、後でみんなで美味しく食べたよ!」
無邪気に笑う大剣母娘に、オズワルド王が引き攣った笑いを浮かべた。
「これでしばらくは我々に刃を向けることはないでしょう。……あれほどの恐怖を植え付けられたのですからね」
クロードが満足げに眼鏡を押し上げる。
分断された新・共和国という物理的な防波堤。
そして、皇帝の魂に直接刻み込まれた、絶対的な死の恐怖。
「よくやった、お前たち」
レオンハルトが、深く、安堵の息を吐き出しながら家族を見渡した。
「これで、我が辺境伯領と王国を脅かす悪意は、ひとまず根絶やしにした。平和の到来だ」
規格外の物理と、漆黒『深い』知略。
圧倒的な暴力を持つ大国に対して、さらにその上を行く理不尽さで局面をひっくり返し続けた辺境伯一家の戦いは、ここにひとまず終結を迎えた。
しかし、辺境伯領の彼らにも喫緊の問題があった。
ここのところの戦争や動乱で、領内の経済や産業が悪化し、人身も荒れてきていたのである。
これらの問題の対策を立てねばならなかった。
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