グレーゾーンの侵略
辺境伯領に訪れた束の間の平穏は、剣の交わらない、真綿で首を絞められるような「見えない侵略」によって早くも破られようとしていた。
◆
国境地帯の東部、旧・共和国領と接する平原。
長男ジークは、愛用の長槍を握りしめながら、目の前の光景にギリッと歯を食いしばっていた。
「……どういうつもりだ、貴様ら。ここは我が辺境伯領の土地だぞ」
ジークの視線の先には、粗末なテントや掘っ立て小屋が立ち並び、数百人規模の「村」が突如として形成されていた。彼らは旧・共和国から国境線を越え、辺境伯領の内側に勝手に居座り、あろうことか勝手に畑を耕し始めていたのだ。
「何を言うアルか。ここは古来より、我々中華国の先祖が切り拓いた神聖な土地。我々はただ、自分たちの故郷に帰ってきただけネ」
鍬を持った農民風の男が、ジークの威圧を前にしても全く悪びれず、薄笑いを浮かべて答える。
その後ろでは、女や子供までもが「不法占拠」を既成事実化するように、せっせと柵を作っていた。
「ふざけるな! 警告はこれが最後だ。今すぐ出て行かないなら、実力で排除する!」
ジークが槍を構え、闘気を爆発させたその瞬間。
「待て、ジーク。早まるな」
背後の木立から音もなく現れたキースが、ジークの肩をガッチリと掴んで止めた。
「キースおじ様! なぜ止めるんだ、こいつら完全に舐めて……!」
「奴らの『手』を見ろ。鍬を握っているのに、土汚れの奥にあるマメは『剣や銃のグリップ』で擦れた痕だ。それに、あのテントの裏……見えないように小銃が積んである」
キースの冷徹な観察眼が、偽装された農民たちの正体を見抜いていた。
「ただの民間人を装った『武装民兵』だ。しかも、よく見ろ。国境線の向こう側……あそこに望遠鏡と写真機を構えた中華国の記者や監視員が張り付いているだろう?」
キースが顎でしゃくった先には、確かにこちらの様子をじっと窺う中華国側の役人たちの姿があった。
「いいか。もしお前がここでキレて彼らを一人でも殺せば、明日の朝には『野蛮な辺境伯軍が、罪のない我が国の農民を虐殺した』という記事が世界中にばら撒かれる。それを『大義名分』にして、中華国の正規軍数百万が堂々と国境を越えてくるぞ」
「くっ……!」
ジークはギリッと唇を噛み破り、槍を下ろすしかなかった。
武力で排除すれば、大義名分を与えて全面戦争。かといって放置すれば、彼らは少しずつ柵を前進させ、領土は合法的に削り取られていく。
剣が届く距離に敵がいるのに、叩き斬ることができない。純粋な武人であるジークにとって、それはこれまでのどんな激戦よりも屈辱的な罠だった。
◆
「『サラミ戦術』ですね」
執務室に戻ったジークとキースからの報告を聞き、次男クロードが冷ややかに眼鏡を押し上げた。
「サラミソーセージを薄く切るように、一度に大きな侵略はせず、少しずつ、相手が武力行使に踏み切れない絶妙なラインで領土を侵食していく。非常に狡猾で、大国が好むグレーゾーンの侵略です」
「あーもう、イライラしますわね! 私とミラで、夜中にこっそり村ごと吹き飛ばしてきましょうか?」
ルイーザが物騒な提案をするが、クロードは首を振った。
「ダメです。奴らは被害者になりたくて仕方がないんですから。ルイーザ叔母様たちが動けば、それこそ相手の思う壺です」
「……問題は、それだけではありませんわよ」
そこに、分厚い測量図を抱えた長女セリアが、いつになく険しい表情で執務室に入ってきた。
「クロードの言う通りですわ。奴らの狙いは、国境の村だけではありません。……これを見てくださいな」
セリアが広げたのは、辺境伯領の豊かな農業を支える巨大な水源『大河ロータス』の水系図だった。
「ここ数日、川の水位が不自然に低下していましたの。不審に思って水源地……今は中華国の属国となった共和国の山岳地帯に斥候を出したところ、とんでもないものが建設中でしたわ」
「何を作っているんだ?」
レオンハルトの問いに、セリアは重々しく口を開いた。
「……山と山を塞ぐような、規格外の巨大な『ダム』ですわ」
その言葉に、執務室の空気が凍りついた。
「なっ……! 上流をあんな大国に押さえられた状態で、ダムなんか作られたら……!」
ジークが青ざめる。
「ええ。完全な『水資源の兵器化、環境侵略』です」
クロードが測量図を指差しながら、その絶望的な意図を解説した。
「奴らが水門を閉じれば、我々の領地の畑は干上がり、農作物は全滅して干殺しにされます。逆に、雨季に合わせてわざと水門を全開にすれば、人為的な『大洪水』が発生し、我々の防衛陣地も村も、すべて濁流に飲み込まれる」
「抗議はできないのか? 国際法に違反しているだろう!」
同席していたオズワルド王が眉間を揉みながら言うと、クロードは冷たく鼻で笑った。
「無駄です。奴らは『これは自国の領土内で行っている、平和的な洪水対策の公共工事だ』と主張するに決まっています。そして、我々がダムを破壊しようと手を出せば、やはり『先制攻撃』と見なされます」
農民に偽装した民兵による、少しずつの領土侵食。
そして、地形と環境そのものを兵器とした、巨大ダムによる首絞め。
どちらも武力行使のラインを下回る「グレーゾーン」でありながら、確実に辺境伯領の命脈を断つための完璧な布陣だった。
「……中華国皇帝、マオ・キン。武力だけで突っ込んできたフーニンとは次元が違う。こちらの『規格外の個の力』を警戒し、一切の剣を交えることなく、法と大義名分を盾にして我々を緩やかに殺しにきている」
レオンハルトが、巨大な大剣の柄を握りしめながら低く唸った。
相手は姿を見せない。
叩き斬るべき首は、法と国境の向こう側で安全に守られている。
これまでは圧倒的な物理の力と、それを活かす知略で全てを粉砕してきた辺境伯一家だったが、今回ばかりは「暴力が通用しない盤面」に完全に絡め取られていた。
沈黙が落ちる執務室。
だが――その重苦しい空気を破ったのは、次男クロードの、氷のように冷たい、しかしどこか楽しげな笑い声だった。
「ククッ……素晴らしい。ええ、本当に素晴らしいですよ、マオ・キン。私のような若造に、国家という巨大な力を使った『盤面の制圧』のお手本を見せてくれるとは」
「クロード……?」
「心配いりませんよ、父上、兄さん」
クロードは眼鏡の奥の瞳に、暗殺者であるキース以上に冷酷な光を宿し、地図上の『中華国の民兵村』と『巨大ダム』に駒を置いた。
「奴らが『グレーゾーン』と『法の抜け穴』でゲームをしたいと言うのなら、付き合ってやりましょう。武力で手を出してはいけない? ――ええ、そのルールは守って差し上げますとも。奴らが自ら『助けてくれ』と泣き叫び、ダムを壊して逃げ出すような、極上の『適法な嫌がらせ』を用意してやりますよ」
武力が通じないなら、さらにその上を行く知略と盤外戦術で迎え撃つのみ。
しかし、若き天才参謀が予想していた中で最悪の罠がまさに今、発動しようとしていた。
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